毛利豊元単語

モウリトヨモト
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毛利豊元もうり・とよもと)とは、

  1. 安芸戦国大名
  2. 因幡戦国武将

である。

ここでは1について記述する。

1.の概要

1444 ~ 1476) 安芸戦国大名毛利8代当毛利煕元の嫡男。毛利。子に毛利弘元、兼重元鎮がいる。

戦国期前夜の毛利氏

毛利氏は鎌倉幕府初代政所別当・大江広元の四男・毛利を祖とする。季は宝治合戦で妻の実家である三浦氏に味方して4人の息子たちと自害し、一代で滅亡寸前の憂きにあってしまう。
しかし、季の四男・毛利が越後で生き残ったため、越後系と安芸系という血脈を細々と繋げた。
4代・毛利より多くの庶が誕生したが、6代・毛利房のころより庶の台頭が立つようになり、遂に7代・毛利煕元の治世で庶最有麻原氏(おはらし)が独立を画策しようとしていた。

生涯

1460年に・煕元が麻原氏の所領を収し、幕府に所領安堵をめた。しかし、幕府はこれを伊勢氏に与えたため、これを直訴するもわずに煕元は1464年に病死した。
21歳で督を継いだ豊元はの遺言に従い、麻原氏の旧領を毛利氏の所領として奪還することを企図し、様々な策を考える。
奇しくも時代は徐々に戦乱の世に近づきつつあり、幕府内でも足利義政とその足利義視を中心とした対立が各地で煙を立てて勢いを広げていった。
この時毛利氏は備後守護・山名是豊(山名宗全の次男)に属しており、豊元も是豊より名前を一字拝領していた。煕元存命中の1463年には畠山政長畠山義就の抗争に対して是豊に従って出した。

山名氏に従う一方、所領返還を訴え続けていた。対立する庶麻原氏の当麻原広顕(麻原是広)といい、3代にあたる。幕府内の有者の後ろを得ていた麻原氏らによりたびたび毛利氏存亡の危機へと脅かされる。
応仁の乱が勃発すると、引き続き是豊に従い東軍として活動しながら、旧領回復運動を展開していた。再三再四の要望を受け入れてくれないことに不満をおぼえ、是豊に通じて細川勝元許可を得て1471年7月に領土に帰した。
しかし、2ヶ後には大内の誘いもあって西軍に替えし、政下として東軍方を攻撃し、勢を拡大して戦功もあげていった。
また、西軍の山名政豊を援けて旧だった是豊と戦い所領を奪うなど勢拡大に奔走した。

しかし、1476年にが原因とされ、33歳の若さで亡くなった。この毛利三代を苦しめることとなり、日の出の勢いのままに勢を広げていた毛利氏の勢かに陰りが見え始めた。

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