武家関白制とは豊臣秀吉が実現した、武家出身の関白(武家関白)を頂点とした全国支配体制の事である。
概要
織田信長の天下統一事業を引き継いだ秀吉は、天正十三年(1585年)に関白相論を経て関白に就任した。
代々関白に就任してきた藤原氏、いわゆる五摂家以外から関白に就任したのは秀吉が初めてであり、当然ながら武士が関白につくことも初めてであった。豊臣政権は以降関白の立場と威光を用いて全国統一を進め、最終的に小田原城で北条氏を降伏させたことで、天下統一を成し遂げたのである。
武家出身の関白を「武家関白」と呼び、武家関白の名のもとに構築された全国支配体制を武家関白制と呼ぶ。結果としては、武家関白に就いたのは豊臣秀吉・豊臣秀次の二人だけであったので「豊臣政権時代における体制」と考えてもらって良い。
武家関白制の目的
秀吉がこの武家関白制を敷いたのには以下のような目的があったといわれている。
織田家臣からの脱却、最高権力者としての正当性の確保
本能寺の変の後、秀吉は山崎の戦いで明智光秀を、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、織田政権内で大きな力を得るに至った。しかし、その権力基盤はひどく歪なものになってしまっていた。秀吉は天下に並ぶものなき実力者ではあったが、表面上の地位はあくまで織田家臣。主君は三法師こと織田秀信であり、秀吉はその下で支える重臣にすぎなかった。
そして、この歪さが大きく表面化してしまったのが、小牧・長久手の戦い(秀吉包囲網)である。「秀吉が天下を意のままにしている」と織田信雄(信長の次男)が主張すると、徳川家康・佐々成政・長宗我部元親などが賛同して、秀吉と敵対・抗戦した。この争いは全国に波及して半年以上の長期戦となり、各地に動乱を招くことになる。最終的に和睦が成立したが、秀吉陣営にも織田家に忠誠を誓う家臣は未だ多くおり、秀吉による織田家への力による下剋上は、不可能とまではいかなくとも、非常に困難であることが明らかになった。
結局、この時点での秀吉は織田家当主を背景にした権力しか持たず、同僚である織田家臣を差配するための『実力』はあっても『正当性』はなかったのである。
秀吉はこの体制からの脱却を図った。その結果が、平安時代より朝廷の公家官位の頂点にあった官位「関白」への就任である。
貴族同士の関白の座を巡る争い(関白相論)を機として関白となった秀吉は、「天皇の差配のもと関白である自らが天下の中心として統治する」という体制を構築した。織田家という枠を飛び越え、朝廷と天皇の威光による『正当性』を得る事に成功したのである。
官位による統制
これ以前の武家政権である鎌倉幕府・室町幕府は、朝廷から「征夷大将軍」の官職を賜った将軍たちが、朝廷公認・武家の頂点という立場で武士を支配していた。支配力の証として高い官位に就いているのは、基本的には将軍だけだった(戦国時代にはそれが崩れてしまったが)。
代わって武家関白制の下では、関白を頂点とした朝廷の官位官職を利用し、武士も官位(と家格)を基本として統制することが試みられた。その結果、それまでの武家には見られないような高い官位を持った大名が数多く誕生。これらは公家成大名、清華成大名(武家清華家)と呼ばれる。
だが、全国の大名やその有力家臣に官位を割り振るには、官位の元々の定員が絶対的に足りなかった。武家に優先的に官位を割り振っていった結果、貴族が官位官職に就けなくなるという事態も発生してしまう。大臣・納言といった上位官位への昇進は、基本的にその下の官位で経験を積むことが条件だったため、五摂家のような名門貴族ですら昇進資格を満たせなくなっていき、遂には朝廷の職務を執れる人材がいないという非常事態を招いてしまった。
こうした事態への反省から、のちの江戸時代になると貴族の官位(公家官位)と武士の官位(武家官位)は分離して管理されることになった。官位を用いた武家の統制(家格の制定)自体は有効に働き、江戸幕府の下でも武家官位制として続けられた。
朝廷による秀吉取り込み政策
当時の朝廷は相次ぐ戦乱により貧乏極まりなく、皇太子の元服費用すら捻出できないという状態が続いていた。この時も当時隆盛著しかった織田信長に嘆願し、信長の工面でやっと実行できたのである。それ以前からも、大名家の支配の正当性として、官位を叙任する傍らに多額の献金を受け取る、ということをやっており、献金と官位という形で、朝廷と大名、ひいては天下人が相互協力しあう側面があった。
元来、朝廷は大きな権力を持った者に対して官職などを与え、取り込みを図ってきた歴史がある。武家として初めて太政大臣となった平清盛、南北朝統一を成し遂げ巨大な権力を持った足利義満、直近では三職推任を受けた織田信長など、時の有力者に正当性を与え、その代償として朝廷の保護を委託してきたのである。
この秀吉による武家関白制もその一環とみる事も出来るだろう。
武家関白制の継承と終焉
天正十四年(1586年)、朝廷は羽柴秀吉に「豊臣」という氏(うじ)を与えた。つまり摂関藤原氏(近衛家)から独立し[1]、新たに「豊臣家」という別家を興したのである。同年、豊臣秀吉は太政大臣にも就任しており、かつての藤原氏全盛期と同等の権力を得た。
豊臣秀吉の後継者候補には皇族で秀吉の猶子となった智仁親王や、秀吉の実子・鶴松などがいたが、いずれも実現できなかった[2]が、天正十九年(1591年)、ついに秀吉は関白を辞任し、甥(養子)の豊臣秀次が関白を継いだ。こうして秀吉は太閤[3]となる。この秀吉から秀次への継承は、関白職が代々豊臣家に引き継がれる事例の1回目となる・・・はずだった。
が、文禄二年(1593年)に秀吉の実子である豊臣秀頼が誕生すると、豊臣家の内情に陰りが見え始める。秀吉は(秀次の家系ではなく)実子の秀頼が将来関白職を継げるように、と考え始めたのである。しかし、秀頼は生まれるのが遅すぎた。
動向には諸説あるが、文禄四年(1595年)に現職の関白であった豊臣秀次に謀反の疑いが生じ、自害させられる(秀次事件)。一般的には秀吉の命令で秀次が切腹させられたと言われ、太閤の命により関白が殺されるという事件は「関白」という官位の威光を大きく損ねてしまった。
以降、しばらくは関白不在のまま太閤秀吉が実権を握った。だが「天皇の差配のもと関白が天下を統治する」という名目である武家関白制はすでに大きく歪んでしまった。それでも秀吉存命中は太閤・太政大臣と言う『正当性』と、秀吉自身の『実力』により豊臣政権自体は保たれた。
だが、慶長三年(1598年)に秀吉も死去する。遺児・秀頼はこの当時6歳で、まだ関白として政治を差配できるような年齢ではなかった。秀吉は秀頼の関白就任を懇願していたが、朝廷としても「現時点では難しいが、将来的には秀頼様に」とする他なかったのである。
こうして、武家関白制の頂点に立つべき関白職(を担える人物)は空白となってしまった。豊臣政権・武家関白制としては極めて致命的な事態である。秀頼は当時中納言に任じられていたが、まだ幼く、実力は持っていない。一方で内大臣(内府)[4]に任じられていた徳川家康が、官位による正当性と、軍事・政治を動かせる実力をもって雄飛の時を迎える事になる。
慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、同年十二月に関白に藤原氏(五摂家)の九条兼孝[5]を推挙し、彼の関白任官によって武家関白制は崩壊した。家康はのちに征夷大将軍という新たな正当性を得て江戸幕府を開いた。
豊臣家滅亡
これ以降、豊臣家は一大名に転落してしまうが、朝廷内(貴族社会)の中では「摂関藤原氏と同等の地位」「摂政・関白に就ける家柄」である事自体は変わりなかった。
つまり豊臣秀頼の将来的な関白就任の可能性はまだ普通に残っており、大納言→内大臣→右大臣、と順調に昇進するなど、一定の権勢を保持していた。武家としては徳川家の後塵を拝しつつも、公家としてはトップクラスだったのである(これは徳川幕府の体制から外れた場所にいる、非常に曖昧な立場である)。
秀頼の関白就任が実現していれば、武家関白制の再構築もあり得たかもしれない。だが現実には慶長二十年(1615年)、大坂夏の陣で徳川家康率いる軍勢に攻められて秀頼は自刃し、豊臣家は滅亡した。
以降、関白は藤原氏の持ち回りに戻り、武家がその座に就く事も二度と無かった。
関連項目
脚注
- *秀吉は近衛家の猶子となることで関白に就任していた。詳しい経緯は関白相論の項目参照。
- *天正十七年(1589年)に鶴松が誕生した為、智仁親王との猶子関係は解消された。だが鶴松はわずか2年後に夭逝する。
- *「太閤」は摂政・関白の位を跡継ぎに譲った人物に対する一種の称号だが、現在では秀吉の代名詞のひとつと言える。
- *内大臣は右大臣・左大臣に次ぐ3番目の地位。将来秀頼を任じたいという思惑や、武家官位制の弊害によって貴族の昇進が遅れがちといった様々な事情から、右大臣も左大臣も当時は空位で、内大臣の家康がトップという異常事態になってしまった。
- *九条兼孝は当時48歳。秀吉の三代前、天正六年(1578年)~天正九年(1580年)に関白を一度経験していた。
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