毛利元就単語

モウリモトナリ

毛利元就もうり・もとなり 1497年4月16日 - 1571年7月6日)とは、日本戦国大名

人物概要は、概ね次の通り。

く、

や芸や慰め、何事も要らず。

武略、計略、調略こそが肝要にて

謀多きは勝ち、少なきは負ける。

・・・とのこと。

これは、頼りない一面も併せ持っていた嫡男・隆元に言い渡した訓の1つである。する息子へ向けたにしては厳しく過酷な言葉だが、これは彼の歩んできた人生そのもの。そしてそこから得た教訓でもあった。

 

生涯

雌伏の青少年期

安芸現在広島県西部)の人領の1つ、安芸毛利の当毛利弘元の次男として生まれる。
幼名は寿丸

先祖は天皇朝廷)や源頼朝鎌倉幕府)に仕えた文学者・政治官僚であり、軍学者でもあった大江広元大江氏は源氏平氏にも負けず劣らぬ名門なのだが、その一である安芸毛利室町時代には衰退して、安芸の小領という立場にまで落ちぶれていた。
しかも、元就の登場までは当折や急死が相次いでいたため、井上氏や坂氏、渡辺氏といった重臣達が強権を振るい、横領や恣意的政治が横行するなど中は腐敗していた。(元就の祖・豊元に始まって元、長元ら全員20代30代で折していた。この若死にの連鎖により、臣の中には毛利が呪われていると信じ込み、尼子から養子を迎えようと画策する者もいたという。恐らくは、某謀聖の差しだろうが・・・

ましてや元就は、その次男坊だった。しかも利発な性格だった(いわゆる「うつけ者」だったとも言われる)ため、本家を及ばさぬように遠ざけられた。

元の隠居所でもあった多治で、臣の井上元盛に後見されながら、元就は育つはずだった。
だが、その後見役だった元盛にナメられてと領地を横領されてしまい、下のあばら屋で過酷な生活を強いられた。
その貧窮ぶりは、領民達から「乞食殿」と貶されるほど悲惨なものだったとされる。(この恵まれぬ少年期を、経済面・精面の双方で支えてくれたのがの継室・の大方だった。彼女は、元就の人間形成に非常に大きな影を与える)

だが元就は、その逆をバネにするかの如く、成人後は政軍両面で辣腕を振るった。元が急死し、その子である幸丸(幼児)が当になると、元就は叔父として後見人として、それまで有臣達に襲断されていた毛利本家政治体制を立て直し、正常化していく。

その後、元々病弱だった幸丸が折すると、元就と異・相合元綱との間に後継争いが生じる。この御家騒動黒幕は、元就によって既得権益を脅かされた毛利の重臣達、そして元就の才覚を危険視する出雲の王・尼子経久であった。
この事実を察知していた元就は、尼子との断交を決意し、元綱とこれを支持する有臣・坂広秀一を討伐。同時に嫡男・隆元大内へと人質に出し、同盟を締結して速に後背を固めた。以後は大内との同盟関係を軸に、様々な謀略・政略を展開。尼子との抗争を戦い抜いていく。(督相続の際にを殺した事は、元就の人生トラウマともなった。息子達に兄弟結束を訴えたのも、これと縁ではないだろう)

論、戦においても元就の武勇と知謀は存分に発揮された。初陣である有田中井手の戦い(当時20歳)や山城の戦い、吉田山城の戦いなどでは兵的不利や逆して勝利を重ねる。これらの勝利は、先述の謀略と相乗効果を発揮して、元就の武名と毛利の立場を更に高めていった。

だが、大内導で行われた出雲遠征では、元就自身は軍権を握れずに不利な戦いを強いられ、自身も死の危険にされるほどの手痛い敗北を喫してしまった。
それまでの人生で、数多くの苦渋をめ続けてきた元就も、この出来事にはさすがにを煮やしたらしく、以後の彼はまるで別人のように、強引かつ拙速に権勢拡大を図っていく。大大名の使いっ走りとして、辛苦を押し付けられないようにするためには、自らが強くなるしかない。それが戦国乱世の習いであり、彼なりの『悟り』だった。

 

万一心」

元就が、本吉田山城の増築工事の際に、人柱の代わりに埋めた石柱に刻んだ言葉。オリジナルの石柱は紛失しており、実際はどう書かれていたのか定かでない。
この言葉は、漢字を崩すと「一日一力一」とも読める。元就の人生のテーゼ的な言葉である。

 

覇業へと乗り出す

元就は、それまで積み重ねた政治工作と地盤固めを活かし、一気に覇業へと踏み切った。

手始めに、有族である吉川と、強軍を持つ小早川にそれぞれ次男・元と三男・を新当として強引にねじ込み、これを吸収した。
そして元就自身は名上「隠居」し、当職を嫡男・隆元に委譲。自身は後方で謀略活動に専念しながら、毛利吉川小早川の三を包括的に揮する体制を創った。
これが、後に名高い「毛利」として、毛利の存続に大きく寄与するのである。

これに続き、それまで内政面で強い発言権を持ち、横領や法度違反などの専横が立った井上一族(子女含めて30名以上)を粛清した。
この政治位を埋めたのが、隆元と共に立ち上げた五奉行(豊臣の同名制度とはまた別物)制度であり、これで毛利本家の内政は論、それまで有臣が個別に行っていた外交部門も一本化された。これにより安芸備後の両は、静かに、しかし着実に毛利の領と化していった。(この間に元就は、大内義隆に言い寄って「安芸毛利殿の裁定自由」というお付きを貰ったりした。転んでもただでは起きない!

しかし同時期、の退危機感を抱いていた大内臣・陶隆房と、徐々に関係を硬化させていった。
陶隆房九州大友宗麟から養子として大友晴英(後の大内義長)を迎え入れて傀儡化し、政治興味を失い奢侈に走っていた義すべくクーデターを起こす。これが西のみならず日本全体の政治経済に大きな影を与えた大寧寺の変である。
西の支配者だった大内義隆陶隆房に討たれ、それまで大内導していた中国地方政治場に大きな変化が生じた。元就は表面上、この変事に陶方として参加し、安芸内の秩序維持に専念しているが、実際はそれ以上の関与をしていたとされる。(大寧寺の変の直前、元就は元を連れて、大内の本拠・山口を訪れている。その際、陶隆房のみならず、親義冷泉隆豊とも接触していた)

 

ターニングポイント・厳島の戦い

その後、隆元の意見も聞き入れた形で陶晴賢陶隆房から名)と断交。世に名高い厳島の戦いに発展する。だが毛利軍と陶軍(4千対2万とも)の戦差は歴然としており、元就の不利は明らかだった。これに対し、元就は間諜と虚言を用いた謀略戦を展開した。

元就は決戦に際し、以下のような謀略を展開した。

  • 厳島で陶軍を奇襲し、総大将陶晴賢をも討ち取るため、厳島に急造のを建設。その上で元就自ら「厳島は防備が薄く、攻められたらひとたまりもない。私の知恵のも、老いて曇ってしまった・・・」と漏らし、間諜を通じて陶軍に伝わるようにした。陶軍を誘引するためであった。
  • 直情的な陶晴賢激怒させるため、厳島に元陶軍の武将である宮里宮内、己直之を入れて挑発した。
  • 元就のことをよく知る陶軍の重臣・江良房栄を排除するため、陶方に「房栄は毛利軍と内通している」と偽報を流して、晴賢に房栄を誅殺させた。(異説として、房栄は最初から元就に内通していたが、恩賞の関係から元就に想を尽かされ、逆に内応の情報晴賢に流され、誅殺されたというものがある。)
  • かつて元就に反逆して殺された坂広秀の甥にあたる重臣・元澄に、偽りの内応を促した。元澄に「元就を討ち、一族の恨みをらしたい。陶軍が厳島を攻めてくれれば、私はその隙を突いて吉田山城を奪う」という、の文書を晴賢に送らせた。
  • 瀬戸内の交通料徴集を巡って、陶晴賢と対立していた村上軍を買収。決戦に際し、毛利軍に全面的に協することを確約する。(決戦当日、村上軍は小早川隆景と共に、毛利軍の別働隊として陶軍と戦った。また、陶晴賢の脱出用舟艇も沈める大功を挙げた。)
  • 尼子による介入を避けるため、当時尼子晴久との間で微妙な間柄となっていた新宮党の首領・尼子国久に内応の噂を流した。この時、元就は領内で捕らえた罪人を山伏の姿に仕立て、懐に元就と久の親密な間柄を臭わせる文書をばせた上で、尼子の領内にり捨てておいた。結果、久と新宮党久によって誅殺され、尼子混乱厳島の戦いの最中、毛利を攻めることはできなかった。(近年では元就の関与はなかったとされているが、この時期の粛清によって尼子が動けなくなったのは事実である。)

陶晴賢は、元就の論見通りに力部隊と共に厳島へ渡。そこに、暴風雨を突いて厳島に潜伏していた毛利軍が陶軍本隊を奇襲した。
大軍だった陶軍は、厳島の狭い戦場では思うように動けず、即座に混乱してしまった。陶晴賢は危険を感じ、厳島からの脱出を図るが、脱出用の船は沈むか、兵達に乗り逃げされてしまっていた。追い詰められた晴賢は自し、陶軍は瓦解する。元就は一世一代の大謀略戦に勝利し、中国地方全域を統べる戦国大名として、第一歩を踏み出した。当時、元就は59歳だった。

君であった大内を滅ぼして下克上を果たした、というにいわれることがよくあるが、正確には元就が下克上を果たしたわけではない。
先に大内であった大内義隆に反逆した陶晴賢大内義長こそが下克上の当事者であり、元就はその討ちをしただけである。(事実はどうあれ、元就は討ちと権継承を名として、中国地方の統一事業を進めた。元就の性格から推測するに、そういった体裁を取った方が難だと踏んだのであろう。)

厳島の戦いに勝利すると、元就は防長定を行う。これにより大内は滅ぼされ、毛利はその旧領と遺産の多くを引き継ぎ、中国地方を代表する大へと変貌した。

 

子孫へ遺したモノ

大内によって大へ成長した後も、元就は休むことはなかった。残る大敵である尼子にも、積極的に攻勢を仕掛けていったのである。

尼子晴久の急死によって動揺した尼子に対し、元就は足利義輝の調停活動を利用して、不等な和協定を締結。その動きを封じ、ドル箱となる石見銀山を入手する。
その後は、物量攻勢と謀略戦を巧妙に併用して尼子を追い詰めていき、遂には1566年(永9年)に月山富田城を兵糧攻めにして攻略中国地方毛利の支配下に置かれた。

元就が50年以上もの歳を掛けて築き上げた領と財産は、後に元就自身すら「なんとか運味方して、危機をことごとくすり抜けてきた」と謙虚に述懐するほど巨大だった。

だが・・・元就が中国地方定を成し遂げた頃、中央では織田信長が上に成功し、下布武の準備を着々と進めつつあった。
1567年当時、元就は70歳。片や信長は33歳。元就は、この若き俊英と下を争うことの愚を悟り、その存命中は織田と対立することを極避けた。

元就は迫り来る寿命の恐怖にもめげず、1569年(当時73歳)の立花山城の戦いと多々良の戦いにも、自ら具足を身に付けて出し、実際に戦闘を行っている。(またあっちの方もお盛んだったようで、71歳の時に九男の秀包が生まれていたりする。孫よりも若い息子とか、どうなんだろうね・・・
最晩年に行われた大友との戦いでは、大友宗麟(正確には彼の軍師・吉岡長増)の策略に足下をすくわれ、領内に大内残党の侵攻を許すなど失態を演じた。これにより元就は九州進出計画を諦めることになるが、領内の鎮定に専念したことで大内の復活を阻止し、その後の出雲動乱(山中鹿介の侵攻)にも対応することができた。

2年6月14日1571年7月6日)、毛利元就は吉田山城で逝去した。享年75歳。名・洞殿日頼洞大居士。
まだまだ手のかかる息子や孫達を置いて、謀神と呼ばれた男は独り静かに立った。その最期は三男・小早川隆景が看取り、その知謀と志は彼に受け継がれる事になった。

 

智万人に勝れ、下の治乱盛衰に心を用いるものは、世にの友は一人も有るべからず。

千載の上、千載の下に、の友は有るべき也。

是人を同ふして生まれなば、彼をするか、彼にせられるるかの二つ也。

若し二人志を同ふして世を治めんには、万民安堵、四とす事、又何の難き事か之有るべき。

~ 「名将言行録」より

元就がしくに酔って、こぼした愚痴の一文とされる。意訳は次の通り。

みたいに頭が良くて、その才政治戦争具に使うようなには、友人なんて1人もいない。過去千年と未来千年の間にこそ、の友人というものはいるものだ。でも、もしその友人と同じ時代に生まれたら、結局この時代の群雄のように互いに争って殺し合うしかないんだ。それでも、その友人同士、群雄同士が心を1つにすることができれば、下の万民を安堵させ、四に太をもたらすことなど難しくもないのに。悲しいことだ。」

権謀術数によって多くの人命と人心を弄んできた、謀将には似つかわしくない言葉である。だが、血も涙もない謀略の数々の裏に、こういった人間的な一面を持っていたからこそ、元就は最期までを誤らなかったのだろう。

 

後世の評価

現在でも戦国時代随一の知将・謀将として名を馳せており、戦国時代最高の名将の一人とも評価されている。合戦よりも、政治的謀略に長けた政治家と見られがちだが、武勇や軍略面でも優れた功績を残す。

最近では「謀神」という異名で呼ばれるが、これは上杉謙信の「軍」同様、後世の人々が後付けしたもの。

その人生の大半は合戦や内紛、政争劇によってられているため陰湿なイメージが強いが、『三本の矢』に代表される人間味にあふれた逸話が多い人物でもある。有名な三本の矢の逸話は、元就が三人の息子へ向けてしたためた『三子教訓状』がモデルになっている。
現存している直筆の書状は、いずれも非常にくどい内容のものが多く、筆まめな上に心配性でもあったらしい。

また、現在明らかになっているだけでも生涯220戦以上の合戦を経験しており、その勝率八割五分と他の武将を圧倒していることも特筆したい。
しかも70代という高齢を迎えてもなお戦に立ち、直接軍勢を率いて戦い続けた伝説の老兵であり、リアル高性能じいちゃんだった。(嫡男の隆元世しなければ、もう少しく隠居できたんでしょうけど・・・)

生没年は1497年(明応六年)~1571年(元二年)。寿命が約50年、文字通り『人間五十年』の時代にあって、75年もの生涯を全うした長寿の人物でもあった。
徳川家康も顔負けの健康通であったとされ、孫の元に飲を控えるようたしなめた書状が残っている。(その背景には、で卒去した元や元の轍を踏むまいと考えたためとされている。ただし元就自身も、自分で育てた用菊を漬けたを飲む習慣などがあったらしい。どんなに欲な人にも、嗜好品はあるものである。)

大内直後の1557年(治3年)に、財政難に苦しんでいた正親町天皇に多大な献資を行い、その即位式を実現させた。
これにより元就は朝廷にもその名を覚えられることとなり、その死から300年近く経過した1869年(明治2年)に明治天皇から「豊栄」の名を与えられ、1908年(明治41年)には正一位を追贈された。現在、元就は(仰徳大明神)として、隆元元と共に山口市の豊栄神社られている。

同じく謀将として知られる尼子経久とは、浅からぬ因縁がある。詳しくは当該項目を参照。

 

『三本の矢』の真実

毛利元就といえば『三本の矢』と言われるほどにメジャーな逸話だが、これには虚飾が混じっている。この逸話の元ネタとなったのが、元就の発行した『三子教訓状』である。(そもそもの元ネタとなったのは、中国書吐伝に記述のある20本の矢の話である、との説もある)
三本の矢といえば、兄弟同士の情に訴えた甘っちょろい論と受け取られがちだが、事実である。実際に元就が書いた教訓状は、毛利の現状と行く末、そして乱世の処世術と人間の宿業をシビアにった、いわば毛利の経営方針と、それを踏まえた訓辞だった。

三子教訓状は幅にして2.85mにもなり、そこには政治的な話は論のこと、どうでもいい世間話や思い出話なども交えて記載されている。(そんな長ったらしい教訓状を、わざわざ息子達のためにしたためた元就の情と凝り性は、確かに評価には値する。だが、実際に父親に持ったら凄く面倒臭そうである。)
また、元就と息子達の間には「読んだ手紙はすぐに返却する」というルールがあった。防諜のためでもあるが、同時に息子達との信頼関係を維持するための、元就流の気遣いでもあったと言われている。

 

毛利)の事を好かれと思う者は、周囲には論、が領内にもいないだろう。

の中にも、当の事を好く思わぬ連中がいる。

そういった連中に対抗するために、せめて親との関係だけは大切にするように。

三子教訓状:隆元宛添え文書(毛利文書406号)より

三子教訓状に添えて、元就が隆元へ向けてこっそり発行した文書の内容を、掻い摘んだもの。
元就の才覚によって急成長した毛利は、当然ながら多くの者から恨まれている。元就亡き後、そういった者達が足下を掬おうと企むのはに見えていた。
それまでの人生で、人間の醜い面を嫌というほど見てきた元就は、息子達に『互いに心が離れれば、三者とも同様に滅びるぞ』と、脅迫気味に訴えたのである。

 

が、吉川小早川の名を継いだのは、あくまで当座(取り敢えず)である。

お前達にも、毛利の血が流れている事を忘れてはならない。

毛利の二字を、決して疎かにしてはならないし、忘れる事があってはならない。

三子教訓状:第2条より

へと養子に出した次男・元と三男・に向けての文言。外側から毛利本家を支える事を切実に訴えている。
三本の矢の逸話(正しくは三子教訓状)の中心人物である、元就の三人の息子・・・毛利隆元吉川元春小早川隆景(俗に言う毛利三兄弟)はそれぞれ得意分野に違いこそあったものの、優秀な将でありその後の毛利の発展を支え続けた。(長男隆元は元就よりもく死んでしまったが)

 

お前達の亡き・・・妙への追善と供養を欠かさぬようにせよ。

三子教訓状:第7条より

元就が生涯愛し女性にして、三兄弟だった女性への言及部分。
個性が強く、容姿も性格も不いだった三兄弟。だが、三者とも母親への供養は儀にこなした。元就の人心握の巧みさと、元就という人物の人間的魅が同時に現れている一例である。

 

一本では容易く折れる矢も、三本めれば折れない。

後世の歴史譚にも取り入れられた、代表的な謳い文句。 三本の矢は創作ではあったかもしれないが、毛利訓をわかりやすく伝える話ではある。
また、教養人でもあった元就が、中国古典にも通じていたであろう事は想像に難くない。それになぞらえて元就がまだ幼い三子に実際に矢を折らせた事もあったかもしれない。その辺は、後世に生きる々が自由に想像して、補してもいいのではないだろうか。

 

下を競望せず。

元就が臨終に際して、居合わせた息子や孫達に言って聞かせたという言葉。
織田信長などが天下統一論んで邁進するようなご時世だったにもかかわらず、元就は息子や孫達に「下を争う事なかれ」と言い残し、過ぎた野心を持つことをめた。
単に彼が謙虚だったわけではなく、当時の毛利が、人領い話が地方族達)の寄合所帯的な要素が強く、織田のように独裁的な大名組織ではなかったことをよりもよく知っていたためである。

 

、くたびれ果て」 ~ 元への手紙より抜

死の少し前、嫡孫・毛利輝元に送った手紙の一文。
人界に生を受けて75年。戦いに戦いを重ねてきて、なおも楽隠居を許されることなく、孫や息子達から頼りにされる日々を、皮っぽく言い表した一言である。なんとも居たたまれない気持ちになるのは筆者だけであろうか。

元に関しては、先立った隆元の遺児ということで思い入れも強かったのか、「幸元)の将来が心配でかなわん」といった内容の書状を幾つも書いている。筆まめな一方、心配性でもあったようだ。
元就の死後、元はなし崩し的に織田との戦いに突入して劣勢に陥り、一時は滅亡の危機された。そしてその後の関ヶ原の戦いに際しては、闊な行動により易寸前となってしまう。結局、元就の危惧は現実のものとなったのである。仕方ないね

謀将でもあり庭人でもあり、苦労人でもあった。ずる賢いイメージはあるが、憎めないお人である。

 

元就の息子達

元就の息子といえば隆元・元の三兄弟が有名だが、それ以外にも穂井田元清天野元政、小早川秀包などの庶子(正室・妙が死んだ後、娶った側室との間にできた子達)が6人ほどおり、彼らもまた毛利存続のために粉骨砕身し、そして歴史に名を残した。二宮? はて、誰だろう?

 

信長の野望における元就

信長の野望」(PCシリーズにおける毛利元就の力一覧。

織田信長武田信玄と並ぶ、公式チートの1人。知略と政治が抜群に高く、特に知略は北条早雲尼子経久といったレジェンド武将を除けば最高値を誇る。
完璧超人だが、ほぼ一の欠点は年齢。ゲーム上の仕様で、シナリオ信長準拠でめられているために、登場当初から既に老齢である(寿命が近い)ことが多く、いかに元就存命中に領土を広げられるかが毛利の戦略上の鍵となっている。(大名死亡ゲームオーバーという作品もあるため、毛利天下統一をするのはかなり難易度が高い。設定で寿命の概念をくせる作品ならば問題だが)

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 94 政治 100 98 野望 87
武将風雲録(S1) 戦闘 86 政治 100 95 野望 52 教養 82
覇王 采配 97 戦闘 85 智謀 100 政治 98 野望 47
天翔記 戦才 178(A) 智才 200(A) 政才 196(A) 97 野望 94
将星 戦闘 84 智謀 100 政治 97
烈風 采配 93 戦闘 65 智謀 100 政治 96
世記 采配 95 智謀 98 政治 97 野望 95
蒼天 統率 82 知略 90 政治 89
下創世 統率 82 知略 90 政治 88 教養 76
革新 統率 92 武勇 69 知略 105 政治 98
統率 93 武勇 69 知略 105 政治 98
創造 統率 97 武勇 80 知略 100 政治 96

関連動画

ニコニコ動画では大河ドラマや、信長の野望関連の動画が多い。毛利元就の名を世に広めるきっかけの1つとなった大河ドラマは、戦国モノにしてはしく、三英傑(織田豊臣)が1シーンも登場しない。(ちなみに、大河ドラマの題字は、元就直筆の書状から引用しているため、元就自身がキャスティングされている)

関連商品

や芸事、慰みごとは一切要らないよ。くどいようだけど。

 

戦国無双における毛利元就

称はヤン・モウリー(後述)、大トロ(OPで毛利輝元に「大殿!」と呼ばれるシーンがあるがそれが「大トロ」と聞こえるため)。既に死んでいると臣に言い残し、隠居しており歴史関連の書物を書いている。しかし、織田信長による西方攻略により歴史の表舞台に引きずり出されてしまう。
夢は「歴史として過ごす、安穏とした老後」。そのため戦国無双Chronileでは桶狭間の戦いなどを元就が解説イベントがあり、タイトルで「毛利先生」と称されている他、彼が歴史に関するクイズを出題する外伝シナリオも用意されている。

現時点で無双武将の中には、陶氏や尼子氏などの史実で対決した相手は登場していないが、元就の全盛期に関してもちゃんと描かれている。3Empiresでは大内・尼子との対決、chronile以後では厳島合戦や行った謀略などのシナリオイベントも用意されている。

その上で3Empires・chronile・4と続いて陶の重臣であるモブ包との友情と死別が描かれており、毛利元就の掲げる万一心論も亡き包の影を受けている設定になっている。

モーションはどことなく爺臭く、他の無双武将よりも精年齢が高めに描かれている。また他の無双武将達よりも史実において活躍した時期がいためか、世代的に若い武将達に予言めいたことを度々口にしたり、状況を客観的かつ第三者的な視点で見ることが多い。3では若々しい外見だったが、4では息子PC化に合わせて髪の色になった上にが追加され、小じわやほうれい線が強調されて若干老けた印になった。

武器は矢手甲で、攻撃する度に三本の矢を発射する。そのため、コンボを稼ぎやすい特徴を持つ。

彼の性格(信長のような下布武や独裁体制ではなく、1人1人の意思を尊重しつつ結束していくという、後世の民主主義に近い万一心』論を信奉していたりなど)や無双演武は、銀河英雄伝説主人公の1人であるヤン・ウェンリーパロディとなっている。ボサボサのヘアスタイルと、本来っ直ぐ被るべき帽子を斜に被っている、OROCHI2のアナザーカラーが同盟軍らしくなるなど、外観もヤンを意識したものとなっている。彼の演武(章)も「銀河英雄伝説」のパロディであるため「戦国英雄伝説」「誾英伝」などと言われている。他に後世に冷酷な謀将であったと思われるのを嘆いているような描写もある。

ちなみに真・三國無双シリーズキャラクターやその他大勢とのクロスオーバー作品である無双OROCHI2では、三国志を始めとする多くの歴史上の英傑が集うという歴史としてこれ以上ないぐらいに魅的な状況のため、非常にイキイキした元就を見る事ができる。
・・・が、立花誾千代によって、彼の書く文は冗長で人を殺すという聞が流れてしまい、ギリシャ神話英雄アキレウスから「歴史くずれが、くたばれ!」「ホメロスの出来損ない」などと散々に言われてしまっている。(同時に、オデュッセウスにも劣らないとも言われているが)

戦国BASARAにおける毛利元就

詳しくは毛利元就(戦国BASARA)

戦国大戦の毛利元就

4枚のカードが存在する。正しくは6枚あるがスタータースペック戦国札が2枚あるので割愛

が策を以て敵を切り裂く」(CV中村悠一

SRの元就はコスト3の割武は8と寂しい。だが統率は最高クラスの11、伏兵と魅持ちな足軽。欲を言えば焙烙が欲しかった。
計略は「謀神の上」。士気8という重さの見返りに事実上の永続計略となる大名形。毛利の味方の武が上がり、敵の統率が下がる。毛利は焙烙という統率差ダメージ士気で放てる特技があるため、形上で喰らえば大ダメージは免れない。
ただ、毛利が登場したVer1.20当初はあまりに対士気効果が見合わないものだったため、登場数日でSRの烙印を押され、謀聖と並びコンビとして本スレネタにされた。
Ver1.20Bでやっと士気9並の上下値になり、スタートラインに立ったと言える。
更にVer3.20Aでコスト3.5→3に、武と統率が1ずつ下がる修正を受けた。
これにより全カード中最高統率という地位は失ったものの、全体的に小回りが利きやすくなり
少なくとも残念SRという立場からは脱出した…かもしれない。
ちなみに、群雄伝で使用できるのは二章から。

「三本の矢よ、今こそ一つとなれ!」

Rの元就は2.5コスト、武8統率10、防柵・魅と中々の高スペック足軽。制圧が欲しかった…がそうなると武田信繁に怒られる(スペック的な意味で)。

計略の三矢の采配は、毛利の味方の武を上げ更に足軽なら撃っている相手の武を下げる大名采配。更に三本、つまり三部隊以上で同じ敵武将をで撃った場合は武の低下がしくなる上に移動速度も下げる。大名采配ではあるがその価は三部隊以上で撃ち敵を1体ずつ確実に潰す事にあり、サーチが必要となる。漫然と撃っているだけではあまり戦果は出ないので、思ったより難しい。

ちなみに一章のイベントのほとんどはこのカードなのがネック

厳島明神、私に大いなるを!」

2.2で追加された厳島の戦い直前の元就。コスト2相応の武6統率8に防柵・魅・新を持つ。新のお蔭で最終的には武8統率10と上のRの自身に並ぶ数字になる。足軽とはいえかなり優秀なスペック。制圧が欲(ry

イラストは上のRの自身より若々しいが、実は厳島の戦いの時点で元就は既に60近い高齢…。ちょっと理がありませんかね。

計略の「厳島の恩寵」は範囲内の毛利の味方の武を上げ、足軽であれば強を撃てるようになり、を当てた敵部隊の武と統率を下げるというもの。武上昇値も強1回辺りの低下量は低めだが、複数の足軽で集中攻撃する事でみるみる敵のステータスを下げる事が出来、効果時間も長めでハマれば強い。その上新Lvが最大であれば消費士気が下がる。ただし移動速度を下げる事はできないので、超絶敵中の敵。の連携が肝になる、毛利らしい1枚。

「志の矢を一つに…!」「が策により、錯乱せしめん!」

3.2で追加された「共宴」元就。2コスト6統率11という謀神らしいステータスに加え、防柵・魅・軍備とな特技がう。制圧が(ry

計略は他の共宴持ち計略と同時に使用する事で、効果を共有する特殊な計略。
共宴相手がなら弱体効果付き強なら付与+タッチで吹き飛ばし、隊なら射撃回数を減らす代わりに2発同時射撃になる。
いずれの効果も強で、特に威が跳ね上がる効果が強い。敵を容易く押し返せる効果も魅的。
効果はそれそのものより共宴相手の効果と重なる事で価を発揮する。特に複数部隊に射撃できるようにする共宴との相性は抜群。

戦極姫における毛利元就

初代と2では、穏和な性格の美少女として登場。
若くしてを継ぎ、強大な勢に囲まれながらも、主人公や志広良の助けもあって成長するほのぼの物語が展開される。ただ、を亡くした影からか酒乱人間に対しては厳しく、井上元兼もわざと酔っぱらった状態で元就の前に出たため、粛清のGOサインを出すことに繋がったようである。

ちなみに外見は美少女として登場させている都合上、子供達(毛利兄弟姉妹)はそのまま出すのは難しく、かといって削るとシナリオ難易度が上がってしまうため、元就が拾ってきた化け猫猫娘)という形で登場している。

3以降はキャラを出さない仕様になったため、元就の設定年齢もかなり上がり、三子の母親キャラ論だが攻略)として登場する。年齢が上がったことで、初代の頃の初々しい雰囲気は消え、計算高さと老獪さが加わった。だが、優しい心根は変わっていない。

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毛利元就

103 ななしのよっしん
2013/06/08(土) 21:21:53 ID: p+6TihkaMt
>>101
後の事をどう考えてたのか良く分からないとこもそうだなw
104 ななしのよっしん
2013/06/22(土) 09:15:29 ID: D8YCpVG8Zp
>>93
四本は確実にかっただろうな。歳が離れてるのもあるが元就自身が正室と側室の子の違いをはっきりさせてた人だから
105 ななしのよっしん
2013/06/22(土) 09:32:22 ID: D8YCpVG8Zp
とはいっても元清の記事とか戦国大戦やらで四本として描かれてるんだけどね
106 ななしのよっしん
2013/12/26(木) 23:14:39 ID: BUg1g/HGw5
息子たちにほとんどハズレというか立った無能者が居ないよな
107 ななしのよっしん
2013/12/29(日) 03:39:20 ID: Peavym13OB
TERU「だよな」
108 ななしのよっしん
2014/01/13(月) 20:56:20 ID: qs4AoL4wo5
TERU無能なんかじゃない、周りの個性が強すぎただけなんや
109 ななしのよっしん
2014/05/22(木) 16:03:41 ID: /bnVG2Grbx
>>101
出自問わず人材登用したところも通じるところがあるね
110 ななしのよっしん
2014/11/10(月) 20:34:33 ID: gQjhJtD8WT
な疑問だが、毛利メンバーって
歳を食ったり、一線を退いたりしても、入したとかいう話を聞かないんだが
何か意味があるんだろうか?
(関ヶ原の罰ゲームで丸刈りにせざるを得なかったTERUはともかく)
111 ななしのよっしん
2015/02/15(日) 22:26:38 ID: F9jI8z3++t
息子達の構成が家康に似ているが、質では断然毛利の方が上
112 ななしのよっしん
2015/11/06(金) 22:54:18 ID: LWt8gERrSK
>>108
元は確かに世渡りが下手かもしれなかったけどあの時代逆らってもどうしようもないからと、開き直って石高を上げまくらなきゃ長州幕末もままならなかっただろう。今の世があるのも元のおかげと言っても誇ではない

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