概要
天保10年(1839年)4月11日、江戸定府の松前藩士・長倉勘次の子として江戸で生まれる。諱は載之。変名入布新。明治以後は杉村治備(義衛)と名乗る。
神道無念流を学んで18歳頃に出奔。剣術修行を経て試衛館の近藤勇と知り合う。永倉によると浪士組の募集は自身が近藤らに知らせたという。
文久3年(1863年)に浪士組の一員として近藤らと上京。京都に残り壬生浪士組に加わった。壬生浪士組(新選組)では撃剣師範を務めた。
元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では第一陣として参戦。4人を斬る。
慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いから敗走後、甲州勝沼の戦いに参戦したが、原田左之助と共に脱退。脱退の理由として永倉自身は「江戸に戻った同志たちと会津に行く計画を立てたが、近藤に反対され家臣扱いされたため、原田と共に『貴君に仕える気はない』と言って永訣した」としている。
江戸脱走後、会津、米沢など各地を転戦。その後東京に戻り松前藩に出頭。赦されて松前藩医・杉村松伯の入婿になるが医師にはならず剣術で生計を立てた。
晩年は北海道小樽に移住。新聞記者のインタビューに応じ、数少ない新選組幹部の生き残りとして貴重な証言を遺し、近藤や土方歳三などかつての同志達の顕彰に尽力した。
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