「武田信廉」(たけだ・のぶかど 1532年?~1582年)とは、戦国時代の武将である。
甲斐の虎こと武田信玄の弟。
概要
甲斐の戦国大名・武田信虎の子。武田信玄、武田信繁の弟。
武田信玄、武田勝頼に仕えた。
親族の重鎮として重要地を守った。
天正十年(1582年)に武田家が織田軍の攻撃を受けて滅亡した際、信廉は織田軍に捕えられて処刑された。
最前線で戦い活躍した武将というより、武将たちが報告を送り支援を求める上位者、地方軍政の司令官の役割を担ったとみられる。
武田家の活躍が記された史料『甲陽軍鑑』では、信廉は信玄によく似た容姿で、影武者を務めた。
武将よりも画家として高く評価されることがある。
長篠合戦と武田信廉
武田信廉には武将としての華々しい活躍の記録はない。
ただし日本史で有名な長篠の戦いにおいて、『信長公記』では織田軍に挑んだ武田軍の勇敢な部隊の一つに武田信廉隊を挙げている。
そしてこの『信長公記』の記述から、武田信廉は武将としても優秀だった可能性が考えられる。
前提の知識として長篠の戦いの情報を簡潔に記す。
同合戦の政治的経緯を含む詳細な情報については、「長篠の戦い」の記事を参照のこと。
<武田軍と織田・徳川連合軍の布陣場所>
連合軍 川 武田軍 川 医王山 川
川 川 川 鳶巣山←酒井勢
有海村 川 長篠城 川
川 川 川
重要なのが有海村である。この土地から川沿いに北上すると、武田軍主力陣地の背後や、武田軍の退路に回り込むことができる。
有海村には、『信長公記』では織田・徳川連合軍の別働隊が布陣。『甲陽軍鑑』では武田軍の高坂昌澄の軍勢がいた。
鳶巣山と長篠城の北は武田軍の支軍が守備した。鳶巣山の主将は河窪信実(武田信廉の弟)。
『信長公記』では、徳川家の酒井忠次の軍勢が鳶巣山と長篠城の北陣地を襲撃。武田支軍は壊滅し、河窪は討死。
『甲陽軍鑑』では、酒井勢が更に有海村を襲い、高坂昌澄が討死。
いずれの場合も、織田・徳川連合軍が有海村を押さえたことになる。
<合戦の流れ>
酒井勢が武田支軍を潰した後、『信長公記』では、連合軍が「挟み撃ち」を行った。
おそらく西と南から武田軍の陣地へ向かって押し寄せたのだろう。
敵の動きを見た武田軍は、陣地の外へ出て連合軍を迎撃した。
陣地の外で迎撃を行った部隊は、『信長公記』では下記の四部隊。
一番:山県昌景隊
二番:武田信廉隊
三番:上野国小幡党(赤備え)
四番:武田信豊隊(黒備え)
四部隊は順番に連合軍(織田軍)へ果敢に戦いを挑んだ。
織田軍は窪地に隠れて鉄砲を撃ち、四部隊を順に撃退。四部隊はいずれも呆気なく敗走した。
そして合戦の結果は、武田軍の惨敗。重臣の山県以下多数の将兵が討死して武田軍は大損害を被った。
これだけ見ると最強武田軍の面目丸潰れである。
加えて信廉隊以降の三部隊は、先に織田軍へ挑んだ友軍が銃撃を受けて敗走したのに、また突っ込んで同じように撃退された。
しかし当時の合戦で用いられた戦法と合わせて考えると、武田軍は情けないどころか危機的状況の中で可能な範囲で最善の働きをした可能性も考えられる。
<武田軍の危機>
・長篠は敵地(徳川家の勢力圏内)で、逃げる時は怖い土地になる。
武田領(安全地帯)までの距離が長いため追撃を受け続けることになる、徳川家を支持する士民からも襲撃を受ける危険がある、道や方角を間違えて逃げ場を失う恐れがある等。
・武田支軍が壊滅し、有海村を連合軍に押さえられた時点で、武田軍主力は厳しい状況に追い込まれた。
有海村から連合軍の別働隊が北上した場合、武田支軍が健在であれば側面から牽制を行えたが、支軍の壊滅により不可能に。
・支軍壊滅を知った武田軍主力の士気が低下した可能性。
・軍勢の人数で劣る武田軍が主力から部隊を割いて有海村方面に送り出すと、西から迫る連合軍主力の襲撃を防ぐ軍勢が減少する。
武田軍が勇敢に戦ったことは長篠合戦について記述した各史料に記されている。
ただし勝算があって連合軍に挑んだのか、無謀な突撃を仕掛けたのか、あるいは別の狙いがあって戦いを仕掛けたのかはまた別の問題となる。
撤退に際しては、武田軍総大将かつ武田家当主の勝頼が生還することは絶対、その上で(可能な限りだが)多くの将兵を生還させる必要があった。
もちろん理由は人命尊重ではなく、長篠合戦後から始まる防衛戦の為である。
長篠合戦で連合軍が勝利したら、彼らは短期間で武田領への侵攻を始めてしまう。その侵攻を食い止めるより多くの戦力が必要となる。
後方に味方の強力な友軍がいる場合はただそちらへ向かって逃げればよいが、長篠合戦で武田軍は徳川領へ深く侵入し、また後ろに強力な味方はいなかった。
撤退には準備が必要となり、相応の手間と時間を要した筈である。
もし四部隊が陣地の外へ出て織田軍を迎撃していなかったら、どうなっていたか。
連合軍は妨害を受けず、短時間で武田軍陣地の傍まで来てしまう。
そして武田軍が逃げ出し始めたら、すぐに武田軍陣地の柵を踏み越えて追撃戦を開始する。
撤退を開始した時点で両軍の間の距離が短いと、武田軍が被る損害はさらに甚大なものになる。
<当時の野戦>
武田軍と連合軍の決戦は大規模な会戦だったため、野戦では集団戦法が採られたと考えられる。
下記は当時の野戦の流れである。
前進して敵軍との距離を詰める。または後退して敵軍との距離を広げる。
↓
攻撃側は敵が弓や鉄砲の射程に入ったら、前進を止めて射撃を行う。
↓
防御側は敵軍の射撃準備を見たら、前進または後退を止めて、盾持ちが木盾や竹束を掲げて味方を敵の射撃から守る。
↓
敵の射撃が止んだら、敵と同じように弓や鉄砲で反撃を行うか、部隊の前進・後退を行う。
↓
敵軍との距離が間近まで迫ったら、槍兵が前進して突撃を行う。混戦になったら抜刀して戦う。
↓
敵軍が敗走を始めたら、追撃戦を行い、敵の首を獲る。
※武田家は信玄、勝頼が鉄砲に注目し、鉄砲の確保を家臣に奨励するなど、鉄砲を軽視はしなかった。
銃撃を防ぐ方法が開発されていたことも要注意だが、今回重要なのは、射撃を行う又は防御する段階では、部隊が足を止めるという点である。
当時の武士には馬を走らせながら(=移動しながら)射撃を行う熟達者も大勢いたが、 盾持ちから離れて突出すると、敵の射撃の的にされてしまう危険があった。
四部隊は織田軍に戦いを挑み、その度に織田軍は前進を止め、窪地の陰から射撃を行った。
その間、織田軍の中で四部隊と交戦した部隊は、前進できない。
「危機的状況の中、武田軍主力は撤退の準備を進めた。その準備に必要な貴重な時間を、四部隊は命懸けで稼ごうとした」
という可能性が考えらえる。
<武田軍の結束>
四部隊の呆気ない敗走も、彼らの戦いが時間稼ぎの為だったなら、更に四部隊もこの時点で玉砕するつもりがなかったとしたら、正しい戦法として説明がつく。
敵の足止めだけなら、目の前の織田軍部隊を撃破する必要はない。
逆に撃破した場合、後続の織田軍とも戦う羽目になる。
また武田支軍の壊滅でもし武田軍の士気が下がっていたとしたら、そもそも部隊はまともな戦闘に耐えられなかっただろう。
敵が足を止める距離まで迫り、攻撃を仕掛けて敵に防御行動を強いる、敵から反撃を受けたらすぐに逃げる。それが精一杯のことで、かつ最適だったのかもしれない。
そして四部隊が次々に織田軍に挑んだことは、武田軍の団結力を示している。
一部隊が踏み止まり捨石になるのではなく、敗走した部隊を見捨てたわけでもない。
敗走した部隊の背中を守り、後を任せられる次の部隊がいる=「皆で一緒に帰ろう」ということになる。
(これも人命尊重ではなく、撤退戦もより多くの戦力が必要という判断、あるいは捕食者から逃げる草食動物の群れの知恵=仲間が多い方が自分が狙われる確率は下がるという話かもしれないが)
武田信廉はこの時、武田軍が被る筈だった更なる損害を防ぎ、多くの将兵を救って次の戦に繋いだ名将だったのかもしれない。
他の合戦で活躍した記録のある山県昌景、小幡党、武田信豊と違い、武田信廉が戦場の武将としてどれほど活躍したのかは結局不明ではあるが――。
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