武帝単語

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武帝とは中国皇帝である。

概要

前漢全盛期を作った凄いである。武帝は諡名(おくりな、死んだ後につける名前)で、本名はりゅうてつ)という。16歳若さ皇帝に即位し、在位期間は54年と中国史の中でも清の康煕に次ぐナンバー3の長さである。

即位

前漢皇帝として多くの業績を残した武帝であるが、その即位はけして容易なものではなかった。元々は6代皇帝の数多くいる子どもの一人に過ぎず、母親皇后ではなかったため、皇太子になることはできなかった。しかし母親の王夫人(後に皇后)と、の嫖(館陶長)の工作によって、ライバルの側室や皇太子が追放され、皇太子の座に就くことになった。

しかしそのことは母親叔母に借りを作ってしまうことでもあった。叔母嬌を妻に娶り、陳皇后とした。はその即位の経緯から、母親叔母と妻に頭が上がらず、母親の異である田蚡もを軽んじていた。その上、祖母である太后(6代皇帝、5代皇帝皇后)も未だに政治的発言権があり、幼い皇帝は女に踏みつけられながら長い皇帝生活を始めたといえる。しかし、そのうちに祖母が崩御し、田が死んだ後に、陳皇后呪い)の罪を着せ位した。それからようやく始まった政までには即位から10年の日が流れていた。

外征

当時のの喫緊の課題は対匈奴政策であった。匈奴というのは現在モンゴル辺りに住んでいる北方民族で、これがやたらめったらに強かった。

中華匈奴の戦いの歴史は古く、春秋戦国時代には既に匈奴の侵入に悩まされており、北に土を面していたは常に匈奴侵略に悩まされていた。の高祖(劉邦)が中華と統一した後に匈奴に一大決戦を挑むもフルボッコにされ、その後は匈奴に貢物を送るという情けない外交関係にあった。しかも匈奴は貢物を送っていてもこまめに侵入してきては略奪行為を働いていた。

皇帝に即位した匈奴を討伐しようという意志を持っており、広や孫賀などの将軍を率いての地で奇襲待ち作戦を決行するも、直前に匈奴に見破られ失敗する。しかしその後、衛皇后である衛将軍に起用した結果、大功をあげ、更に衛の甥である霍去病(かくきょへい)も賦の軍才を発揮し、匈奴を北へ追い払うことに成功する。

更に南の南越定し県に組み入れ、朝鮮にも侵攻しこれを滅ぼして楽浪を置いた。数々の遠征によっての領土は最大まで広がり、武帝の時代に前漢全盛期をここに迎えることになった。

しかしその後、匈奴の再侵攻が始まった。その頃には対匈奴戦の英雄である衛は隠居しており、広も霍去病もこの世を去っていた。広利を将軍に起用するも匈奴に大敗し、広の孫の陵も匈奴に囚われた。結局、が崩御する頃には匈奴に相当南まで再侵攻されてしまった。

外交

は即位した直後から匈奴討伐を考えていた。そこで匈奴に恨みを持つ、中央アジアにあった大月氏と同盟すべく騫を西に派遣した。騫はその途中匈奴に囚われ、10年以上かけて大月氏に辿り着くが、その同盟は失敗に終わった。しかし騫の得た西情報により西への関心が高まり、後に匈奴が北に追い払われて行路の治安が良くなってから西の交易が始まった。この貿易路がかの有名なシルクロードである。

財政政策

内政に関して、を常に悩ませていたのは財政であった。の対匈奴戦の基本戦略は圧倒的物量による人戦術であり、さらに匈奴から奪う土地は痩せていたため、戦争の数だけの財政は酷しく圧迫された。そこでが取った政策は、の専売であった。人間の必需品であるはもちろん、当時の世界最高峰の練度を誇っていたの専売はに多くの財を与える。後にこれにの専売も加わった。

財政政策には、の専売に加えて、桑の提唱した、均輸・準法が有名である。均輸法とは各地の名産物を徴収し、それを転売することによって利ざやを得る物価調整法である。一方の準法とは物価が下がった時に政府が物を買い上げ、高騰したときに売るという価格安定法である。

しかし、これらの専売政策、均輸・準法は一般商人の商圏を犯すことであり、富裕商人が商売でなく土地による利殖を始めたことにより、ひいては農民が土地を奪われ、が乱れる原因にもなった。

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20 ななしのよっしん
2019/10/27(日) 13:50:45 ID: mrzeWqnkzH
>>10
どうも遠因として司馬遷(あるいは親父)がのことを悪く書いていたので恨みに思っていたという説があるらしい
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21 ななしのよっしん
2021/03/30(火) 14:00:59 ID: mEvfE+Ntnq
>>17
意外と人物眼は元々そこまで優れていなかったのかもしれんね
広利にしても登用の経緯は衛とほぼ変わらなかったりするし
むしろ衛を見出せたのが棚ぼた的な運の良さだったのかもしれん
功臣には先代からの生え抜きも多いし
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22 ななしのよっしん
2021/04/24(土) 12:51:12 ID: 4d2VCvug2y
霍去病を長いこと「うんこ病」と読んでた
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23 ななしのよっしん
2021/07/13(火) 22:44:19 ID: rJ6D3Svvvi
を悪くした感じしか見えないわ
有能はありえないと思う
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24 ななしのよっしん
2021/10/31(日) 00:27:52 ID: zzJDN/POjg
夫人の逸話がヤバすぎる
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25 ななしのよっしん
2022/06/07(火) 09:32:22 ID: Y6yHbaCzvk
後漢では劉邦に勝るとも劣らない名君
晩年は運が悪かったから過小評価されがち
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26 ななしのよっしん
2023/05/01(月) 08:38:13 ID: 5cOpVeB3pq
この人の場合は陵と司馬遷への扱いのせいで日本でも悪い言われがちだけど、個人的には名君として扱われる父親啓の方が印悪い。
若い頃から細な事で殺人(しかも皇族の重鎮の息子)を犯し、楚七の乱の内訌を作り出し、乱を収束させた周亜夫を死に追いやり、后や太子も行って後継者争い(先の乱で功績のあった武も巻き込む)を作り出す(後に息子にも引き継がれる悪例になる)。
そして幼いを残して死んでいく。錯の件も含めて良くも悪くも人を使い捨てにする才があるけど武帝みたいに悔やむ話(太子や武の件ではに詰られてから行動を起こす)もないしね。
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27 ななしのよっしん
2023/07/10(月) 22:18:16 ID: ktxlO7kT9x
18歳の時点で長年跡継ぎが出来ず心配されて衛子夫を紹介されるけどいつ結婚したか知ってる人いる?
もしかして前田利家みたいに性癖ゆがむ想像が出来るような年齢結婚してたり?
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28 ななしのよっしん
2023/08/14(月) 16:29:03 ID: LfeaBUAatz
>>27
年齢はそんなに大して変わらないんじゃね。だってあんまり幼いのをよこしても子作りできんのはわかってるだろうし。
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29 ななしのよっしん
2023/12/05(火) 14:47:47 ID: VzMzXibzUZ
武帝は前半は名君と言っていいけど老年になってからはガチでひどいから、総合的に見ると少しプラスくらいの皇帝になってしまってる
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