比企能員(?~1203)とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将である。
概要
父母は不明だが、源頼朝の乳母・比企尼の甥で彼女の猶子となる。その関係で1180年に頼朝が伊豆で挙兵すると、彼に仕えた。1182年に頼朝の長男源頼家は彼の家で誕生し、能員の妻、河越重頼の妻、梶原景時の妻らが、乳母となり、源頼家は比企氏を後ろ盾として養育されていった。加えて安達盛長の妻、河越重頼の妻、平賀義信の妻、源範頼の妻、源義経の妻、北条義時の妻は皆比企氏の出身で、頼朝は当初は比企氏を軸に源頼家を支えていこうとしていたようだ。
1184年には甲斐・信濃で源義仲の残党が挙兵したとして、和田義盛とともに足利義兼らを率いて追討している。さらに源範頼に従い、義兄・比企朝宗とともに西海に赴いた。
奥州合戦では北陸道大将軍として宇佐美実政とともに出羽を制圧し、大河兼任が挙兵すると今度は上野・信濃の軍勢を率いて東山道大将軍として出陣していく。そして頼朝の上洛に供奉し、右衛門尉に任じられ、幕府でも上野・信濃の守護となった。
ところが、源頼朝の死後、外戚の地位をめぐり源頼家を擁立する比企派、源実朝を擁立する北条派に分かれることとなる。比企能員は頼家の直断が停止され合議制に移ると十三人の中に入り、さらに梶原景時の弾劾にも参加するなど、御家人を代表する宿老として取り扱われていたものの、能員の娘・若狭局が頼家との間に子・一幡を設けると状況が変わる。
北条時政はこれに危機感を覚え、頼家が旧病で倒れた際西日本を実朝に、東日本を一幡に分割継承させる案を提出した。そして比企能員が時政の屋敷を訪れた際天野遠景、仁田忠常によって殺害され、さらに比企一族の館も襲撃されて若狭局、一幡も含めて族滅されたのである。
『吾妻鏡』では比企氏が時政の排斥をたくらんだためカウンターとして行ったとされるが、実際のところは不明であり、これを否定する学者も多い。ただ、比企氏そのものが比企能本のように僧籍に入ったものを除くとこれ以降の歴史でいなくなってしまったため、真相は闇の中である。
関連静画
関連項目
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