橘家圓蔵(たちばなやえんぞう)とは、明治・大正期に活躍した三遊派の噺家である。
初代立花家圓蔵
二代目立花家圓蔵
三代目立花家圓蔵
四代目橘家圓蔵
五代目橘家圓蔵
六代目橘家圓蔵
七代目橘家圓蔵
八代目橘家圓蔵
概要
四代目橘家圓蔵。本名は松本栄吉。元治元年に生まれて、大正十一年に亡くなった。明治末期から大正期の三遊派の総帥である。元々は人形芝居の人形遣いであったが、役柄に不満を持ち二十二、三歳頃に四代目三遊亭圓生に入門し、三遊亭さん生を名乗る。六代目三遊亭圓生の師匠である。北品川に住んでいたことから「品川の圓蔵」、「品川」と呼ばれていた。
入門してから師匠四代目圓生に我がままに振り回されることが多く、女遊びをしていた圓生に一芝居をしてその場を誤魔化してくれと頼まれたり、着物を着すぎて暑いから脱いでくると言って高座を降り、その間に話をして繋げろと命令されるなど我がままぶりに振り回されてきた。そのせいか知らないが四代目圓生の直弟子は圓蔵を含め三人だけである……。他の弟子は皆、移籍してきた人たちである。
だが後者に関しては、それにより人前で話すことに関して鍛えられた上に圓蔵を憶える客が増えたと語っており、圓蔵は師匠なりの情けだと感謝している。そんなことはない。
圓蔵の名跡を継いだのは真打になってからでなく、二つ目になった時にさん生から圓蔵に改名した。
もともと圓蔵の名跡は、初代の圓蔵が二代目圓生が継いだことにより三遊派の看板として重要な名跡になっていたのだが、二代目と三代目の圓蔵がパッとしないために、名跡の位が落ちてしまっていた。そのために、当時のさん生でも二つ目昇進の際に気軽に名乗れる名前となっていた。だが、さん生が圓蔵を名乗ったことにより、かつての大看板としての地位を復活させた。
話術はというと機関銃のごとく兎に角喋りまくる芸であり、台詞を忘れても喋って喋って喋りまくる為に、文豪の芥川龍之介から「全身が舌になったようだ」と言わしめた。
噺の得意ジャンルは、当時の三遊派では珍しい滑稽噺の名人であり、「首提灯」、「廓の穴」、「紺屋高尾」、「品川心中」、「紀州」、「弥次郎」などの噺を得意とした。特に「首提灯」は絶品そのものであったらしく、首が長く、顎がしっかりとしている圓蔵にピッタリの噺とまで言われた。ネタ数もかなり多く、第一次落語研究会のメンバー達の中でも一番多くて驚かれたほどである。
と六代目圓生に評された。
しかし、これは圓喬や圓右が桁違いに上手かったから下手と例えられたのであり、他の噺家と比べて圓蔵は全然上手かったと言える。
四代目三遊亭圓生は舌癌で亡くなる前に、弟弟子の一朝と金朝を証人として「五代目圓生は橘家圓蔵に譲る」との書置きを残したが、当の圓蔵は圓生を継ぎたがらず、弟子の三代目三遊亭圓窓に五代目を名乗らせて自分は圓蔵のままでいたいと考えていた。だが、橘家圓好(当時の六代目三遊亭圓生)の説得により、次の年の秋に圓生を襲名すると決意をした。しかし次の年の二月に圓蔵は気管支炎により突然亡くなってしまう。
五代目圓生の名跡は圓蔵が一度考えていた通り、三代目三遊亭圓窓が五代目橘家圓蔵を経て襲名した。
圓蔵のは几帳面で楽屋ではおっかない顔をして黙っているために、周りからは気難しい人だと言われていた。しかし実際に接してみると、物事を隠さず冗談を言ったりして、面白い人だと言われていた。夜に弟子達と話をするのが好きで、人の話を聴いて笑顔を浮かべて冗談をかまして笑いをとっていた。そのため弟子達からも慕われていた。
その人柄ゆえか、圓蔵の弟子は色物を含めて売れっ子がかなり多かった。
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