横浜DeNAベイスターズ単語

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ヨコハマディーエヌエーベイスターズ
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横浜DeNAベイスターズ(よこはまディーエヌエーベイスターズ)とは、日本プロ野球セントラル・リーグの一球団である。

本拠地は横浜スタジアム現在監督三浦大輔2021年~)。

概要

セントラル・リーグ
横浜DeNAベイスターズ
基本情報
創設 1950年
本拠地 横浜スタジアム
一般略称 DeNA
アルファベット DB
優勝回数
リーグ優勝 2回
日本一 2回
セ・パ交流戦 1回
アジアチャンピオン 0回
経歴
球団組織
オーナー 南場智子
運営 DeNA
プロ野球球団テンプレート

2リーグ制の開始(1950年)と共に創設され、大洋ホエールズとしてセントラル・リーグに加入した。創設時のフランチャイズ山口県下関市、本拠地は下関市球場であった。

セ・リーグは西日本パイレーツの消滅(西鉄クリッパースとの合併)により対戦カードが組みづらくなっており、1952年の開幕前に勝率3割に満たない球団にペナルティを与えるという申し合わせがなされた。結局、松竹ロビンス(初代セ・リーグ優勝チームであった)がこの数字を満たせず、交渉の結果大洋との合併を受け入れ、翌1953年シーズンから大洋松竹ロビンスとして活動することとなった(1年間の移行期間を挟んで、正式に大阪球場に移転)。しかし、松竹側に球団経営への熱意が元々なかった(松竹ロビンスは田村駒との共同経営であり、本業の経営難もあって田村駒は泣く泣く撤退)ことからわずか2年で共同経営から撤退、球団は1955年より再び大洋ホエールズに戻った。これと同時に、フランチャイズ川崎球場に移転した。

ロビンス最終年から1959年まで6年連続最下位と低迷するが、その年のオフ西鉄ライオンズ監督三原脩の招聘に成功する(実際には前年に交渉には成功していたが、契約前に話が漏れ、1年間延期になっていた)。1960年エース秋山登がいきなり負傷離脱するという波乱の幕開けであったが、復帰後は酷使によく耐え、また三原監督の巧みな選手起用もあって1点差試合に33勝17敗という強さを見せ、ついに初優勝を果たした。日本シリーズでも大毎オリオンズを全て1点差で4連勝で下し、初の日本一いた。

その後も1962年1964年優勝争いするなど健闘したが、秋山の衰えとともに投手一気に弱体化し、1971年の3年連続3位を最後に低迷期に突入する。そんな中、1978年横浜市中区工した横浜スタジアムへ本拠地を移転し、球団名を横浜大洋ホエールズ称した。1979年2位1983年と90年に3位になった以外は(最下位は3回に留まったものの)Bクラスを彷徨い続けた。

1992年会社・マルハの社名称およびCIに伴って横浜ベイスターズ称。2002年、球団の筆頭がマルハからTBSグループとなったが、この際には球団名の変更等はかった。そして2011年、筆頭DeNAとなり、翌年2012年シーズンから現在横浜DeNAベイスターズとなった。略称横浜からDeNAに変更。アルファベットはDだと中日ドラゴンズと被るため、DBとなっている。

大洋ホエールズ時代から数えても、優勝回数はたったの2回(三原脩監督時の1960年権藤博監督時の1998年)。でも、日本一の回数も2回。日本シリーズには強い。2002年から本格的な低迷が始まり、21世紀になってから2015年までの15年間でBクラス13回、うち最下位10回というどん底の暗期に突入していた。2019年6月15日の敗戦でプロ野球史上初の5000敗記録し、2022年シーズン終了時の通算5234は12球団最多の負け数である。さらに2021年オリックス優勝したことにより、12球団で最も優勝から遠ざかっている球団となった。
ただし、セ・パ交流戦については2023年に初優勝し、セ・リーグとしては3球団優勝となっている(他は巨人ヤクルト)。

基本的に打高投底のチームであり、1998年優勝時にはマシンガン打線として怖れられた。その一方、常に投手不足に悩まされ続けており、低迷の原因になっていた。生え抜き投手で2桁勝利を達成した投手が、2002年吉見祐治から2014年井納翔一までの間、10年以上にわたって三浦大輔しかいなかったというあたりからお察しいただきたい。それを手伝うように守備もお粗末で、特にセンターラインの貧弱さが課題であった。2008年から2012年までの5年連続最下位の頃には打撃成績も地の底を這い、脱出口の見えない暗が続いていた。

TBS時代には、選手がFAやトレードで移籍する度に球団のあり方について苦言を呈す、あるいは批判することも多かった。
特に2010年オフFAソフトバンクに移籍した内川聖一横浜チーム体質を痛批判。さらにはソフトバンク内川からベイスターズの現状を聞き、チーム体質の善に使うと球団自らが表明した。余談だがその体質についてはDeNA初代監督中畑清いわく「小学生みたいなルールを作らないといけなかった」、三浦大輔いわく「他球団の関係者から心配された」惨状だったという。

しかし、DeNAへの球団譲渡をきっかけに本格的なチーム再建が始まり、球団経営の革も行われ観客動員数も大きく増加した。そして2016年に11年ぶりにAクラスに復帰。2017年には3位ながらクライマックスシリーズ広島東洋カープを破り、19年ぶりの日本シリーズ進出を果たした(2勝4敗で福岡ソフトバンクホークスに敗れ日本一はならず)。まだまだ発展途上ではあるが期待の若手も多く、長年の暗とりあえず脱したと言っていいだろう。余談ながらほとんどの年にて1試合、南場智子オーナーの出身地である新潟ホームゲームを開催している。

2012年から、セ・リーグの球団としては初めてニコニコ生放送ホームゲーム全試合の無料配信を行っている。
DeNAニコ生中継では、映像TBSと球団が制作した共同映像TBSグループの中継映像と、各局に配信する映像として使用。中継用の各種テロップTBSグループの中継映像で使用しているものを一部使用)を使用するが、音ニコニコ独自制作で、フリースポーツアナウンサー実況を担当している(石原敬士節丸裕一加藤暁熊谷龍一ら)。
ニコ生でのホームゲーム中継無料配信はDeNAに先駆けて東北楽天ゴールデンイーグルス2009年途中から行っており、一時期は福岡ソフトバンクホークスオリックス・バファローズも行っていたが、楽天戦の中継も2017年で終了し、現在ニコ生プロ野球中継を行っているのはDeNAのみ。
また、Abema TVでも2017年からホームゲーム中継の無料配信を行っていたが、2018年終了後に撤退。

親会社の変遷

会社は、球団創設の1950年から1992年までは大洋漁業で、球団名の「大洋ホエールズ」および「横浜大洋ホエールズ」は、かつて大洋漁業の基幹事業だった捕鯨に因むものだった。大洋漁業1993年の商号変更に伴ってマルハとなり、この際に球団名も前述の「横浜ベイスターズ」に称した。市民球団化という側面も若干あったとはいえ、実際のところはマルハの社名称とCIによるところが大きかった。蛇足だが、当時マルハ社内では単に社名を省いた「横浜エールズ」を補としていたものの、1980年代半ばに商業捕鯨事実上禁止された背景もあって、結局球団名も全面的に称されるに至った。

かつて大洋ホエールズには、当時西武グループの中核企業だったコクドが45出資していたが、1978年に全株式ニッポン放送東京放送TBS)に売却している。これは、同年にコクドクラウンライターライオンズを買収するにあたって、野球協約で定められている「球団株式の二重保有の禁止」に抵触するのを回避するための措置であった。同年開場した横浜スタジアムの建設事業にはコクドも深く関わっており、ホエールズの横浜移転にコクドの強いがあったことは想像に難くない。

しかしマルハはバブル経済崩壊以降、深刻な経営不振に陥り、合理化策の一環として球団経営から撤退。保有する全株式2002年TBSBS-i現在BS-TBS)に譲渡され、2009年TBSグループの持ち制移行により、TBS保有の球団株式は、TBSの商号変更により発足した放送持株会社東京放送ホールディングスTBSHD)が継続保有することになった。

このマルハからTBSグループへの球団譲渡の際、マルハは全株式を第2位ニッポン放送に売却する方向で一度は話がまとまったが、当時ニッポン放送子会社であったフジテレビヤクルトスワローズの大でもあり、フジサンケイグループ下の2社が複数球団の経営に関わる可性が生じることから、球団株式の二重保有に抵触することが問題となり、結局第3位TBSグループに売却されることとなった。

また2005年には楽天TBS株式を大量に取得して筆頭となり、TBS側に経営統合を申し入れた。だが楽天は同年シーズンから東北楽天ゴールデンイーグルスを保有してNPBに新規参入しており、これも球団株式の二重保有に抵触する可性が生じた。のちに楽天側は経営統合提案を撤回して業務提携の申し入れに切り替えたものの、その後もから賛同を得られなかったのに加え、TBSグループの持ち制移行などもあって、楽天側はTBSグループへの出資を断念し、この問題は収束を見ている。

そんなTBSグループ2000年代後半から業績が悪化、2010年オフには住生活グループ現在LIXILグループ)と球団株式の売却交渉を行うも、他都市への本拠地移転をする住生活G側との溝が埋まらず、交渉は決裂。加えて本拠地である横浜スタジアム2010年契約が切れたにも関わらず契約更新せずに違法に使用を続けるという始末。

結局2年越しのすったもんだの末、2011年DeNAへの球団株式譲渡が決定。12月1日オーナー会議及び実行委員会の承認を経て、12月2日DeNATBSグループから株式を取得し「横浜DeNAベイスターズ」が発足した。同時に横浜スタジアム使用契約晴れ更新した。ちなみにDeNA2015年横浜スタジアム運営会社を買収して横浜DeNAベイスターズの子会社とすることに成功したほか、横浜DeNAベイスターズ単体での黒字化も達成している。

関係者

首脳陣

一軍 二軍・育成

所属選手

※トレード、自由契約などの異動については、NPB公示exitがあるまで編集しないでください。
ドラフト名を受けた新入団選手は入団発表後に追加してください。

支配下選手
投手 捕手 内野手 外野手
育成選手
投手 捕手 内野手 外野手

記事のある球団スタッフ

ベースボールスクール・ジュニアチーム

OB・関係者

あ行 か行
さ行 た行
な行 は行
ま行 や行
ら行 わ行

戦績

横浜ベイスターズ時代

詳細

1993年(57勝73敗、5位 勝率.438) 監督:近藤昭仁

ベイスターズ1年となった1993年監督には1960年優勝時のメンバーであり、常勝西武巨人コーチを務めた近藤昭仁監督に招聘した。
前年打点王いたラリーシーツの残留交渉には失敗したものの、巧打者のロバート・ローズ、強打者のグレン・ブラッグスの獲得に成功する。ローズの獲得に伴い、守備が衰えた高木豊サードコンバートにされる(悪送球を連発し、途中からファーストに再コンバートされた)。
投手の底上げが不十分な上に、前年佐々木主浩と共にダブルストッパー体制を確立した盛田幸妃が自トレ中の怪で出遅れ、チームも横浜大洋時代から3年連続の5位に終わる。

この年から始まったFA制度により、巨人駒田徳広を獲得し、ドラフト会議では波留敏夫を獲得。
一方で、先発リリーフで長年チームを支えた斉藤明雄引退し、300盗塁を達成した高木豊屋鋪要などの選手の解雇も行った。 

1994年(61勝69敗、6位 勝率.469) 監督:近藤昭仁

今度は佐々木主浩が故障で出遅れてしまい、またしてもダブルストッパーは並立せず。
チーム若返り策の最中であった横浜は若手中心の起用を行っていき、序盤・中盤は3・4位を行き来するような成績であったが、終盤で脱落し、ゲーム差9.0の最下位となってしまった。

ドラフト会議では多村仁志相川亮二という、後にとして活躍するメンバーを獲得している。

1995年(66勝64敗、4位 勝率.508) 監督:近藤昭仁

ついに盛田・佐々木ダブルストッパー復活し、16.0ゲーム差の4位に沈むも、12年ぶりの勝率5割復帰を果たす。
盛田幸妃は8勝5セーブ防御率1.97、佐々木主浩は7勝32セーブ防御率1.75という見事な成績を残すが、チーム一の10勝投手中継ぎ島田直也という全なリリーフ依存投手編成であり、先発の弱さは相変わらずであった。
打線では後の首位打者である鈴木尚典レギュラーに定着するなど、将来に希望を持たせるシーズンであったが、近藤監督は任期満了で監督辞任となり、後任にはバッテリーコーチであった大矢明彦が就任。

ドラフト会議では鶴岡一成、後に日ハムで最優秀救援投手いた横山道哉らを獲得している。また、ヤクルトから荒木大輔が移籍してきた。

1996年(55勝75敗、5位 勝率.423) 監督:大矢明彦

大矢監督は就任盛田幸妃先発転向、ロバート・ローズ石井琢朗進藤達哉コンバートするも失敗。結果、ローズセカンドに戻り、石井進藤ポジションを入れ替えただけに終わった。

チーム成績は低迷し、結果的にセリーグ全球団から負け越してしまい、最下位阪神とは1ゲーム差の5位となり6年連続のBクラスに終わってしまった。
数少ない希望として、この年斎藤隆が自身初の2桁勝利である10勝を達成した。

シーズンオフ投手のテコ入れのために権藤博バッテリーチーフコーチとして招聘した。

1997年(72勝63敗、2位 勝率.533) 監督:大矢明彦

権藤博バッテリーチーフコーチの加入により投手が整備され、一時は首位ヤクルトを脅かす追随を見せるも失速し、結果的には首位と11.0ゲーム差の2位となる。しかし1990年以来7年ぶりのAクラス復帰を果たした。オフコーチ人事を巡るフロントとの対立で、大矢明彦監督が退任し、後任には権藤コーチが昇格した。
この年、ついに鈴木尚典ブレイクする。打率.335首位打者を獲得し、21本塁打記録した。
ネガティブ話題としては、9月2日ヤクルト石井一久ノーヒットノーランを喫している。

シーズンオフ先発転向以降低迷していた盛田幸妃近鉄バファローズ放出し、中根仁を獲得した。

1998年(79勝56敗1分、優勝 勝率.585) 監督:権藤博

シーズン序盤は4位と不調であったが、6月から「マシンガン打線」が爆発6月20日6月以降では1979年以来19年ぶりの首位となり、以降は一度も首位の座を譲ることなく、10月8日1960年以来38年ぶりの優勝を決める。
日本シリーズでも西武を4勝2敗で退け、日本一となった。 

ドラフトでは古木克明金城龍彦小池正晃などを獲得。

1999年(71勝64敗、3位 勝率.526) 監督:権藤博

チーム打率が.294という数字叩きだして『マシンガン打線』をいかんなく発揮するも、チーム防御率が4.44のリーグ5位と悪かったため、1位中日に10.0ゲーム差を付けられてしまった。

オフ1998年日本一に貢献した佐々木主浩シアトル・マリナーズに移籍。ロッテから小宮山悟を獲得した。

2000年(69勝66敗1分、3位 勝率.511) 監督:権藤博

金城龍彦打率.346で史上初の首位打者+新人王のダブルタイトルを獲得した。この年は優勝争いに絡むことはなかった。 権藤博が勇退し、後任には西武黄金時代を作り上げた森祇晶が就任した。

ドラフト会議では内川聖一吉見祐治を獲得。ロバート・ローズが年俸交渉の決裂により、駒田徳広が球団や首との対立により退団(駒田は所属先が決まらずそのまま引退)。進藤達哉ら3選手がトレードでブルーウェーブへ移籍し、小川博文ら3選手が加入、島田直也自由契約スワローズへ移籍した。

2001年(69勝67敗4分、3位 勝率.507) 監督:森祇晶

勝率広島東洋カープの方が上だったが、勝利数が広島を上回っていたため、3位となった。

シーズン序盤に波留敏夫放出種田仁山田博士を獲得。オフには正捕手を務めていた谷繁元信中日ドラゴンズに移籍し、中日で正捕手を務めていた中村武志銭トレードで獲得。メジャーリーグ挑戦のため小宮山悟が退団した。

2002年(49勝86敗5分、6位 勝率.363) 監督:森祇晶

この年はどうしようもない貧打に見舞われた。チーム打率セリーグの他球団が軒並み.250える中わずか.240、チーム得点数はセリーグ6球団で500を下回る472点。チーム最高打点はボイ・ロドリゲスの60打点であった。そんな中、古木克明100打席で.320、9本塁打の好成績を、吉見祐治が規定投球回に到達し11勝8敗を記録横浜ファン希望となった。結局、全日程を最下位で終えるほどの低迷に終わり、は解任。後任に山下大輔が就く。

オフにはデニー友利が復帰。ドラフト会議村田修一加藤武治吉村裕基武山真吾を獲得。

長年エースとして活躍した野村弘樹マシンガン打線の左キラーとして活躍した中根仁引退した。

2003年(45勝94敗1分、6位 勝率.324) 監督:山下大輔

1970年ヤクルト以来の90敗に到達してしまったが、タイロン・ウッズが40本塁打を放ってホームラン王を獲得。

近鉄バファローズから門倉健を、シアトル・マリナーズに移籍していた大魔神こと佐々木主浩を獲得した。

2004年(59勝76敗3分、6位 勝率.437) 監督:山下大輔

シーズン終盤まで広島と5位争いを繰り広げるが、最終戦で敗れ、3年連続の最下位となった。山下大輔が任期満了で監督を退任。なぜか最終戦では胴上げが行われた。後任に牛島和彦が就任。

ストッパー補としてマーク・クルーンを獲得。ドラフト会議では那須野巧藤田一也石川雄洋を獲得する。中村武志銭トレードで新規球団の東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍。この年もホームラン王を獲得したウッズとは契約に至らず、ウッズは中日に移籍する。

2005年(69勝70敗2分、3位 勝率.496) 監督:牛島和彦

勝利数はヤクルトスワローズに劣ったものの、2001年と違い、勝率ヤクルトより上回っていたため、4年ぶりのAクラス。一時暗期を脱出する。

佐々木主浩引退。「たった一度でいいからメジャーで投げたい」と斎藤隆メジャーリーグ挑戦を表明し退団。ドラフト会議では高宮和也山口俊黒羽根利規を獲得。

2006年(58勝84敗4分、6位 勝率.408) 監督:牛島和彦

村田修一吉村裕基が台頭したが、2年ぶりの最下位に転落。はこの責任を取り退任。後任には10年ぶりの復帰となる大矢明彦が就く。

ドラフト会議では高崎健太郎下園辰哉梶谷隆幸を獲得。多村仁との交換トレードで寺原隼人小田嶋正邦とのトレードで仁志敏久を獲得し、門倉健FAによる人的補償工藤公康を獲得。

2007年(71勝72敗1分、4位 勝率.497) 監督:大矢明彦

開幕戦で三浦大輔高橋由伸に開幕戦初球先頭打者本塁打を浴びるというスタートを切ったものの、そこから勝ち負けを12試合続けて交互に繰り返す記録を作ったりしつつ、一時は首位にも立った交流戦では、オリックス・バファローズ戦において椎野茂毒舌実況を繰り広げる。

前半戦を3位で折り返したものの、場から失速。それでも三浦大輔が35イニング連続失点の記録を作ったりもして、終盤には失速した阪神背中が見えるところまではつけた。結局最終戦に敗れてシーズン勝ち越しは逃したものの、71勝72敗1分、前年最下位から4位に躍進した。

しかしオフには、守護マーク・クルーン読売ジャイアンツに移籍する。

ドラフト会議では、センバツ優勝投手田中健二朗高校生一巡名した他、大田阿斗里桑原謙太朗小林太志らを獲得した。

2008年(48勝94敗2分、6位 勝率.338) 監督:大矢明彦

結局クルーンの抜けたを埋められる気配のないまま、立った補強もなく開幕を迎える。開幕カード阪神だったが、阪神キラー三浦が出遅れ開幕投手寺原が務めることに。この3連戦で3連敗すると、その後は浮上のきっかけすら掴めないままぶっちぎりの最下位に低迷する。
移籍したクルーン埋めのために、ローテーションピッチャー寺原ストッパーに配置換えするも、登板機会が少なく「ハマのヒ魔神」と揶揄される。

内川聖一が最終的に右打者の歴代最高打率となる.378を記録村田修一が2年連続本塁打王になるなど中軸は奮闘したものの、投手が出れば打たれる壊滅状態に陥り、継投の拙さ、裏に出続ける采配によるあまりの負けっぷりに大矢監督は「やる大矢」として2ちゃんねる野球ch人気キャラにまでなってしまった。何とかシーズン100敗は免れたが、内川打率を下回る勝率.338という2リーグ制以来初の不名誉な記録も作ってしまう。

これだけの惨敗を喫したにも関わらず大矢監督は3年契約のため続投が決定。さらに正捕手相川亮二FA宣言ヤクルトに移籍。シーズン中に2番手捕手鶴岡一成をトレードで巨人放出していたため、阪神からFA宣言した野口寿浩を獲得する。また石井琢朗が戦外となり広島に移籍した。

特に一軍経験の長かった相川鶴岡の2捕手がいなくなってしまったは大きく、これ以降長きにわたり正捕手不在に悩まされ続けることになる。

他、ドラフトでは即戦選手の獲得を的として、大学社会人から、松本啓二朗藤江均山崎憲晴細山田武史小杉陽太らを名した。

この年限りで鈴木尚典川村丈夫引退した。

2009年(51勝93敗、6位 勝率.354) 監督:大矢明彦→田代富雄(代行)

WBCで故障した村田を欠いたまま開幕を迎え、案の定と言うべき開幕6連敗を喫し、その後も浮上のきっかけすら見い出せずシーズンが終了する。正捕手として獲得した野口は衰えが隠せず々に二軍落ち、捕手武山真吾ルーキー細山田武史の併用となった。

5月18日には々と大矢明彦監督の休養(要するに解任)が決定。何のための続投だったのか。その後は二軍監督田代富雄監督代行を務め、打撃重視の選手起用で建て直しを図るも機せず、またしてもシーズン90敗をえ5位争いすら出来ず断トツの最下位に沈んだ。

2年連続のお荷物っぷりに、オフにはフロントが刷新され、新監督にはダイエーソフトバンク巨人などで投手コーチとして抜群の実績を誇る尾花高夫の就任が決定。

ドラフトでは投手の補強を叫ばれる中、1位筒香嘉智名、2位加賀繁、育成1位国吉佑樹を獲得。当時は非難の的となったドラフトだったが、数年後実を結ぶことになる。

佐伯貴弘戦力外通告を受け中日へ移籍。ロッテから清水直行早川大輔をトレードで、橋本将FAで獲得。日本ハムからはターメル・スレッジ稲田直人坂元弥太郎らを獲得と、稀に見る大補強を敢行。例年巨人阪神が盛り上げるストーブリーグにおいて一躍役に躍り出た。ついにチーム再建なるかと期待されたが…。

2010年(48勝95敗1分、6位 勝率.336) 監督:尾花髙夫

監督尾花髙夫ヘッドコーチ島田誠と、福岡ダイエーホークス黄金期を支えたコーチが満を持しての揮。開幕直後は先行ではあったものの、広島ヤクルトがそれ以上に惨憺たる状況だったため、2年ぶりに最下位を脱出し一時は4位にもなった。

しかしそれも交流戦まで。交流戦で最下位に沈むと、あとはいつものベイスターズだった。エース三浦大輔が故障で絶不調、昨年ローテの救世主となったランドルフは全く勝てず、名した寺原早人名前の通り々に戦線離脱。4番の村田修一も故障で不振に陥り、吉村裕基は前年以上の大不振で僅か49試合3本塁打FAで獲得した橋本将も怪で正捕手とはなれずと、となるべき選手に故障、不調が相次ぐ。

ルーキー加賀繁が惨憺たるムエンゴながらローテーション投手として奮闘、途中入団のブレット・ハーパークルーンから逆転サヨナラ満塁弾を放つなど大活躍、石川雄洋藤田一也らが成長を見せるなどの明るい材料もあったが(藤田ホセ・カスティーヨとのポジションの兼ね合いで出場自体は少なかった)、もはや負け全に染みついているというレベルで勝てなかった。投手清水直行の10勝11敗が勝ち頭、大家友和が7勝と奮闘するも、3番寺原の4勝という時点でその絶望度は察していただけるだろう。また、守備も左からスレッジ・下園・内川という外野を始め、カスティーヨと石川の不安な二遊間、捕手は当時リードを酷評されることが多かった武山、と三塁手村田修一以外は全てと言われるほどのファイヤーフォーメーションっぷりも負けに拍がかかった。

絶望的な投壊状態だった広島からさらに10ゲーム差以上離される最下位をひた走り、最終的に3年連続の最下位。しかも史上初の3年連続90敗という不名誉な記録を打ち立ててしまった。

そしてシーズン終了後に球団売却騒動が巻き起こる。
横浜スタジアム異常球場利用契約話題となり、買収に名乗りを上げた住生活グループは移転を示唆。これに反発した横浜スタジアム経営横浜市は執拗な妨を繰り広げ、ついに住生活グループは球団買収を断念する。2011年TBSHDが球団を保有することが決定。

内川聖一が「優勝争いできるチームで戦いたい」とFA宣言福岡ソフトバンクホークスに移籍。入れ替わり北海道日本ハムファイターズからFA森本稀哲を獲得。トレードでは寺原早人高宮和也野中信吾桑原謙太朗オリックス放出し、山本省吾喜田剛一輝を、楽天からは銭で渡辺直人を、そして西武からは弥太郎放出して総帥大沼幸二を獲得した。

2010年ドラフトでは1位須田幸太2位加賀美希昇カロカロ、3位で荒波翔を獲得。
2009年ドラフト時とは異なり、育成よりも即戦(特に投手)を重視したドラフトとなった。

2011年(47勝86敗11分、6位 勝率.353) 監督:尾花髙夫

2010年オフ先発投手を多数獲得したため、先発投手であった加賀繁キャンプ中に再度中継ぎに転向。オープン戦初日に巨人勝利し、幸先のよいスタートを切る。

しかし、よかったのは序盤だけであった。2010年オフに加入し、開幕投手を任された山本省吾炎上、さらには清水直行大家友和の不調など、先発投手が序盤でKOされる試合が続出。
このためほぼ毎試合中継ぎ投手を大量に起用する羽になり、江尻慎太郎加賀繁(この時は中継ぎ)に至っては阪神タイガース所属の久保田智之の持つ90試合登板記録更新できるペース登板させられていた(当然両者とも故障した)。

去年に続いて村田修一が不振に陥るが、スレッジ、ハーパーの活躍もあって一時総得点が両リーグ一位になるなど開幕から打線は好調であった。5月には昨オフから所属だった中村紀洋を獲得。
ところが、打線が好調だったのはシーズン序盤までで、シーズン後半になると最下位が確定したこと等のか、打線が低調になり、球団別の打撃成績でも中日とワーストを争う程に。
投手成績でも全球団最下位の成績という有様に加えて、6回3失点(QS)できる先発投手がほぼいない状況では、去年に続いて最下位になるのも当然の結果であった。

しかし、福島第一原発事故を発端とした節電対策に伴い創設された3時間半ルールの恩恵とはいえ4年連続90敗の記録ストップ。ただし、勝率自体は過去3年と大して変わっていない。

オフ、身売り問題が再燃。Mobageで有名なDeNAが手を挙げ、球団名を「横浜モバゲーベイスターズ」にしようとしたり、GREEと提携している楽天TBS買収失敗の遺恨もあってかDeNAの参入に反対したりと色々と揉めたものの、最終的に「横浜DeNAベイスターズ」として球団売却が成立、承認された。

高田繁ゼネラルマネージャーに就任し、尾監督契約を1年残して解任。工藤公康監督就任が決まりかけたものの、寸前でご破産になるなど監督人事に難儀したが、中畑清が新監督となった。

ハーパースレッジが退団、村田修一FA宣言して読売ジャイアンツに移籍、真田裕貴メジャー移籍をし退団。西武からトレードで後藤武敏を獲得。村田に代わるとして巨人を退団したアレックス・ラミレスを、村田人的補償藤井秀悟を獲得。過去にトレードで放出した鶴岡一成小池正晃FAで再獲得し、日本ハムを戦外になった林昌範菊地和正広島を退団したジオ・アルバラードを獲得。

ドラフトでは即戦められるなか、なんと9人中8人の高校生を獲得。名選手は2位高城俊人、4位の桑原将志、5位の乙坂智など。

不足にあえぐチーム事情にもかかわらず、9人中8人が高校生という名内容には疑問が呈されたりもした。この辺りのTBS末期ドラフト戦略は、2014年オフの大量解雇という形で表面化し「迷走」評されることも多い。しかし、09年の筒香や国吉、この年の坂や桑原将志など、後のとなる素質選手も多く名していた事がわかる。

なお、ドラフト会議の時点ではTBSにより球団が運営されており「横浜ベイスターズ」としては最後のドラフト出席となった。

横浜DeNAベイスターズ時代

詳細

2012年(46勝85敗13分、6位 勝率.351) 監督:中畑清

熱いぜ!DeNA』をスローガンに始まった2012年

中村紀洋三浦大輔といったベテラン復活したが数打った外国人選手は悉く当たらず、前年終盤に期待を持たせた筒香嘉智国吉佑樹らの若手もイマイチ振るわず、結局、例年通り定位置である最下位に低迷。阪神タイガースの大失速もあって5位浮上の可性もあったが、浮上のチャンスを潰し、最下位のままシーズンを終えた。
三浦無援護で10勝を逃すなど、シーズンを通して見れば、スローガン通りに『熱いぜ!』であったのは中畑清監督ぐらいであった。
監督と会社が変わったぐらいで順位が上がるほど軽い暗ではなかった。 

しかし、監督の方が選手より立っていると金本知憲から苦言を呈されたり、東京ドームで1勝もできないという史上初の記録を作ってしまうなど相変わらずな部分もあったものの、三浦の通算150勝達成や山口の通算100セーブ達成を始め、2年荒波翔ゴールデングラブを受賞、高崎健太郎は自己最多の7勝を挙げ、国吉加賀美らも後半戦は活躍するなど明るい材料も多くあり、監督のおかげでチームの雰囲気が明るくなった。少なくともTBS時代末期よりはフロントやる気も感じられるとファンムードは較的明るくなった感はある。

オフフロントは「言い訳の出来ない戦える」とし、実際に中日からトニ・ブランコエンジェルベルト・ソトホルヘ・ソーサ外国人トリオって強奪獲得。吉村裕基江尻慎太郎山本省吾をトレードで放出し、多村仁志吉川輝昭神内靖を獲得した。更にはMLBブルワーズから、青木宣親レギュラー定着により出場機会が減少しFAとなっていたナイジャー・モーガンを獲得。福留孝介斎藤隆の獲得にも乗り出したがこの二選手は獲得できずに終わった。

2013年(64勝79敗1分、5位 勝率.448) 監督:中畑清

チームスローガンが『勝(かつ)』められスタートした2013年シーズン
昨年度から話題となっていたチケット戦略はより一層強化され、VIP待遇での試合観戦を実現した『ファミチケ!100万VIPパック』やB級グルメを楽しめる『食べて勝!B食祭』、某ドラマあやかった『倍返し!チケット』などたくさんのキャンペーン企画・実施されメディアを賑わせた。
しかし今年度最もDeNA話題となったのは、そうしたチケット戦略はなくその試合内容であった。

特筆すべきは5月10日巨人戦(横浜スタジアム)。
この日は先発高崎健太郎が滅多打ちにされ7回表終了時点で3-10にまで引き離されてしまう。
しかし7回裏、今シーズン古巣に復帰した多村仁志代打2ランホームランを皮切りに猛追を開始。高木マシソンを打ち崩し、なんとこの回一挙6得点。これに留まらず9回裏、金城ファーストゴロを巡って中監督の猛抗議(判定は覆らず)。その後、高城後藤が出塁。最後は代打出場の多村が守護西村ライトへのサヨナラ3ランホームランで粉砕。
7点差をひっくり返し、12-10で今シーズン初の巨人勝利を収めた(この試合はチーム内でも大きなターニングポイントとなったらしい)。

この試合だけに留まらず、8月20日阪神戦(横浜スタジアム)・8月31日ヤクルト戦(神宮球場)でも序盤に7点差以上の点差を付けられながら打撃の猛追で大逆転。プロ野球史上最多となる、1シーズン中3度の7点差以上逆転を記録した。

4番ブランコを軸に打線覚醒8月から驚異的な活躍を見せた梶谷隆幸らの活躍あって、セ・リーグ1位となる630得点チーム打率は.262で1位タイ記録する驚異の爆発を持つ打線を形成した。

一方の投手も通算3000投球回、500試合登板を達成した番長三浦大輔だけでなく、11年ぶりに勝利記録した藤井秀悟チーム最多となる17ホールド記録重な左の中継ぎとして奮闘した大原慎司シーズン中盤からクローザーに抜され19セーブをあげたソーサらが活躍。
これらの投手と驚異の打線が要所要所でガッチリかみ合い、4月途中での単独首位、更には2007年以来6年ぶりとなる間勝ち越し等を記録。最下位脱出どころか、シーズン終盤の9月中頃まで広島中日を相手にしいCS争いを繰り広げた。

こうした選手たちの戦いとフロントの営業努が実を結んだのか、横浜スタジアムの観客動員数は昨年度とべ約22%も増加。ファンクラブ会員数は2.5倍(キッズ会員に至ってはなんと3.5倍!)と驚異の集客率を達成。横浜スタジアムは例年にない活気に包まれた。

しかし外国人選手史上初の2000本安打を達成した後調子を崩したラミレスなど、一部の選手が成績を残せず、フロントシーズン途中で投手の補強を行ったが大きすぎるを埋めるまでには至らず、チーム総失点は686点、チーム防御率は4.50と共にリーグ最下位を記録するなど大炎上。打撃得点しても投手が打ち込まれ負ける試合が多かった。
更に交流戦にはめっぽう弱く7勝17敗で最下位。加えてオールスター後の9連敗、イベント『YOKOHAMA STAR NIGHT 2013』での三タテ、負けられない終盤の巨人戦で3連敗しCS絶望的になってしまうなど肝心な場面で勝ち切ることが出来ず、長年順位争いができなかったことがく結果になってしまった(この事は毎日新聞が掲載する『DeNA:ハマのたち・地元選手手記』において石川・荒波両選手がっている。)

阪神中日ヤクルトの三球団に勝ち越し、昨年とべて首位とのゲーム差を30ゲーム以上縮めるなど奮戦したが、最終的な成績は64勝79敗1分の5位。中監督の掲げるCS出場は果たせなかった。

Bクラスが確定となった阪神戦後、中監督は昨シーズン終戦に申し出たとおり辞意を表明したが、球団とファンの慰留により辞意を撤回。しかし代わりとして友利結コーチ高木豊コーチ波留敏夫コーチらが責任を取る形で退団した(球団は慰留したが、本人らが退団を申し出た)。

また小池正晃篠原貴行嶋村一輝内藤雄太牛田成樹ら五選手が引退を表明、小池引退試合で2本の本塁打を放ち、ファンや同僚たちに感動を与えた。小池篠原嶋村ら三選手はコーチに就任。二軍監督として皆にされた山下大輔フロントへと入閣した。

そしてオフフロント阪神タイガースからFA宣言していた久保康友オリックスから自由契約となっていたアーロム・バルディリス大リーグカブスなどでプレイしていた元巨人高橋尚成メジャー通算13勝のギジェルモ・モスコーソを獲得。さらに中日から戦外の柳田殖生佐藤祥万とのトレードで日本ハムから加藤政義を補強した。
一方で、細山田武史アレックス・ラミレス森本稀哲吉川輝昭ティム・コーコランらが戦外。ナイジャー・モーガン自由契約として退団。鶴岡一成久保の人的保障として阪神に移籍した。

2014年(67勝75敗2分、5位 勝率.472) 監督:中畑清

この年のチームスローガンは「」。

詳細はプロ野球2014を参照

2015年(62勝80敗1分、6位 勝率.437) 監督:中畑清

この年のチームスローガンは「」。

詳細はプロ野球2015を参照

2016年(69勝71敗3分、3位 勝率.493) 監督:アレックス・ラミレス

チームスローガンは「WE PLAY TO WIN」。
2005年以来のAクラス入りで、初めてクライマックスシリーズに出場した。

詳細はプロ野球2016を参照

2017年(73勝65敗5分、3位 勝率.529) 監督:アレックス・ラミレス

スローガンは「THIS IS MY ERA.」。
勝率5割えたのは2001年以来16年ぶりだった。2年連続でクライマックスシリーズに出場し、ファイナルステージ広島を降し、19年ぶりの日本シリーズ出場を決めた。

詳細はプロ野球2017を参照

2018年(67勝74敗2分、4位 勝率.475) 監督:アレックス・ラミレス

スローガンは「VICTORY is within US」。

詳細はプロ野球2018を参照

2019年(71勝69敗3分、2位 勝率.507) 監督:アレックス・ラミレス

詳細はプロ野球2019を参照

2020年代

2020年(56勝58敗6分、4位 勝率.491) 監督:アレックス・ラミレス

詳細はプロ野球2020を参照

2021年(54勝73敗16分、6位 勝率.425) 監督:三浦大輔

詳細はプロ野球2021を参照

2022年(73勝68敗2分、2位 勝率.518) 監督:三浦大輔

詳細はプロ野球2022を参照

2023年(74勝66敗3分、3位 勝率.529) 監督:三浦大輔

詳細はプロ野球2023を参照

年度別球団成績









大洋ホエールズ(下関時代)
1950年 渡辺大陸 5 140 69 68 3 .504
1951年 中島治康
有馬義一
6 108 40 64 4 .385
1952年 小西得郎 4 120 58 62 0 .483
大洋松竹ロビンス
1953年 小西得郎 5 130 52 77 1 .403
洋松ロビンス
1954年 永沢武夫 6 130 32 96 2 .250
大洋ホエールズ(川崎時代)
1955年 藤井 6 130 31 99 0 .238
1956年 6 130 43 87 0 .331
1957年 6 130 52 74 4 .415
1958年 6 130 51 73 6 .415
1959年 茂雄 6 130 49 77 4 .392
1960年 三原脩 1 130 70 56 4 .554
1961年 6 130 50 75 5 .404
1962年 2 134 71 59 4 .546
1963年 5 140 59 79 2 .428
1964年 2 140 80 58 2 .580
1965年 4 140 68 70 2 .493
1966年 5 130 52 78 0 .400
1967年 4 135 59 71 5 .454
1968年 別当薫 5 133 59 71 3 .454
1969年 3 130 61 61 8 .500
1970年 3 130 69 57 4 .548
1971年 3 130 61 59 10 .508
1972年 5 130 57 69 4 .452
1973年 青田昇 5 130 60 64 6 .484
1974年 宮崎 5 130 55 69 6 .444
1975年 秋山登 5 130 51 69 10 .425
1976年 6 130 45 78 7 .366
1977年 別当薫 6 130 51 68 11 .429
横浜大洋ホエールズ
1978年 別当薫 4 130 64 57 9 .529
1979年 2 130 59 54 17 .522
1980年 土井淳 4 130 59 62 9 .488
1981年 6 130 42 80 8 .344
1982年 関根潤三 5 130 53 65 12 .449
1983年 3 130 61 61 8 .500
1984年 6 130 46 77 7 .374
1985年 近藤貞雄 4 130 57 61 12 .483
1986年 4 130 56 69 5 .448
1987年 古葉竹識 5 130 56 68 6 .452
1988年 4 130 59 67 4 .468
1989年 6 130 47 80 3 .370
1990年 須藤豊 3 133 64 66 3 .492
1991年 5 131 64 66 1 .492
1992年 須藤
江尻亮
5 131 61 69 1 .469
横浜ベイスターズ(マルハ時代)
1993年 近藤昭仁 5 130 57 73 0 .438
1994年 6 130 61 69 0 .469
1995年 4 130 66 64 0 .508
1996年 大矢明彦 5 130 55 75 0 .423
1997年 2 135 72 63 0 .533
1998年 権藤博 1 136 79 56 1 .585
1999年 3 135 71 64 0 .526
2000年 3 136 69 66 1 .511
2001年 森祇晶 3 140 69 67 4 .507
横浜ベイスターズ(TBS時代)
2002年 森祇晶 6 140 49 86 5 .363
2003年 山下大輔 6 140 45 94 1 .324
2004年 6 138 59 76 3 .437
2005年 牛島和彦 3 146 69 70 7 .496
2006年 6 146 58 84 4 .408
2007年 大矢明彦 4 144 71 72 1 .497
2008年 6 144 48 94 2 .338
2009年 6 144 51 93 0 .354
2010年 尾花高夫 6 144 48 95 1 .336
2011年 6 144 47 86 11 .353
横浜DeNAベイスターズ
2012年 中畑清 6 144 46 85 13 .351
2013年 5 144 64 79 1 .448
2014年 5 144 67 75 2 .472
2015年 6 143 62 80 1 .437
2016年 ラミレス 3 143 69 71 3 .493
2017年 3 143 73 65 5 .529
2018年 4 143 67 74 2 .475
2019年 2 143 71 69 3 .507
2020年 4 120 56 58 6 .491
2021年 三浦大輔 6 143 54 73 16 .425
2022年 2 143 73 68 2 .518
2023年 3 143 74 66 3 .529
通算:73年 4323 5300 320 .449

順位

  • 日本一 - 2回(1960,1998)
  • 優勝 - 2回(1960,1998)
  • Aクラス - 19回(2位:5回,3位:12回)
  • Bクラス - 54回(4位:13回,5位:16回)
  • 最下位 - 24回

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シーズン最低成績(チーム)

シーズン選手最高成績(野手)

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横浜DeNAベイスターズ

4426 ななしのよっしん
2024/04/08(月) 04:57:04 ID: Q34j8Kc/9x
三年前くらいだったら手放しで嬉しかった、けど今はそうでもない、でも巨だけはイヤだった
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4427 ななしのよっしん
2024/04/08(月) 05:04:18 ID: +EGOnMgztb
まぁ今の巨人横浜どっちが筒香をより欲しがるかって考えたら巨人だろうし選手としても条件が良かったり試合に出場しやすい方選ぶのは別におかしなことではないからなぁ
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4428 ななしのよっしん
2024/04/09(火) 07:48:05 ID: mqyWdW5XOT
シンプルに控えのサブ要因だけど戻ってきてくれ!はが良すぎるからなぁ
それでもんでくれるなら実際そのポジて戻ってきてほしいけど理強いは出来ないよ
せめて開幕前にならもっとポジションの計算出来るんだけどな・・・
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4429 ななしのよっしん
2024/04/14(日) 08:57:44 ID: yItk08ORYs
閑話休題。
今年からヒロイン帽子のつばの上に載っているタヌキかわいいな。
人気でそう。
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4430 ななしのよっしん
2024/04/14(日) 14:36:27 ID: LeOKowAmYV
ココファンベイスターズってチームよりベイスターズ所属の特定の選手のファンって人が多いイメージ

選手をめぐってファン同士が対立してるというか
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4431 ななしのよっしん
2024/04/14(日) 14:42:15 ID: RnDuItvB7z
どのチームでもあるだろ
選手個人が好きが故にそのチームファンになるとか
例えばドジャースよりも大谷を追いかけてるように

選手をめぐって>
ベテランを使うか自分の贔屓かルーキーかもこれもどのスポーツでも必ずある言い争い
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4432 ななしのよっしん
2024/04/14(日) 20:34:11 ID: pOugi7I0I1
2024/03/29()

【祝】開幕戦5年ぶりの横浜勝利🎉✌️🎉✌️

↓↓↓

2024/04/14(日)

ゼロ



どっかで見たなぁこの流れ……
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4433 ななしのよっしん
2024/04/16(火) 03:02:58 ID: 7UJm5xjZZ9
最初は好調、後から絶不調なのはよくあることよ
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4434 ななしのよっしん
2024/04/16(火) 03:20:35 ID: lbA9a3xjX3
まぁずっと勝ち続けられるチームなんていし、まだシーズン序盤だからこれから上げてけばいいよ。
ルーキー達の活躍が素晴らしいから中軸が答えて欲しい。
まぁあとは1,2点差で負けてる時にエラーで傷口広げすぎや。負けるならせめて打線のせいで負けたの方がまだ納得できる。
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4435 ななしのよっしん
2024/04/16(火) 16:21:35 ID: pOugi7I0I1
225、帰ってくるってよ。
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