この記事は、死刑制度の存置派・廃止派それぞれの主張がどのようなものかを簡潔に解説してみる記事です。
実社会における死刑の実態については「死刑」の記事を参照するなどしてください。
死刑制度は必要か?必要でないか?
20世紀後半(特に20世紀末)になって、世界の多くの社会が凶悪殺人犯などに対する死刑制度を廃止するようになっている。「民主社会は、国家が法のもとに人の命を剥奪するという伝統を維持すべきか否か。」
現在、社会思想・法制度・生死論・国民感情などが複雑にからむ死刑存廃問題は、日本においても学生のディベートから哲学書に至るまであらゆる所で論じられてきている。
同名の記事はWikipediaにもあるけれど・・・
Wikipedia日本語版の「死刑存廃問題」の記事は中立的かつ詳しいのだが、存置派・廃止派の主だった学説がそれぞれ根幹に据えている論拠と、お互いに対するありがちな反論が並列の扱いで述べられているため、一般的に言ってそれぞれどの点に説得力が見出されているか、分かりづらくなってしまっている。
この大百科の記事では、両派の学説やら感情的俗論やらに目を向けた上で、その主張パターンの根っこにあたる論拠だけを書いてみようと試みた。
死刑存置派の主張パターン
A. 古典的社会契約説にもとづく法の正義の主張
人は誰しも理不尽に命を奪われない道理がある。そのような社会において故意・悪意で人命を奪ってしまった者に与えるべき中立的判決は、同等に死を与えることしかあり得ない。許される余地のない者に生きることを許してしまえば、かえって法の正義や、被害者の生命の尊厳が保たれない。
実際に、「全国犯罪被害者の会」もこのような見地から死刑存置を訴えている。
B. 死刑が社会的不幸の増幅を抑えているという主張
日本には江戸時代まで被害者の近親による仇討ちが認められていた歴史があり、今でも伝話などで肯定的に捉えられることがあるが、現在の社会秩序は、私闘を認めない代わりに司法が刑事的判断によって個々の問題に決着をつけ、国民もそれを支持していることで成り立っている。
そのため、司法が許されざる凶悪犯に対して死刑という究極の判決を下す可能性を放棄してしまえば、自制心を失った遺族の中には、自ら仇討ちを動機として私刑に走る者が現れたり、そうでなくとも憎悪のやり場がなくなるなどして、日本社会に息づく道徳観の崩壊や不幸の増大を招く可能性がある。
C. 死刑は比較的コストがかからないという主張
もし死刑の替わりに終身刑や無期刑を極刑とすれば、囚人の寿命が尽きるまで長期にわたって収監しなければならない事例が増え、社会が負うべき経済的コストが高くつく。 これについては「無期刑は懲役刑であり、生産作業に従事させることで収監コストをある程度カバーしている。懲役刑ではなく、生産性のある作業に従事させない死刑囚を長期間収監することの方がより多くコストがかかる」という反論もある。
実際のところは、収監コストを食費や水道光熱費、生活費等、受刑者の身の回りに関するものだけで見れば無期懲役の方が死刑囚よりも圧倒的に安くつく。しかし、彼らを監視する職員の給与などを収監コストに入れると逆転する。しかし、彼らの給与が本当に全て収監にかかるコストと言えるのかどうか、という議論も生まれて来るであろう。どの部分をコストと捉えるかで答えが違ってくる話である以上、永遠の議論と言えるかもしれない。
D. 凶悪犯の社会復帰を許してはならないという主張
悪意から殺人を犯し裁判でも反省の色を見せないなど、更正・社会適合する可能性が見いだせない凶悪犯は、永久的に社会から抹殺するのが国民の安全のためとなる。
無期刑では凶悪犯が仮釈放され社会に出て来る可能性がある。これについては、以前は仮釈放の審査が緩く15~20年で比較的多くの無期刑受刑者が仮釈放されてきたイメージを引きずっているとの指摘がある。現状においては仮釈放されずに獄中死する無期刑受刑者の割合(分母を「仮釈放者+獄中死者とした場合の獄中死者の割合)は2004年以降の数値でおよそ75%と比較的高く、1998年以降は死刑に極めて近い重罪を犯した凶悪犯に対し仮釈放の審査にすら上げてもらえない(=終身刑に準ずる)「マル特無期」の運用も開始されている。
しかし、いくらマル特無期や終身刑であっても脱獄・逃亡の可能性が完全にゼロと言えない以上、死刑制度を存置すべきである。
死刑廃止派の主張パターン
A. 立法や司法の絶対性に一線を引くべき(人は誰でも過ちを犯すものである)という主張
死刑は懲役刑などと異なって、一度執行してしまえば、冤罪が判明した場合や法体系改正による赦免が必要になった場合に、受刑者本人を救済できる可能性が完全に閉ざされてしまう。
また、警察や司法といった機関も人間が携わっているものであり、人間はどんなに慎重に正義を以って事の判断に当たっても間違いを100%防ぐことは出来ない。死刑を容認することは、不確実な結論に対し不可逆的な処罰を与えることとなり、執行後の正当性を担保するものが無いから、如何なる理由があっても死刑に処すべきではない。
国の法律や判決に対して、特定の人命を直接与奪するほどの絶対性を付託するべきではなく、終身刑・無期刑などより人命の扱いに慎重な刑罰をもって死刑に替えるべきである。
B. 死刑執行人を生み出すべきではないという主張
死刑は、死に至らしめる身体に介入する(日本のような絞首刑の場合、「執行を宣告する」「受刑者を絞架台に連れて行く」「絞架台をセットする」「ボタンを押す」「遺体を処理する」etc.)刑務官らに対して、本来あるべきでない精神的影響・負荷を持続的に与えてしまう。
C. 死刑は過度に残虐であるという主張
絶対権力によって人間としての可能性が閉ざされ、(現在の日本の死刑であれば)いつ刑が執行されるか分からないまま過ごさねばならないという性質上、死刑は過度に人権侵害的な残虐刑である。
どれほど凶悪な犯罪者に対してであっても、行政機関が合法的に執行する刑罰として好ましくない。
D. 理想主義的な立場に立った主張
受刑者は、死刑によってある種の罪意識からの解放を受けるのでなく、生きながらにして罪を悔い、噛みしめるべきである。
被害者の遺族らは、加害者を被害者と同じ死に至らしめて解決するのではなくその生だけは赦すことによって、憎しみの残忍な応酬から本当の意味で逃れられるはずである。
迷宮入りの主張パターン
死刑には「凶悪犯罪を抑止する効果がある」という主張
しばしば議論が混迷してしまうテーマに、「死刑には終身刑など他の刑に比べて、凶悪犯罪を抑止する効果があるか?」というものがある。
死刑制度の凶悪犯罪抑止効果を実証しようとする論文は過去にいくつもあるが、学界で広く説得力を認められているものは存在しない。これまでに死刑制度を廃止した国で犯罪が凶悪化したという目立った結果は見られず、アメリカでも一部に死刑制度のない州があるが、凶悪犯罪の発生率に有意な差は認められない。
今日では、死刑制度自体の犯罪抑止力を主要な死刑存置の論拠とする学者はほとんどおらず、「そもそも刑罰は被害に対する最適な応酬とみなされる形をとるべきであり、犯罪抑止力の程度によってその内容が決められるべきではない」というのが現代法学界における通説になっている。
また、世界格国の殺人事件発生率を見てみると、死刑存置国・廃止国の区分による相関は見られず、それよりもその国の治安の良し悪しが殺人事件発生率と有意に相関していることが見て取れる。即ち凶悪犯罪の多寡はその国の治安と密接に関わっており、その背景に貧困や教育をはじめとする様々な社会問題があるということが言えよう。死刑制度を含め様々な量刑は既に起きた結果に対する一種の物差しを示しているに過ぎず、凶悪犯罪の抑制を目指すには死刑制度云々の議論以前にまず治安の維持向上から、と言うことが出来ると考えられる。
ちなみに江戸時代は一罰百戒の考え方のもと、市中引き回し等死刑を上回る残虐刑が多く設定されており、例えば今で言う不倫や一定額を超える盗みにまで死刑が適用されるなど、犯罪に対して非常に厳しい処罰がされていた。しかし、だからといって厳罰が犯罪抑止効果に寄与していたかと言うとそうでもなく、窃盗罪の場合は盗人が死罪を免れるよう被害者が盗まれた額をわざと少なく申告したり、不倫に関しては示談で済ませるなど、あまりにも厳罰であるがために逆に被害者が加害者の身を案じて気を遣うという奇妙な現象が日常茶飯事で起こっていた。
ここから、厳罰化は一定の抑止効果はあるものの、ある閾値を超えるとその効果は薄れるか、若しくは失われてしまうことが考えられる。どんなに刑罰を厳しくしたところで、犯罪の根絶は不可能であることを日本の歴史が物語っていると言えよう。
存置論・廃止論以外で、よく主張される論点など
- 死刑はせめて他の刑罰と区別し、裁判官・裁判員の全会一致によってのみ量刑判断を下すことができるようにすべきである。
- 法務大臣の思想や受刑者個人に対する主観的評価が執行判断に大きく影響を及ぼしている現状は、明らかな法の下の平等に違反する。「再審請求の棄却や再審の終了から六ヶ月後」など死刑執行の基準を法律などで明確にし、法務大臣の個人的思想による執行命令不履行は、職務違反と見なすようにすべきである。
死刑存廃をめぐる世論
国内世論
日本全体の一般世論においては、昔から存置派の割合が大きく廃止派は少数派である。国や新聞社のやっている大きな社会意識調査などではどのようなものでも、おおむね7~8割前後が「死刑制度を残すべきである」「あまりに凶悪な犯罪に対しては死刑の処置は必要である」などと答えており近年も大きな変化はないが、死刑存置派の割合がやや増加傾向である。しかし「死刑に代えて終身刑を導入する」という条件を追加した場合、死刑存置派は5割強、廃止派は4割弱(残りは未回答など)とトーンがかなり変わってくる。即ち死刑に対して「積極的に賛成している者」は国民の半数強程度であり、残りの2~3割は「消極的賛成」である点に留意する必要があると言えよう。
また、死刑制度を残すべき理由としては一番多いのはやはり「遺族感情への配慮」となっている。言い換えれば、もし死刑を廃止すれば自力救済の横行と復讐の連鎖が始まる懸念があり、実際に起きかねないのが実情である(実際に光市母子殺害事件で妻と子を殺された男性が、被告を死刑にしないならば無罪にしろ、そして自分で裁くと言った例もある、仮に死刑廃止されていれば一歩間違えば復讐の連鎖が始まるところだったのである)。
このように世論自体は明らかであり、民主主義の観点から言えば死刑廃止は日本の民主主義に真っ向から逆らうことになるため、日本の政党において死刑廃止をあまり表立って主張する政党・政治家も少なく、日本において死刑廃止が国会の議論の目玉になったり、選挙の争点として大きく取り上げられたことはない。
逆に、法学系の学界においては理論面では死刑廃止論が多数派となっているようである。ただし、死刑廃止論者として熱弁を振るった弁護士などが、家族や仲間などを殺され犯罪被害者遺族の立場になると、あっさりと手のひらを返してしまう例も多く、このあたりも死刑廃止論者にとっては苦しい所である。
考えを変えなかった人もいないわけではないが、「家族を殺されてなおも死刑廃止の考えを変えないのは要するに家族のことを本心では愛していなくて邪魔だと思っていたからだ」と思われているのが実情である(もちろんこれではどっちに転んでも死刑存置が正しいことになるため論点回避の虚偽となり詭弁となるのだが、これを見抜ける人は少ない)。
もっともこのような価値観は日本固有の社会に根差していることも一因にあると言え、例えば大半の国が死刑制度を廃止している欧州の場合、家族を殺されてもその宗教観からか「自分も間違いを犯すことはあるのだから、たとえ家族を殺した殺人犯であっても相手のことを『死ね』とまでは言えない」、簡単に言うと「自分も他人のことを言えない」と考えている人が主流のようである。このような価値観の違いも、死刑制度に対する見解が分かれる理由の背景にあるものと思われる。
しかしながら、前述の例を踏まえたとしても、現職の弁護士には死刑制度反対派の方が多い。「加害者を救えば金になるからではないか?」などと邪推する声も多く聞こえるが、本当の理由はそんなものではなく、単刀直入に言うと警察や検察の捜査が信用出来ないから、死刑廃止を訴えていると言える。最初から容疑者が真犯人であるかのようにシナリオが用意され、そのシナリオに沿って捜査し振る舞う捜査当局の姿勢、そして蓋を開けてみたら冤罪であったケースも決して少なくない…こうした不信感や不満から「こんな杜撰な捜査に人の命を預けてはならない」という思いを募らせ、弁護士になる前は死刑制度賛成だったのが死刑反対へと鞍替えする者も少なくない、という訳である。また弁護士はその立場や性質上公権力の力をまざまざと見せつけられることが多く、「自分は依頼人である加害者を巨大な権力を持つ国から守るべく闘っているのだ」と錯覚(※)してしまうのだろう(※一般民衆から見た感覚。本来加害者の相手は被害者であり、国は被害者の代理に過ぎないはず)。そう考えると、弁護士に左派が多いのもある意味合点がいくことではある。
また、少年による殺人等、凶悪犯罪が相次いで報道されるたび、少年法の撤廃や未成年者に対する死刑を求める声が少なからず起こっているが、そもそも論として18歳未満の死刑や終身刑を禁じているのは少年法ではなく「児童の権利に関する条約」である。即ち、18歳未満の少年に死刑を求刑する行為は違法どころか国際法違反であり、法律違反以上に瑕疵ある行為となってしまうのである。もし少年法の改正を訴えるとしても、犯行当時18~19歳だった少年を成人と同等の基準で裁くことを可能とする程度しか訴える余地はない点に留意すべきであろう。
国際的な趨勢
アムネスティ・インターナショナルの調べによると、2010年現在、
- 死刑制度を全面的に廃止している・・・96ヶ国
- 国家に関わる犯罪にのみ死刑制度を残している・・・9ヶ国
- 少なくとも直近10年は死刑執行を凍結している・・・34ヶ国
- 死刑制度が継続的に運用されている・・・58ヶ国
となっている。いわゆる「先進国」型の社会において、現在も国民の多数派の道徳観が死刑制度を必要とみなし、実際に継続的に死刑を執行している国は、日本・アメリカ・台湾・シンガポールの4ヶ国であると言われている。
人口の多い国に死刑存置国が多く、国家数では少数派でも、人口別に見ると実は死刑存置国の方が多数派になる。
地域別に見ると、アジアでは東アジアから中東まで大多数の国が死刑を実施している(韓国、香港、フィリピン他いくつかの国を除く)。アジア以外では、アメリカ、キューバ、ベラルーシ、およびアフリカの10数ヶ国ほどが実施しているのみである。
ちなみに、国際的に多数派だから合わせるべきだという主張は、いわゆる「衆人に訴える論証」になり、詭弁になってしまうので死刑廃止派の立場としてもくれぐれも注意したい。
関連項目
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