概要
天保2年(1841年)、京都の医師・楢崎将作の長女に生まれる。将作は皇族の青蓮院宮(朝彦親王)の侍医を努め、安政年間には京都で活動した尊攘志士と交流したが、安政の大獄に巻き込まれ、出獄後の文久2年(1862年)6月に病死。お龍は母と協力して家族を養った。
文久3年(1863年)の末頃から元治元年(1864年)前半頃に、七条の宿屋扇岩で奉公していた際に坂本龍馬と知り合いになり、お龍自身の回想によると、母親が坂本に一家の不遇を話すと「お前の娘を私にくれんか。さすれば及ばずながら力にもなってやろう」と言われ、母親と共に承諾したという。
8月に金蔵寺という寺の住職に仲人をしてもらい、本堂で内祝言を上げたが、幕府の追及を逃れるため坂本のはからいで伏見の寺田屋に預けられ、女将のお登勢の世話になる。
慶応2年(1866年)1月、寺田屋を伏見奉行所の捕吏が占拠した際は、風呂から飛び出して2階にいた坂本と三吉慎蔵に危機を伝え、寺田屋を脱出して伏見の薩摩藩邸に救助を求めた。薩摩藩邸に匿われていた間に坂本と正式に結婚したとする説がある。
2月末に西郷隆盛や小松帯刀に引率されて鹿児島に向かい、1ヶ月ほどの間坂本と鹿児島で静養した。この時の体験が後年坂崎紫瀾の『汗血千里の駒』で「ホネームーン」(ハネムーン)と称され、日本における最初の新婚旅行と呼ばれるようになった。
慶応3年(1867年)2月、下関の伊藤助太夫の家に預けられた。12月、坂本が京都で暗殺された事を三吉から伝えられる。この時お龍は夢の内容で坂本の死を予感していたと語っている。その後三吉に引き取られ、翌年に三吉の手で高知の坂本家に移ったが、坂本の兄や姉と折り合いが悪く、明治3年(1870年)に坂本家を出る。以後は元海援隊士で妹の夫でもある千屋寅之助の家や京都・東京など各地を転々とし、明治8年(1875年)、大道芸人の西村松兵衛と再婚、西村ツルと改名。横須賀で生活した。
晩年、海援隊士の子息や川田瑞穂(明治期の漢学者)が取材に訪れ、坂本との思い出話を聞き書きし、雑誌・新聞に掲載された。
明治39年(1906年)1月15日、死去。享年66。死後、夫の松兵衛の募金によって、「坂本龍馬の妻」と刻まれた墓碑が建てられた。
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