榎本喜八(えのもと きはち)とは、毎日オリオンズ(現在は千葉ロッテマリーンズ)などで活躍していた元プロ野球選手である。
一番最初に安打製造機と呼ばれた選手である。
概要
- 1936年生まれ。2012年没。東京都出身。
- 毎日オリオンズの入団テストを受けて合格、開幕戦から五番を務める。一年目から活躍して新人王に選ばれる。現在も高卒新人記録を多数保持している。(詳細はウィキペディアを参照。)
- 史上最年少1000安打(24才と9か月)、そして史上最年少2000本安打(31才と7か月)達成者である。(2000本安打はNPB記録。MLB通算ならイチローが最年少となる。)
- 王貞治を育てたことで有名な荒川博の弟子。つまり王の兄弟子(王の出身校早稲田実業の先輩でもある)。
- 張本勲、イチロー等安打製造機と称される選手は複数いるが、榎本こそ「初代」安打製造機である。
- 合気道を取り入れたトレーニングを行っていた。
- 「絶対にボール球には手を出さない」と評される驚異の選球眼を持ち、当時の対戦投手・捕手からもっとも恐れられた打者である。記録で見るとアベレージヒッターのような傾向であるが、ほとんど常にフルスイングで、しかもチームで最も遅いと言われるほどの鈍足選手であった為、出塁記録は大体外野へのライナーであった点に注意したい。
- 本人の談によるとルール上のストライクゾーンとは別に、その日の調子や相手投手によってcm単位で変動する「俺ストライクゾーン」を持っており、その範囲の打球を打っていたらしい。
- 苦手な球がほとんど存在しなかったといわれる。最も打ちにくい球は何かという質問にはストレートと答えているが、理由は「変化球は遅いのでいくらでも打てる」だったという。
- 極めて変わり種の選手であり、試合中に座禅を組んで瞑想しだす、いきなり奇声を上げる、バットでガラスや家具を壊す、猟銃を持って家に立てこもる等している。
- もっとも後者2つについては、晩年に差し掛かり力が衰え始め納得できるバッティングが出来なくなった事と、超難解な打撃理論を理解できる人が居なくなり、精神的な余裕が無くなってしまった為とも言える。
- 名球会に一度も出席してない為、脱会扱いである。その他TV新聞マスコミにでる事は全くといっていい程出る事はなかった。(ニコニコ市場の「打撃の神髄-榎本喜八伝」も取材に物凄く苦労したそうである。)
- コーチになりたがっていたが、どこからも声がかからなかった。上記の性格と卓越しすぎた打撃理論の為。
- かの大投手「鉄腕」こと稲尾和久がライバルと認めたほどの大打者で、榎本の為のみにフォークボールをマスターしたと言う逸話がある。名捕手野村克也もまた、「榎本ほど捕手として対決したくない打者はいない」と著書でたびたび述べている。
関連動画
関連商品
関連コミュニティ
関連項目
- 0
- 0pt