橘花(きっか)とは、大東亜戦争末期に日本海軍が試作した日本初のジェット軍用機である。しばしば誤解されるが分類は「特殊攻撃機」であり戦闘機ではない。
開発までの経緯
第二次世界大戦中、大日本帝國とドイツは同盟関係にあった。両国は3万km以上も離れていたが、互いに欲する物資や技術を交換するため1942年より潜水艦を派遣し、連合軍の厳しい監視網や妨害を搔い潜って交流を開始(遣独潜水艦作戦)。日本が支配する東南アジアに辿り着いたドイツ潜水艦は欧州では入手出来ない希少な南方産天然資源(ゴム、タングステン、ボーキサイト等)を積載して持ち帰り、逆にドイツの勢力圏に辿り着いた日本潜水艦は最新兵器の青写真や本土では到底開発出来ないマウザー砲、エニグマ暗号機、ウルツブルクレーダー等を積載して持ち帰った。しかし必ずしも成功した訳ではなく道中連合軍の迎撃に遭って撃沈された潜水艦も少なくない。
戦争も佳境に入った1943年、ドイツは世界初のジェット戦闘機・メッサーシュミットMe262の開発に成功。在独駐在武官からの暗号電報で断片的ながらも噴流推進器の情報が日本に届き、陸海軍上層部は神秘のベールに包まれたジェット戦闘機に興味関心を抱く。そしてこのMe262を強く欲したため、在ベルリン阿部海軍武官とドイツ航空省ミルヒ技術局長が交渉したところ、日本が開発した小型哨戒艇用のディーゼルエンジンと交換する形でMe262の実物と資料が送られる事になった。だが日本本土へ送り届けるには当然連合軍が跳梁跋扈する海域を突破しなければならず、1万5000海里の旅路は危険極まりないものと言えた。そこで帝國海軍は、ちょうどドイツ占領下フランスに停泊して訪独中の伊29と、ドイツから日本に譲渡される呂501(元U-1224)の2隻に同じ資料を積載し、片方でも日本本土に到着する事を期待した。
1944年3月30日にまず最初に吉川春夫海軍中佐を乗せた呂501がキールを出港、続いて4月16日に巌屋英一海軍中佐を乗せた伊29潜がロリアンを出港する。2隻は別々に日本占領下のシンガポールを目指したが、5月16日に呂501が大西洋上で米駆逐艦からヘッジホッグ攻撃を受けて消息を絶ってしまう。残った伊29は大西洋、喜望峰、インド洋を突破し、7月14日に中継点のシンガポールへ到着。休息を挟んで日本本土へ向かったが、暗号解析により連合軍の待ち伏せを受け、7月26日に台湾南端で米潜水艦ソーフィッシュに撃沈されてしまった。2隻の喪失によりMe262に関する資料は完全に失われたかに思われたが…。
幸運な事に伊29がシンガポールへ寄港した際、便乗者の巌屋中佐が持てるだけの資料をカバンに詰め込み、空路にて羽田に帰還していたため奇跡的に一部の資料のみは本土まで届いていたのである。……のだが、巌谷中佐が携えてきた資料は実況見分録とユンカース・ユモ004B及びBMW003Aターボジェット、ワルター推薬ロケットに関する個人的メモ、原図を15分の1程度に縮写した003Aの縦断図面、ワルターロケット組立図、Me262の取り扱い説明書といったイマイチ開発に役に立たないものばかりで、肝心な部分であるエンジンや機体の設計図は全く無かった。ちなみに彼はメッサーシュミットMe163の資料も持ち帰っておりこの資料から秋水が誕生。橘花ともども航空史に大きな影響を与えている。
橘花開発
Me262の肝心な部分の設計図が失われたため、日本は僅かな資料を基にして和製Me262の製作を目指す事に。陸軍は前々から九九式双発軽爆撃機を使ったジェットエンジン開発を行っており、若干のノウハウがあったのが不幸中の幸いだった。だが1944年7月時点で得られた結論は「解決すべき問題が山積していて前途多難」という実に絶望的なものと言えた。巌屋中佐が持ち帰った資料は海軍航空技術廠に送られ、不明点は駐在独武官に電報で問い合わせている。
民間六社と陸軍が加わった資料研究討論会では国産ジェット戦闘機の開発は陸海軍共同で行う事に合意。これまで進捗がよろしくなかったジェットエンジン開発は全て中断され、新たに橘花用エンジンの開発を石川島芝浦タービン、中島・日立共同、三菱に発注。海軍も独自にエンジン開発を行った。1944年11月、中島飛行機に正式に試作を命令、11月下旬から12月上旬にかけて一技廠飛行機部の中口博技術大尉らによる設計審査が行われ、試作機の実験結果を待たずに25機の試作に入った。これらの新型機には皇国二号兵器という仮称が与えられた。製作は群馬県にある中島飛行機の太田及び小泉の製作所本館3階設計部で実施。軽油を燃料とし、極力アルミニウムを使用しないよう鋼板で製作する事になったが、データ不足から加工性や強度の前に苦労させられたという。
ジェットエンジン「ネ12」を搭載したものを橘花、「ネ20」を搭載したものを橘花改と呼称する。
1945年1月28日に第一木型審査、2月10日に第二木型審査を実施し、それぞれを通過した設計を基に直ちに機体製作が行われた。この頃になると本土空襲も激化の兆しが見え始めた。第二木型審査を実施した日に群馬県南部がB-29の空襲を受け、この時は小泉ではなく太田に敵機が向かったため難を逃れたが、2月25日に敵艦上機が小泉に襲来。幸い橘花の生産ラインや工場は無事だった。3月6日、開発が思わしくないため担当を第2機体科から第1機体科に移し、3月10日に栃木県佐野市の中学校に疎開。この頃には南方からの輸送路が途絶していた事から燃料には松根油が使用された。鋼板製の機体は生産性に問題があるため、軽合金を使った設計を3月25日までに完成させるよう指示が下り、何とか期日に間に合わせた。3月末から4月初旬にかけて再度B-29の空襲を受けたが橘花は掩体豪に隠されていたため破壊は免れる。
4月1日、航空技術廠内に噴進部が新設され、秦野飛行場にて種子島大佐指揮のもとネ20エンジンの開発を開始。永野技術少佐以下技術班が全力で事に当たり絶大な負担に耐えながら着々と造り上げていく。4月25日、使用エンジンを「ネ12B」から「ネ20」に変更する事が決定、これに伴って新たに計画書が作られ、主任務を中高度からの緩降下爆撃に変更。名称も橘花改となった。苦心惨憺の末、5月2日についに設計図が完成。空襲を避けるため放置されていた粕川村の養蚕部屋に分散して作業を行った。主翼や胴体の製造はそれぞれの小屋で行われたが、組み立ては比較的大きな小屋で行われている。佐野中学校に拠点を移していた設計班は散在する養蚕部屋を駆け巡り、B-29や艦載機の襲撃を警戒しながら努力した。作業場の小屋は最高の目くらましになり最後まで爆撃を受ける事はなかったという。
現図作業班は埼玉県妻沼町の製粉工場跡地に疎開したので、佐野市と妻沼町の往復に苦労したという。(※現代の自動車での移動でも片道約1時間かかる。)
6月5日に主翼荷重試験、翌6日に補助翼荷重試験を実施。6月中旬頃にはネ20エンジンも完成を見た。6月29日に完成審査に入り、翌日最初の地上運転を行ったところ、振動試験や操縦装置剛性試験等を見事パスして実用化に成功。7月5日、ついに試作橘花改一号機が完成。7月8日に外せる部品を外して梱包し、テスト先の木更津基地へ向けてトラックで輸送、翌9日に基地へ到着して組み立て作業を開始し、ネ20を左右に搭載したのち7月13日より試運転を開始。ところが7月15日、左エンジンが燃料漏れを起こしてタービンノズルが損傷、吹き飛んだナットが右エンジンの圧縮機を破壊するトラブルに見舞われた。不休の修理で問題を解決して7月25日に機体・エンジンともに完備状態となり、テストパイロットを務める高岡達少佐も横須賀航空隊より到着した。
初飛行
7月27日に初の滑走を実施し、そして翌28日より最終整備を開始。木更津基地への空襲は日々強まっていたためその合間を縫って整備・点検作業が行われた。7月29日、高岡少佐の指示で二回の地上滑走を行い、機体とのエンジンのテストを実施。8月6日、通常の半分以下の松根油を入れ、エンジンを使わない軽量の試験飛行を非公式に行った。同日中にP-51戦闘機が襲来するが幸運にも橘花は掩体壕に隠されていたため難を逃れる。初飛行日は8月7日に指定された。
そしてテスト当日の8月7日、この日は快晴だった。木更津飛行場を斜走する1800mの滑走路には南南西の海側から5mの風が吹きつけており最良の条件と言える。まず午前10時30分より慣らし運転を開始。近海に米機動部隊が接近しているとの報告があったため現場はピリピリしていた。昼食を済ませた高岡少佐は13時にコクピットへ収まり、ジェットエンジン特有の快音とともに機が発進、800m滑走したところで宙に浮きあがり高度600mで12分間の飛行に成功した。日本史上初、日本の空にジェット機が初めて飛んだ歴史的瞬間である。着陸後、高岡少佐は「案外、たちが良い」という感想を述べた。この日の夕食は警戒管制下で暗く静かではあったがビールが振る舞われ、関係者一同乾杯をして橘花の初飛行成功を祝う。感動も冷めやらぬ翌日、橘花部隊に伊東裕満大佐が着任し、木更津飛行場へと姿を現した。橘花の名は彼が名付けたもので言わば生みの親でもある。正式なテスト飛行は8月10日を予定していたが、この日は早朝から米艦載機による銃爆撃が行われたため一日延期となった。
8月11日は変わりやすい横風と通り雨が降る不安定な天気となる。どう見ても飛行不適な天候だが、軍幹部が多数立会いに来ていたため強行する事となり、燃料を満載にして離陸用補助ロケット2基を主翼下に搭載。約30分の飛行を行う公式試験に臨んだ。15時に高岡少佐が搭乗。エンジンに点火されたが、極度の緊張からかフラップを15度下げる動作を忘れる操縦ミスをしてしまい、浮きの悪さからエンジンの推力不足と錯覚。エンジン出力を絞った結果、離陸に失敗してオーバーラン。機体は海中へと突入してしまった。幸い高岡少佐は救助されて無事だった。
灯下管制下で真っ暗な中、水に没した一号機の回収作業が行われた。ただちに二号機の手配をし、次のテストに備えたが、間もなく8月15日の終戦を迎えてしまう。
試作機の飛行テストの結果を待たずに24機の量産命令が出されており、中島飛行機で22機、九州飛行機で2機が組み立て完了間近の状態で並んでいた。このうち3機まで完成していたが、終戦に悲観した整備員によって操縦席が破壊された。しかし本機を接収しようと考えたアメリカ軍は修理を命じた。その後、アメリカ本国に持ち帰られ、研究対象となった。2機は廃棄されてしまったが、1機がスミソニアン国立航空宇宙博物館に寄贈。防錆処理を施され、一般公開されている。
設計
橘花は和製メッサーシュミットMe262だが、資料の少なさからオリジナル部分も多く含まれている。
機体の外観は一見するとMe262と似通っているが、大きさは一回り小さく(Me262の全長が10.58m、全幅が12.5mあるのに対し橘花はそれぞれ9.25m、10.0mである)、主翼形状も馴染みのあるテーパー翼を採用している。掩体壕に隠せるよう、翼は上方に折り畳める独自の改良が加えられている。ジュラルミンの不足に対応するため、軽合金を多用。ブリキ、マンガン鋼などの代用素材を使用している。推力の低さを補うべく、エンジン2基は主翼下に懸架。
全備状態での離陸には、さらに補助離陸用ロケット2基を搭載しなければならなかった。固定脚は零戦用のものを流用したもので、これを新規のものにするには半年を要するとされた。
固定武装は装備せず、500キロ爆弾か800キロ爆弾を懸架して敵艦を攻撃する陸上攻撃機とする設計がなされた。Me262を対爆撃機用戦闘機として使っていたドイツとは異なる運用方法だった。異説によれば反跳爆撃も可能だったとする。
第二次試作機からは五式30mm固定機関砲一型乙を装備する案があったが、装填数は100発程度とMe262の三分の一以下だった。橘花と並行してロケット戦闘機秋水の開発が進められており、B-29迎撃の任務は秋水に一任し、橘花は艦船攻撃を主とした。
ゆえにMe262のような超兵器ではなく、レシプロ戦闘機の延長線上の性能しか求めていなかった模様。従来の戦闘機用の高性能レシプロエンジンの開発に行き詰まっていた時期でもあり、しかも戦況の悪化で燃料事情も悪化した事から、松根油でも動き、しかも組み立ても比較的容易なジェットエンジン(ネ12B)には期待が寄せられた。
橘花はジェット機でありながら特攻機として使われる予定だったという説もある。エンジン寿命が短く連続使用ができない当時のジェットエンジンは特攻におあつらえ向きだったのと戦況が特攻以外の運用を許さなかった事も考えられ、可能性は十分にある。
航空母艦葛城の艦長である宮崎俊男大佐の手記によると、葛城に橘花を搭載する予定だったという。
ただし、橘花は設計上は生還を前提とした特殊攻撃機(つまりジェット機である点が特殊な攻撃機)であり、始めから特攻(特別攻撃)機として設計されたわけではないことは留意しなければならない。ただ、関係者の証言によると「特攻機の名目でなければ量産の許可が下りなかった」という。このため資料によっては特攻機とされている場合もある。
関連項目
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