池田勇人とは、第58・59・60代内閣総理大臣(1960.7.19~1964.11.9)である。
概要
1899(明治32)年広島県豊田郡吉名村(現・竹原市忠海町)出身。
1960(昭和35)年に日米安保改訂による混乱で辞職した岸信介に代わって内閣総理大臣に就任。
在任中は「所得倍増計画」を発表し、10年で国民総生産額を2倍にするとしたが、その結果は10年で4倍となった。1964(昭和39)年の東京オリンピック開催など、高度経済成長期を代表する政治家の一人となっている。
五輪閉会式翌日に病気療養による退陣を表明し、翌1965(昭和40)年8月13日に死去。
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エピソード
- 熊本の国立第五高校受験の際、旅館で山口から来たある受験生と一緒になった。のち、共に政治家となり、同志として、時にはライバルとして争った佐藤栄作である。
- 高校時代の仕送りは、当時の高校生の仕送りの平均が25円な中、池田は4倍の100円も貰っていた。その金は教材費や本代はそこそこに、もっぱら友達と飲む金に費やされていたという。
- 高校卒業まで半年に迫った頃、飲みに使う金が足りないので、小遣い稼ぎの為に高校の近くで友人と「池田屋」という立ち飲みの居酒屋兼蕎麦屋を開く。しかし、店の商品を大量に自己消費した上、せっかく来た客にもツケで飲み食いさせた結果、店は3ヶ月で潰れた。
- 昭和4年(1929年)、落葉状天疱瘡という奇病にかかり大蔵省を休職せざるを得なくなる。(のち、退職。)この間、最初の妻を失うなどの不幸も味わった。完治後は日立製作所に内定が出ていたが、幸いにも大蔵省が新規採用の形で事実上の復職を認めてくれたので大蔵省に戻った。
- 通産相時代、「貧乏人は麦を食え」「5人、10人の中小企業が倒産して自殺者が出てもやむを得ない」等の暴言のせいで大臣を辞職するハメになったこともあった。しか し、首相就任直後の選挙ではこれを逆手に取り、「私はウソを言わない」と、正直者キャラクターで売り込んだ結果、自民党はその年の60年安保騒動がウソのように大勝した。
- 安保騒乱の直後の首相就任という苦境の中、打開策として生み出したのが体系的な経済政策の重視である。当時、西側諸国での経済政策は対症療法的な政策が中心で、東側諸国ではあるまいし、政治が経済にあまり手を出すべきではないと考えられていた。(いわゆる自由放任経済)池田の経済政策は当時の西側諸国では異例だったが、結果的に日本は世界有数の経済大国に躍進した。(おまけに貧富の差も比較的小さい)
- 昭和35年(1960年)の衆議院総選挙の最中、日比谷公会堂で演説をしていた日本社会党の浅沼稲次郎書記長が右翼の少年に殺されるというショッキングな事件が起きる。選挙後、池田は浅沼への追悼演説を行い、「暴力は民主政治家共通の敵」「目的のために手段を選ばない風潮を今後絶対許さない」と演説した。この追悼演説は日本憲政史の中でも屈指の名演説として知られ、社会党の議員も感動させた。
- 広島県民らしく、大の広島カープのファンで、首相在任中のある日、カープが負けた日に相手チームの選手の家に「わしゃ池田勇人じゃ。今日はよくもカープを負かしてくれたのぉ。」と脅迫まがいの電話をかけたことがある。
また、草創期のカープの後援会長にも就いていた。(実際の業務は名代の形で当時秘書だった宮沢喜一と大平正芳が行っていた。) - 石原裕次郎と一緒に風呂に入った事がある。(もちろん性的な意味はない。)
- 朝ドラの「マッサン」で有名な、ニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝は中学時代の1年先輩にあたる。その為か、海外のお客さん相手にニッカのウイスキーをよく出していた。なお、池田の竹鶴評は「怖い人」との事。
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関連項目
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