江夏の21球とは、1979年11月4日に行われたプロ野球日本シリーズ第7戦、近鉄バファローズ対広島東洋カープとの試合における、広島の抑え投手・江夏豊が9回の守りに投じた全投球を指す。
概要
江夏豊といえば、日本のプロ野球史において抑え投手の草分けとも言える大投手である。彼のその球歴については個別記事を参照されたい。
前年の78年に自身3チーム目となる広島に入団した江夏は、リリーフエースとして活躍。移籍2年目となる79年には9勝5敗22セーブという成績をマークし、自身2度目のセーブ王に輝くとともにチームを2度目のリーグ制覇へと導いた。その活躍が認められ、抑え投手としては初めてシーズンMVPに輝いたのもこの年であった。そんな79年のプロ野球を締めくくるプレーとなったのが、この『江夏の21球』である。
試合経過
この年の日本シリーズはいわゆる"内弁慶シリーズ"となり、第6戦まで全てホームチームが勝利を収める展開となっていた。と同時に、抑え投手にとっては受難のシリーズともなり、近鉄の抑えであった山口哲治は第3戦・第4戦と共に打ち込まれてしまう。江夏もまた、第2戦に同点の状況で登板するも前の投手が出したランナーを返され、さらにホームランを浴びるなど大炎上。第3戦でリリーフには成功するも、そこから3試合には出番が無かった。
3勝3敗、近鉄が逆王手をかけて迎えた第7戦は雨のしのつく大阪球場でプレーボールがかかる。試合は1回と3回に広島が1点ずつ挙げるも、5回に近鉄が平野の2ラン本塁打で同点に追いつく。直後の6回に広島が水沼の本塁打で2点を勝ち越すも、その裏に近鉄が1点を返し、4-3と食らいつく展開となった。1点を争うゲームとなったこの試合に、江夏は満を持して中4日で7回途中からマウンドに上がる。 そして、7・8回と近鉄の攻撃を0点に抑え、4-3のまま9回の攻防へと入った。
9回裏・江夏の21球
- 6番・羽田耕一(三)
その9回の先頭だった羽田は初球を打ってセンター前ヒット。ノーアウト一塁。
点差・場面・状況を考えれば、初球は見てくると踏んだ江夏が安易にストライクを取りに行ったところを見逃さなかった。すかさず近鉄・西本監督が動き、羽田への代走として藤瀬史朗を送る。この藤瀬はこの年代走だけで25盗塁を決め(これは現在でも代走でのシーズン最多盗塁記録である)、代走としての通算盗塁記録も105とこれまた史上最多を誇る(当時・2014年に鈴木尚広が更新)、まさに足のスペシャリストであった。 - 7番・クリス・アーノルド(二)
藤瀬の足を警戒した江夏が2球外し、1球ストライクを取った後の4球目(この回5球目)に藤瀬が盗塁を仕掛ける(実際はエンドランのサインをアーノルドが見落としていたらしい)。ここで、キャッチャー・水沼四郎の送球がワンバウンドし、ベースカバーの高橋慶彦が後ろに逸らしてしまう。この間に藤瀬は三塁へ進塁、カウントも1-3となったことから江夏はアーノルドを敬遠気味に歩かせ、ノーアウト一・三塁。
そして、両チームの監督が動く。近鉄・西本監督はアーノルドへの代走としてこれまた俊足の吹石を起用。一方の広島・古葉監督は既に投球練習をしていた池谷公二郎に加えて北別府学もブルペンに送る。これを見た江夏は「自分が信用できないのか」と怒り、内野手がマウンドに集まった時に「自分を信用しないなら辞めてやる」と言い放ったという。もともと江夏と古葉監督とは折り合いが悪かった(もっとも、古葉監督に限らず江夏が上層部と確執関係にあることは彼の現役生活の中でも度々あることだった)のだが、この一件は2人の関係を決定的なものにしたと見られている。 - 8番・平野光泰(中)
カウント1-1からの3球目(9球目)に吹石が盗塁を仕掛ける。キャッチャー・水沼は三塁走者・藤瀬の本塁突入を警戒し、結局吹石はフリーパスに近い格好で二塁到達。サヨナラのランナーが二塁まで進んだことで、江夏・水沼のバッテリーは満塁策に出る。平野を敬遠で歩かせ、ノーアウト満塁。 - 9番・山口哲治(投) → 代打・佐々木恭介
ここで近鉄・西本監督は9番投手・山口の打順で、78年の首位打者であり"左殺し"の異名を持つ佐々木を代打として送り出す。初球ボールの後の2球目(13球目)はど真ん中へのストライク。江夏曰く、「佐々木なら楽に外野フライに出来たボール」であり、佐々木自身も後にこの球を見逃したことが野球生活最大の後悔であると語っている。
1-1からの3球目(14球目)に佐々木が叩きつけた当たりは、高くバウンドして三塁線を襲う。ジャンプして捕球しようとしたサードの三村敏之は「グラブのトップにボールの感触があった気がする」と邂逅するが、打球はわずかに切れてファウルとなる。この時に一塁を守っていた衣笠祥雄(江夏とは無二の親友であったという)がマウンドの江夏の下へと駆け寄り、「お前にもしものことがあったら俺もユニフォームを脱ぐから」と励ます。
これで完全に吹っ切れた江夏は、この後ファウル→ボールでカウント2-2からの6球目(17球目)にカーブで佐々木から空振り三振を奪う。1アウト満塁。 - 1番・石渡茂(遊)
初球(18球目)に見逃しのストライクを取ってカウント1-0としてからの2球目(19球目)であった。「力量からして石渡に犠牲フライは無理」と考えた西本監督の指示でスクイズの構えを見せた石渡に対し、江夏は外角高めに大きくボールを外す。石渡が飛びつくようにバットを差し出すも、無情にもボールはキャッチャー・水沼のミットに。飛び出した三塁走者・藤瀬は三本間でタッチアウトとなり2アウト二・三塁となる。
それでもなお、サヨナラのピンチは続いていたが、1球ファウルを挟んでカウント2-0からの4球目(21球目)に江夏は石渡を空振り三振に切って取る。この瞬間、広島東洋カープが初の日本一に輝いた。
問題の場面について(19球目)
スクイズを外された、この『江夏の21球』でのクライマックスとも言える場面では関係者の証言が食い違っている。
この時、江夏はカーブの握りで投球を行ったのだが、このままウエストすることは暴投の危険が非常に高い。
江夏自身はこの球を「とっさに外した」と語っており、「あの球を捕れるのは水沼しかいない」とも語っている。
また、後に江夏とバッテリーを組んだこともある名捕手・伊東勤も同じような場面で江夏がとっさのウエストを見せたことから、江夏ならとっさのウエストは可能であったと確信している。
一方、外された側の石渡は、左投手である江夏に三塁走者の動きは見えるはずも無く、あれはとっさのウエストではなくすっぽ抜けだったのではないかと後に語っている。
捕手だった水沼はというと、打席で緊張する石渡の様子を見てスクイズで来ることを確信していたという。さらに、打席の石渡に対し、「スクイズやろ? いつしてくるんや?」とプレッシャーをかけ続け(ちなみに、水沼は石渡の大学の先輩にあたる)、その後は食い入るように石渡にサインを送る三塁コーチ(仰木彬)を見続けていたという。
また、広島・古葉監督はこうした状況を想定し、シーズン中から変化球でのウエストを練習させていたと語っているが、これは江夏が「そのような事実は一切無かった」と否定している。
その後
江夏と古葉を巡る確執であるが、延長を睨んで次の投手を準備させていた古葉監督の行動について、江夏は後に「あの時の行動は理解できる」と語り、古葉監督もまた「江夏ほどの大投手なら怒るのも当然」と語り、和解をしていたことが江夏の口から語られている。もっともシリーズ後も納得していなかった江夏は翌年の開幕日に「納得できない限り野球はしたくない。今日は上がらせてもらう」と監督室に乗り込み、古葉監督が懇々と話した末にようやく和解したといい、江夏がロッカーに戻ったら山本浩二や水谷実雄が大笑いしていたらしい。
この一連の流れは、後にノンフィクション作家・山際淳司が江夏を含めた関係者への綿密な取材を経て『江夏の21球』として書き上げ、大反響を呼び彼の出世作となった。その後、ドキュメンタリー番組としてテレビで放送されたり、漫画化もされたりと、プロ野球史に残る一大ハイライトとして今も語り継がれている。
この名勝負をきっかけに、日本シリーズでリリーフ投手が演じた好投劇が「小林の14球」や「森福の11球」などと呼ばれ記憶されるようになった。
……余談ではあるが、このちょうど30年後に『福盛の21球』と呼ばれる、悪い夢伝説が刻まれたことを最後に記しておく。
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