毛利敬親(1819~1871)とは、幕末に活躍した大名である。
概要
毛利元就や毛利輝元の衣鉢を継ぐ、長州藩藩主。幕末のキーパーソンではあるのだが、表舞台にはほとんど出ておらず、藩士が有名すぎるのもあって、創作物での扱いは良い悪い以前にかなり空気。
藩主・毛利斉元の第一子で、天保7年(1836年)に父が亡くなると、天保8年(1837年)に跡を継いだ。この頃の名前は第12代征夷大将軍徳川家慶の偏諱を受けた毛利慶親であり、従四位下侍従に任ぜられて大膳大夫と称した。
天保14年(1843年)に村田清風の意見を採用して羽賀台で大規模軍事演習を行い、嘉永2年(1849年)には明倫館を市街地に拡大移転。嘉永6年(1853年)のペリー来航をきっかけに、相州警備を5年任じられ、次いで兵庫警備に転じる。
文久元年(1861年)には藩士・長井雅楽の献策で公武間の周旋に乗り出すが、厳しい反発を受けとん挫。文久2年(1862年)には藩論を一転させ攘夷実行に尽力するも、文久3年(1863年)の八月十八日の政変で失脚。元治元年(1864年)には失地回復を目指して禁門の変を起こすも、これにも敗れてついに朝敵となる。なお、この時官位を奪われると同時に、毛利敬親に名を改めることとなった。
しかし以後は二度にわたる長州征伐を乗り切り、慶応3年(1867年)には討伐の密使を受ける。ついには、王政復古の大号令直前に官位を復旧させた。
以後明治2年(1869年)に版籍奉還を薩摩・土佐藩と共に行い、毛利元徳に家督を譲る。そのまますぐに亡くなってしまった。
関連項目
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