池田光政(1609~1682)とは、江戸時代前期に活躍した大名である。
概要
池田輝政の孫で姫路を追われつつも、備前岡山藩の基礎を固めた。新太郎少将。
はじめは池田幸隆といったが、元和9年(1623年)に元服した際、徳川家光の偏諱を受ける。母は徳川秀忠養女で榊原康政の娘・鶴子(福照院)、妻は同じく秀忠養女で本多忠刻の娘・勝子(円盛院)、娘・輝子は徳川家光養女として一条教輔に嫁ぐ、といった具合に依然として徳川家一門に準ずる扱いを受けていた。
しかし、一方で元和2年(1616年)に父・池田利隆の遺領・播磨を相続するも、幼少を理由に山陰の因幡・伯耆に減封。寛永9年(1632年)に従弟・池田光仲との国替えによって備前一国と備中の一部を領するに至った。
このように、徳川家康没後の幕藩体制を築くための思惑に振り回された感のある人物ではあるが、徳川家光との関係は良好。さらに池田光政自身も利発な人物で、熊沢蕃山を重用して儒学を推進。承応3年(1654年)の大洪水の際は飢人救恤などの農政や、地方知行政の改革などに努め、仁政を敷いた。
正保2年(1645年)以来の儒学への傾倒は、花畠教場、岡山藩学校、閑谷学校といった教育制度の充足などを進めていく。とはいえ、当初は熊沢蕃山を中心に陽明学を藩学として推し進めたものの、このことは軋轢を呼び、やがて自主的な修学のみに限定したうえで朱子学に転換。また、儒学への心酔は仏教への不信を強め、寛文6年(1666年)より大規模な寺院破却を断行。
こうした理想主義は幕閣からの疑念と軋轢を呼んだものの、池田光政が理念を変えることはなかった。
とはいえ近世初期の明君として知られ、『池田光政日記』や複数の言行録が残っている
補足
大坂の陣にすら参戦していないのだが、その知名度もあって、戦国立志伝への登場をきっかけに定着した。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | 130 | 智才 | 138 | 政才 | 158 | 魅力 | 77 | 野望 | 72 | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
蒼天録 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
戦国立志伝 | 統率 | 84 | 武勇 | 73 | 知略 | 87 | 政治 | 76 |
関連項目
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