沖縄の戦い(太平洋戦争)は1945年4月より6月まで沖縄で行われた戦いである。
概要
1945年4月1日に始まった沖縄戦は、第二次世界大戦における太平洋戦線の強襲揚陸では最大のものだった。連合国は沖縄本島にある嘉手納基地を340マイル(550 km)離れた次の本土上陸作戦の基地として使用する計画であった。日本軍は第24師団、第62師団、第44独立混成旅団からなる第32軍が守り、大日本帝国陸軍の進めた皇民化教育及び軍民一体を目指した国家総動員体制の集大成であり、沖縄県民含む軍官民の共生共死の方針が貫かれた。米軍は第10軍を編成、陸軍の第7、第27、第77、第96歩兵師団と海兵隊の第1、第2、第6師団からなった。第10軍は、独自の戦術空軍(陸軍と海軍の共同司令部)があり、海軍と水陸両用軍の組み合わせによっても支援された。
6月22日まで82日間続いた戦闘は。猛烈さ、神風攻撃、島を襲撃した連合軍の船と装甲車両の膨大な数、太平洋戦線で最も血なまぐさい戦闘の1つであり、連合軍75,000人の死傷者と沖縄現地徴集兵含む日本軍84,166–117,000戦没を認めた。現地徴集兵含む149,425人の沖縄人が殺され、自殺し、行方不明になった。これは戦前推計人口30万のかなりの割合を占める。
沖縄戦への道
米軍の方針
フィリピンが落ちれば、太平洋戦争の趨勢は決する。
新作戦方針の第六項にあったインドネシア東部パンダ海の防衛強化策は、米軍の南方資源地帯への侵攻を恐れたものであった。どうやら日本軍は南方資源地帯を直接脅かされるのを極度に危惧していたことがうかがわれる。しかしマッカーサーはパンダ海方面を目指す気配を示さなかった。連合軍側は資源の海上輸送を遮断すればいい。軍部の戦略方策にあるような南方資源地帯の防衛強化策は、米英軍の取るべき戦略を無視した方策であった。フィリピンを攻略した場合、南方資源地帯との通行を完全に遮断することが可能で、そうなれば資源の輸入を断たれた日本の産業は生産マヒに陥り、戦争遂行が不能となって、早期に降伏するしかなくなるであろう。
レイテ海戦の結果、もう大海戦は起こるはずがないというくらい日本海軍はたたきつけられてしまった。そのうえ、陸上部隊を無事にフィリピンに上陸させたということは、明らかに日本と南方資源地帯の交通路を切断するという基本目標達成を保証したのである。実際に日本の航空機生産はレイテ上陸の始まった44年10月をピークにあとは下落する一方だった。フィリピンは45年2月に連合軍によりほぼ制圧された。連合軍はフィリピン各地に飛行場を設置し、航空機による通商破壊を本格化して日本の南方航路を封鎖した。日本は、戦艦まで輸送任務に転用して北号作戦や南号作戦を行い資源輸送に努めたが、1945年3月に南方航路は完全閉鎖に至った。日本はインドネシアの油田地帯などを依然として確保していたが、シーレーンの遮断により燃料供給を断たれ、次第に艦隊の行動はおろか航空機を飛ばすことすら難しくなっていくことになる。日本の降伏はフィリピン制圧の時点で必然で、あとは時間の問題であった。
太平洋戦争がその避けがたい終末に向かっていくにつれ、連合軍の首脳部連中はどうすれば日本を最も速やかにかつ損害を少なくして降伏させえるかについて各種の案を提出した。潜水艦関係者は潜水艦だけでその仕事を引き受けて見せると豪語した。マンハッタンに関与した科学者や陸軍当局は原爆が出現すれば日本は到底持ちこたえられまい、特にB-29が完成した暁には、また米軍がマリアナを征服した後では、すでに時期の問題に過ぎないと信じていた。来るべきドイツの敗北か、確約されたソ連の満州進撃が日本にこれ以上の抗戦はもはや無益だと思い知らせる最後の一大通謀になるに違いないと指摘した人々もあった。多くの連合軍の指導者たちや政府の人々はその中の一つを固執したりあるいは三つの説を織り交ぜたものを主張したりした。便宜上、これらは陸軍理論、海軍理論、空軍理論と呼んだらよいであろう。ただしその節はこの三つのどれもが決してどれか一つの軍なりあるいは部門によって排他的に主張されたものではなかったことを了承いただきたい。 |
ハワイ会談では台湾攻略を主張していたニミッツ提督が、回顧録ではあたかも最初からフィリピン攻略を目指していたかとされているのはさておき、この理論に従い統合参謀本部は敵を敗北させるありとあらゆる手段を実行に移す作戦を指令した。そして日本本土に実際に侵攻するという計画を除いて、ほかのすべては実施された。
サイパンを攻略した44年6月、スプルーアンスは、沖縄攻略を進言した。当時の統合参謀本部は、このスプルーアンスの提案にすぐ飛びつくわけにはいかない事情があった。ちょうどその折、ニミッツの上司である統合参謀本部のキング提督による台湾進攻計画が作成されつつあったのである。しかし台湾進攻は補給の問題が解決できず、フィリピン奪回作戦の本決まりによって取りやめられることになった。しかしルソン島は日本本土を爆撃する飛行場を設ける段となると、日本本土から離れすぎていた。そこで統合参謀本部は以前のスプルーアンスの提案を復活させ、十分な兵力が整ったとともに沖縄攻略へと舵を切ることになった。かくして統合参謀本部は44年10月、ニミッツに硫黄島と沖縄を攻略する命令を下した。沖縄をとる計画は危険で大胆だった。沖縄は、最も近い連合国の飛行場から800マイル(1290 km)離れていたため、空中支援は空母にほぼ完全に依存していた。攻撃部隊は、台湾と九州の両方の容易な神風範囲内にあった。
日本軍の方針
フィリピンを失った時点で、資源の供給を絶たれた日本は、戦争遂行が困難になっていった。しかし「国」を動かしていた軍部、大本営にとって、降伏は受け入れられなかった。そうなれば軍人の権威、権力が低落するのは避けられないし、何といっても最大の懸念は誇り高き大日本帝国軍人、その高級将校たる彼ら自身が、連合軍によって戦犯で裁かれるかもしれないということであった。軍の「名誉」を何より重んじる帝国軍人将校にとって、それはあらゆる手段を為しても避けねばならなかったことである。しかし戦局は絶望的であった。希望は、米英が民主主義国家であり、兵士の人命損失が政治に直接響くことである。日本軍は軍部の国家総動員体制の成功により、この点では有利と見られた。軍のために日本人の命はいくら浪費してでも構わない体制ができあがっていたのだ(本当に浪費しても良かったのかという疑問は残るが)。米兵を一人でもより多く殺傷すれば、米国も厭戦が高まり戦争継続が困難となる。そうなれば有利な、特に戦犯追及を避けれるような条件を引き出させるはず。
第二次世界大戦末期、1944年(昭和19年)3月15日に編成された第32軍は、沖縄本島に司令部を置き奄美群島から先島諸島をその守備範囲として連合国軍の上陸に備えた。司令部は首里に置かれ、首里城の地下に大規模な地下壕が掘られた。大本営は司令官に中国戦線で歩兵師団の指揮官を務めた経験があり、直前まで座間の陸軍士官学校の校長を務めていた57歳の牛島満中将を任命し、副官の参謀長には勇猛で大酒飲みで愛国主義者である長勇少将が着任した。軍の作戦は八原博通高級参謀によって立案された。第32軍は第9師団を中心に44年8月に満州から送られ沖縄召集兵を数千人含む24師団、6月に到着した河南省での戦闘経験のある62師団を加え、沖縄防衛計画を固め、米軍撃滅の自信を深めていた。司令部は初めは首里の県立師範学校に置かれたが、後に南部の大里村へ移された。これは当師団を軍の総予備として位置付けるものとしての措置でもあった。同年11月4日、第32軍の一兵団を比島へ転用のため、大本営・第10方面軍・第32軍が台北で会議を開いたが、台北会議は要領の得ないまま散会となった。しかし、同年11月17日、第9師団の台湾へ転出命令が下され、12月末に台湾に移転した。第32軍は第24師団、第62師団、第44独立混成旅団で構成されるようになり、当初は積極攻勢が提案されていたが、第9師団の台湾抽出後は「戦略持久」を堅持した。
太平洋戦争末期になると、戦況悪化、長期化により兵士の不足が深刻となった。そこで陸軍省は、つぎつぎと陸軍省令を発して、施行規則を改正していった。防衛召集は、17歳以上の男子が召集対象であったが、1944年12月の陸軍省令第59号「陸軍召集規則」改正および第58号「防衛召集規則」改正で、一部地域のみ防衛召集の対象年齢が引き下げられた。「前縁地帯」と呼ばれる帝国本土とは区別された地域(沖縄県、奄美諸島、小笠原諸島、千島列島、台湾など)に限り、17歳未満(14歳以上)であっても、志願して第2国民兵役に編入された者は、防衛召集できるとされたのである。いわゆる「根こそぎ総動員」である。
これらの陸軍省令について、内務省は、「事実上徴兵年齢の引き下げにあたるので、法的には法律である兵役法の改正によってなされるべき」であるとし、また、「志願」は「事実上の強制」になりうることへの懸念も示していた。(法律形式による法整備は、沖縄の戦いに敗れた後、1945年6月23日に制定施行された義勇兵役法で行われた。これらの法律により、15歳以上の男子と17歳以上の女子を合法的に最前線で徴兵することが可能になった。)
沖縄動員と疎開、那覇大空襲
44年7月7日、 沖縄県泉知事に閣議決定で住民の疎開命令が届いた。九州に8万人、台湾に2万人を7月中に疎開させるというものだったが、 軍部の現地「根こそぎ総動員」と疎開は矛盾する命令だった。行政と軍部の方針がバラバラだったのである。海軍の軍艦の護衛は行われず、敵潜水艦の猖獗する海路沖縄住民をC船(民間の自営船)主体の不十分な護衛でやらざるを得なかった。しかし44年8月の対馬丸が米軍の潜水艦に撃沈され児童ら1484人が死亡する事件が起き、一時は疎開に対する反発などがあった。
しかし44年10月10日、那覇にハルゼーの機動部隊による大空襲あり、目標は奄美大島、徳之島、沖縄諸島、宮古島、石垣島、大東島の飛行場と港湾施設だった。那覇はわずか半日で90%を焼き尽くされ、死傷者は1,500人を越えた。日本軍の被害も深刻で、航空機51機、船舶155隻、弾薬100万発、食糧30万表等の被害でそれ以降の作戦に支障をきたす程だった。空襲の探知も出来ず、何の抵抗もせず、やられ放題の空襲だったため、軍に対する不信感が生まれた。この空襲後、疎開希望者が殺到し、翌年3月までに九州と台湾に8万人が疎開した。
本土出身の高級官僚の殆どは出張名目で日本に帰ってしまった。各官庁と折衝すると称して東京に頻繁に出張していた泉守紀県知事には、出張中にも係わらず、香川県知事の辞令が出された。沖縄への米軍上陸は必至と見られていたため、後任者の人選は難航していた。1945年(昭和20年)1月10日、島田叡は沖縄県知事の打診を受け、即受諾した。特に、沖縄へ米軍侵攻が見込まれる中、誰もが尻込みした沖縄県知事の任を、家族や周囲の反対を押し切って受けた島田知事の評価は今日においても非常に高く、野球を愛した島田知事に因んで、沖縄県の高校野球大会優勝校には島田杯が授与されている。
島田知事「誰かが行かなければならないなら私が行く、私が死にたくないから他の人に行ってくれとは言えない」
後に陸軍守備隊の首里撤退に際して、島田は「南部には多くの住民が避難しており、住民が巻き添えになる。」と反対の意思を示していた。同年5月末の軍団長会議に同席した島田は、撤退の方針を知らされ、「軍が武器弾薬もあり装備も整った首里で玉砕せずに摩文仁に撤退し、住民を道連れにするのは愚策である」と憤慨。そのとき牛島満司令官は、「第32軍の使命は本土作戦を一日たりとも有利に導くことだ」と怒鳴り会議を締め括った。沖縄県民を捨て石にした牛島ら大日本帝国陸軍と違い、島田叡沖縄県知事や荒井退造警察本部長ら沖縄行政府職員らは、最後まで沖縄県民の保護に尽力し同年6月26日、島田は荒井退造警察部長とともに摩文仁(糸満市)の壕を出たきり消息を絶ち、殉職している。
1945年2月、沖縄県は戦時行政に移行し、県下市町村単位の国土防衛義勇隊を編成した。陸軍は「沖縄には非戦闘員は一人もいない」「軍官民共生共死の一体化」とその成果を誇った。徴用は全ての市町村に割り当てられ、最盛期で1日約5万人が動員された。男性は17歳から45歳、女性は17歳から40歳が現地召集の対象とされたが、実際には15歳以下の子どもや60歳以上の老人も含まれていた。陣地や飛行場の構築や弾薬運搬等の後方支援が主とした仕事だったが、最後の方は槍と手榴弾2個を持っての夜間の斬り込みや、爆雷を背負って戦車に体当たりするなど、最前線で突撃まで命令された例もある。結果戦闘で死んだとされる軍属や戦闘参加者は実は正式な軍人ではなく、多くが住民だった。
男子学生は「鉄血勤皇隊」や「通信隊」などに、女子学生は「従軍看護隊」として学徒隊に編成された。わずかな訓練を受け、米軍上陸直前の3月下旬には沖縄守備軍の各部隊に配属された。
第32軍牛島満司令官は、「球作命 甲第110号」で軍が鉄血勤皇隊の訓練を支援することを命じた。さらに、島田叡県知事が学校を通じて集めた学徒の名簿を軍に提出して、いつでも第32軍司令官が鉄血勤皇隊の防衛召集を命令することができる準備がなされていた。「鉄血勤皇隊]は、太平洋戦争末期の沖縄県において、防衛召集により動員された日本軍史上初の14~16歳の学徒による少年兵部隊である。実際の手続きにおいても、17歳未満の少年を鉄血勤皇隊として防衛召集するには「志願」して第2国民兵役に編入された者でなければならないが、一部に学校や配属将校が同意なく印鑑をつくり「志願」のために必要な親権者の承諾書を偽造するなどの例も見受けられた。内務省の懸念は現実のものとなっていたわけである。だが陸軍の進めた軍国教育の甲斐もあり、多くの沖縄の少年たちは、あこがれの軍隊に、ふるさと沖縄を守るための兵士として、とめる母たちを振り切って喜んで入隊した。米軍に学徒たちが戦闘員であることが宣言された後、第32軍の防衛召集命令により、学徒を少年兵として動員した。地上戦がはじまるまでには25,000人が招集され、13,000人以上が犠牲になった。
「女子学徒隊」兵役法や陸軍の規則では、戦場動員は男子に限られており女子学徒の動員は法律にはなかったが、軍は「超法規的」に召集した。
決戦準備
沖縄守備軍は首里の軍司令部を中核に、中部の浦添丘陵地帯と南部の島尻海岸に主力部隊を配置し、北部は防衛圏からはずしてあった。その為、県は軍のいない北部に住民を強制的に疎開させることにした。しかし住民を疎開させると、軍部のための住民協力と食糧調達が困難になるため軍の抵抗にあった。軍は無防備都市宣言する方法をとらなかった。そのため疎開業務は難航し、沖縄戦が始まるまで3万人位しか疎開できなかった。一方、日本軍は軍官民共生共死の一体化の効果もあり、兵力は陸軍6.7万人、海軍9000人、さらに3.9万人の沖縄の徴集兵あわせ11万以上の兵力を誇った。平坦で空港適地の伊江島にも500人規模の日本軍が派遣され、住民も徴用し飛行場建設がすすめられた。住民は積極的に軍に協力し、兵士と住民との間に密接な絆が生まれていった。
ニミッツ提督指揮する中部太平洋軍は、1945年後半の日本本土上陸作戦へむけ、B-17及びB-29爆撃機のためのの航空支援基地とするために、沖縄へ進攻した。第5艦隊のスプルーアンス提督のもとで、ミッチャー提督が空母部隊を、ターナー提督が両用戦部隊を、そして上陸軍の第10軍を指揮するのは、アッツ島、キスカ島でのアリューシャンの経験を持つサイモン・バックナーJr.中将だった。上陸部隊18万3000と11万の支援部隊だった。牛島中将の予想通り、米軍は上陸地点を那覇市から16キロ北の西海岸の兼久海岸に決定していた。作戦は第一段階で沖縄の南部を占領して次の攻撃に必要な施設を確保し、第二段階で伊江島と残りの沖縄本島を占領、第三段階で琉球の他の島々を占領する予定だった。
海軍の将兵は、激しい神風特攻機に悩まされていた。沖縄戦が始まる前の3月19日には、早くも空母フランクリンが特攻機の直撃を受け大破し24名の船員が戦死、空母ワスプも沈没し、101名が戦死した。
米軍上陸
45年3月米海軍機動部隊による空襲がはじまった。沖縄戦が始まると、3月末、日本軍司令部は、住民が北部に移動する事を禁止した。4月1日米軍は沖縄本島に上陸を開始した。
沖縄中北部、離島の戦い
当初米軍は抵抗を受けなかった。日本軍は水際作戦を放棄し、島内部の陣地にこもっていた。バックナー将軍は第1および第6海兵隊を北に向けて送り、3つの陸軍師団は南に向かった。
沖縄中北部の戦い
沖縄中部では4月8日には読谷飛行場や嘉手納飛行場は米軍の制圧下に入り、戦闘機を進出させて防空任務を開始した。4月5日、上陸地点の渡具知に軍政府が出来、アメリカの住民対策が始まる。4月14日第6海兵師団は沖縄の北の地点に到達したが、本部半島で厳しい抵抗に直面した。陣地を構築した2,000の日本軍を制圧するのに海兵隊は12日間を要し、特に険しい八重岳で大きな抵抗に遭遇した。南で起こった恐ろしい戦いの前哨で、海兵隊は4月20日に最終的に本部を確保し、死者行方不明者213人、負傷者757人を負った。
当初の沖縄県の方針通り、沖縄本島北部に避難した住民は大半が生存した。5月10日早くもアメリカ軍による石川学園(城前小学校)が開設、住民の戦後がスタートした。そして連合軍の下に北部の人々の暮らしは元に戻り、農作業や学校等も不完全ながら再開を始めた。北部各地に散らばっていた日本軍兵士は「徹底抗戦」し、山や島や洞窟にこもっていた。昼間はアメリカの統治下で、夜になると日本の敗残兵の糧食供与を行ったり支配されたりで、住民はかなりの苦労を強いられた。
4月16日米陸軍77師団が伊江島に上陸した。激しい抵抗に遭遇し、島は4月21日の夜まで確保されなかった。米人死者は172人、負傷者902人で、死者には有名な従軍記者のアーニー・パイルが含まれていた。伊江島では日本軍により住民の徴兵が行われ、軍官民の共生共死の方針が貫かれ、住民と兵士が一体となった。少年は敵戦車への肉薄攻撃を、米軍陣地への夜間斬り込みを命じられ、女学生は竹槍や手榴弾で米軍に斬り込みを行い、帰ってくることはなかった。米軍の記録でも伊江島では慶良間その他と違い、日本軍がcivilianを兵士として戦わせたという記録が残っている。竹槍、手榴弾、乳飲み子を背負った夫人まで決死の米軍陣地へと突撃してきたという。壕では日本兵および住人たちが息をひそめ、泣き出した乳飲み子は日本兵により銃殺の命令を下され、撃つことができなかった義勇兵は日本兵から暴行が加えられた。伊江島では日本軍の「捕虜になるくらいなら自決せよ」という教育も徹底しており、洞窟に追い詰められた住民は父が娘を、母が乳飲み子を殺しあい、家族ごとに手榴弾での集団自決も行われた。住民の90家族が一家全滅、結果伊江島の住民の半数の1500人以上が死亡した。伊江島を占領した米軍は直ちに軍用空港の整備に着手した。
久米島の戦い
対照的だったのが久米島だった。1945年6月13日潜水艦にて米軍の偵察大隊が久米島に上陸し、何人かの住人を拉致する事件が起きた。翌14日、16歳の義弟を連れ去られた男性は、農業会仮事務所へ出向き、この件を報告した。久米島に駐屯する海軍通信隊の鹿山兵曹長は、その情報を得た後すぐに「米軍と接触したものが帰ってきた直ちに軍駐屯地に引き渡すこと。その命令に違反したものはスパイとみなし、その家族はもちろん警防団長、区長は銃殺する」という命令文を出していた。
1945年6月26日、アメリカ軍は久米島に上陸。1万人の住民がいた久米島で、米軍に殺されたのは10人しかいなかったという。
「仲村渠さんは久米島の恩人なんですよ」と喜久永さんは言う。沖縄本島で捕らわれた仲村渠さんは1945年6月26日、米軍と共に久米島に上陸し、住民に投降を呼び掛けていた。「米軍が島に上陸したときには彼は米軍の道案内をしていましたから、米軍に『住民に投降するように言って来い』と言われました。住民の隠れている場所を探して、危害は加えられないから出てきて家に戻りなさいと言って回ったんです。」
このような住民の裏切りは、誇り高き皇軍の将校にとって看破できないものだった。島民の軍に対する忠誠心をゆるぎないものにするためにも、断固たる処置が必要だった。その翌日の6月27日、山頂に駐屯する通信隊に、米軍からの降伏勧告書が届けられた。鹿山隊は勧告書を届に来た仲里村の郵便局員を「米軍のスパイ」として無裁判銃殺した。先に米軍に拉致された3名のうち2人は、米軍の久米島上陸から数日後に帰宅したが、帰宅は報告されなかった。しばらく経った6月29日、鹿山隊はこの米軍に拉致され報告を怠ったスパイに対し、彼らとその家族ら男性6名女性3名の計9人を銃剣で処刑し、さらにガソリンで家ごと焼却した。翌朝、住民らが焼跡へ行ってみると、黒焦げの死体は針金で縛られており、それぞれ数ヶ所に穴があいていた。海岸を制圧した米軍と、山中の日本軍に挟まれた久米島の住民たちは、鍾乳洞を避難壕として、奥深くに潜んでいるよりほかなかった。終戦後の8月18日、鹿山隊は先の重大な裏切り者仲村渠氏を一家含め処刑した。さらに処刑は続いた。
「この人のおかげで、米軍によって殺された久米島の島民の数は少なくて、10人だけです。ところが日本軍に殺されたのはその倍の20人です。他の島では人口の半数が殺された島もあったのに」
沖縄南部の戦い
4月中旬には沖縄中北部2/3が米軍の管理下にあった。しかし南部は簡単にはいかなかった。太平洋戦争最大の激戦で、アメリカ軍は首里を目指して10キロ進むのに50日も要した。日本軍は1日当り1,000人以上が死亡し、戦力の7割を失った。沖縄戦で米軍は、深い塹壕に立てこもる敵軍を除去するために、戦車歩兵部隊に大いに依存した。戦車は強力で正確な直接照準射撃のできる武器であった。特に火炎放射器を積んだ戦車は効果的であった。しかし爆薬を持った日本軍攻撃班には弱かった。したがって戦車には、この種の脅威に対応できる歩兵の援護が必要だった。
アメリカ軍は沖縄守備軍司令部のあった首里へ大攻勢を開始する。アメリカ軍が南に移動すると抵抗が強まった。4月4日のカクタスリッジと6日のピナクルは南部での最初の日本陸軍による抵抗だった。いずれも制圧に難渋したが、前哨基地に過ぎなかった。米軍の次の目標は陸軍は沖縄南部のマシナト線と呼称された防衛陣地であり、ここで強い抵抗を受けた。この中の特に西の端の嘉数高地は首里の北3キロに位置し、珊瑚岩が隆起している荒々しい地面であり、ここで高地を攻撃した米陸軍96師団と日本軍独立歩兵第13大隊の間で4月9日から16日間にわたる激戦となった。同様に和宇慶高地に攻撃を行った米陸軍第7師団も、攻撃と撤退を繰り返した。一連の要塞化された尾根、特に西海岸沿いの動きを妨げる一連の要塞の尾根に固定されたこの線は、沖縄の一方の側から他方の側に伸びていた。無限に続く厳重に守られた尾根、崖、洞窟の連続がバックナーの進撃を停止させた。典型的な尾根には、前方の斜面と各進路と交差する近くの高台に日本の機関銃陣地があり、米軍の前進時に反対斜面の巧妙に偽装された陣地から致命的な迫撃砲弾の雨を降らせた。反斜面陣地を活用した日本軍の防衛線に米軍は全く前進ができず、後部の高台にある大砲は、恐ろしい大虐殺を引き起こし死者数を増加させ、多数が神経精神病となり後方に下がらせた。特に4月19日に行われた第96、第7、第27師団による大規模攻勢は惨敗に終わり、嘉数高地を攻撃した第27師団は保有していた30輌の戦車のうち22輌を失った。
一方第32軍の持久戦方針による早期の飛行場の喪失は、大本営・第10方面軍司令部・航空関係者などから消極的かつ航空作戦軽視と批判の的にされた。大本営陸軍部は第32軍に対し奪われた北・中飛行場の奪回を要望する電令を発した。さらに連合艦隊からも、北・中飛行場を奪還する要望が第32軍に打電された。これらの督促を受けて、長第32軍参謀長は攻勢を主張、八原高級参謀は反対するも、牛島軍司令官は北・中飛行場方面への出撃を決定した。4月8日と12日に日本軍は夜襲を行ったが、第62師団の2個大隊が全滅、13日には第32軍の方針は一旦は八原高級参謀主張の持久方針に固まった。
バックナーの部下の中には、陸軍77師団と海兵隊を使って、首里の守備隊の背後に水陸両用作戦を望む者もいた。4月1日に陽動上陸作戦が行われた東南部の皆地川近くの海浜に、これらに部隊を上陸させては、というのである。沖縄南部へ上陸の問題は、4月22日まで第10軍によって真剣に検討された。陸軍第77師団の指揮官はブルース将軍である。77師団はレイテ島で、日本軍の後方にあるオルモックの水陸両用逆上陸を見事に成功させていた。ブルース将軍とそのスタッフは、沖縄で同様の上陸を望み、師団がレイテ島から出航する前でさえ、第10軍司令部にそれを促した。伊江島の戦いが終わりに近づいたとき、ブルース将軍は、その作戦を強く要請した。しかしバックナー中将は、南方からもう一つの攻勢をかければ、補給部隊を酷使することになると思っていた。神風特攻隊が最近、弾薬輸送船二隻を撃沈した後だけになおさらだった。振り返ってみると、バックナーが水陸両用攻撃をもっと考慮すべきだったことは明らかである。危険を冒してでもやってみるだけの価値はあった。
神風の猛威
アメリカ海軍はやってくる補給物資に航空援護を与えながら、沖縄沖を東方に航行した。沖縄西方は英艦隊の担当だった。4月6日から、日本軍は特攻機多数を含む航空機による大規模反撃を開始した(菊水作戦)。米軍にとっても沖縄からのニュースはぞっとするものとなっていた。4月1日から22日までの間だけで、特攻機の攻撃により沈没もしくは大破した艦船の数は60隻を超え、人的被害も戦死者1100名、負傷者は2000名に達していた。この海戦は合衆国海軍史上最大の犠牲を出していた。神風戦法がフィリピン方面に展開される以前に沖縄攻略計画は大部分が完成していたため、スプルーアンス率いる第五艦隊の指揮官たちは沖縄作戦において大規模な神風攻撃を勘定に入れていなかった。ミッチャー提督は機動部隊の周りに洋上ピケットと名けられたレーダー駆逐艦を配備し早期発見に備えさせ、ターナー提督は沖縄周囲に二重の警戒部署を設けた。しかしこの対策はうまくいかず、レーダー哨戒駆逐艦がこれらの攻撃の矛先をまともに受け続けることになった。空母や他の大型艦船も、絶え間ない特攻機の自爆攻撃に苦しんだ。
負傷兵の多くが、神風攻撃でいつも併発するガソリン火災でぞっとするようなやけどを負わされていた。いつも命中させられていた艦は、早期警報を得るために配備されていたレーダーピケット駆逐艦だった。これらはやってくる自殺機によりいつも真っ先に視認されていたからであった。ミッチャー提督は大量の幕僚を失っていた。さらに神風機が空母バンカーヒル及びエンタープライズを連続して行動不能にしたので、4日間のうち2回も旗艦を変えざるを得なかった。飛行場がなかったため、沖縄の米軍陸上部隊は、自分自身を防御するための十分な航空機も展開できなかったし、頑強な日本軍防御部隊が多くの飛行場を建設するのに必要とする平坦地を占領するのを妨げていた。この窮境が打開されるまで、空母部隊は待機し、防御行動を実施しなければならなかった。この問題をますます心配したニミッツ提督は、バックナー将軍をせっついた。4月23日、グアムから沖縄を訪問した時、ニミッツは将軍に言っている。海軍や海兵隊の将校たちの間では、バックナーの作戦は慎重すぎて、積極的に乏しいとの不満がくすぶっていた。ニミッツもこうした不満を受けて、作戦をスピードアップさせるよう申し入れるためであった。
58歳で、血色のよい顔をして大柄のバックナーは、士官学校の教官としての長いキャリアに加え、その着実な戦法と能力で周囲から尊敬の念を集めていた。彼は別にリスクを取らない戦術を好んでいるわけではなく、圧倒的な物量で正面から突破する方法を好んでいた。彼自身もウエストポイント校長時代には、その厳格な性格がもっぱらの評判であった。彼はニミッツからの申し入れに対しても、臆することなく陸上での作戦については自分の管轄であり、ニミッツの助言がなくても作戦はうまくいっているとはねつけた。普段は物分かりのよいニミッツも、この時ばかりは激高した。
私は一日に1.5隻も失っているんだ!。それ故、もしこの戦線が5日以内に前進しないなら、我々は前進させるため、だれかをここに呼ぶようになるだろう。そうすれば、これらの馬鹿気た空襲から逃げ出すことができるんだ。 |
この時点で、ニミッツもバックナーも正面攻撃に代わる作戦上の選択肢を思い浮かべていた。日本軍の戦線の背後への上陸作戦である。だが第二戦線を作れば、兵站システムが破綻してしまいかねない。弾薬の補給も続かない。また第10軍の諜報部門は日本軍の歩兵第24師団と独立混成第44旅団が予備部隊として沖縄南部に配置されており、南部への上陸作戦に迅速に対応できる模様であると報告していた。バックナーは、新たな上陸作戦など行わなくても、戦車、火炎放射器、艦砲射撃、猛烈な砲撃に、新たな部隊の投入で、最終的には日本軍の戦線を正面から突破できると踏んでいた。ニミッツもこのバックナーの作戦に注意深く耳を傾け、最終的に「この方法が最も早く目的を達成できる」と納得した。
ついにアメリカの新聞がバックナーの戦術に厳しい攻撃を始めた。だがその直後、フォレスタル海軍長官、ターナー、ミッチャー及びニミッツの各提督がこの将軍を支持する声明を発表したため、この後バックナーは攻撃されないですんだ。潜在的な各軍間の紛争を調停するためであった。このような賞賛された将校を更迭するのが具合悪いことはわかりきっていたからだ。またこの前年、サイパンでの戦闘に於いて、ある事件が確執として残っていた。海兵隊は常に動き続け間断なく攻撃するよう訓練され、大きな損害もいとわないが、一方陸軍は何事もゆっくりと進める傾向があり、まず火力で道を切り開いてから進む。サイパンで陸軍27師団のゆっくりとした侵攻に業を煮やした海兵隊のホランド・M・スミス総指揮官が激怒、米陸軍第27歩兵師団のラルフ・スミス師団長を更迭した。この出来事は海兵隊と陸軍の間で大問題に発展したため、この時公正な態度を示したバックナーに対しニミッツは強硬な反対を取りづらかったといわれている。
ニミッツ提督はルメイ少将麾下のマリアナに基地を持つB29が、九州の特攻隊基地を爆撃すべきだと主張した。ルメイ少将は異議を唱え、九州の遮断され、分断された飛行場に対して、重爆撃機は効果を発揮できないと指摘した。しかしニミッツ提督は頑強だった。同提督は戦域司令官の権限を持って、B29の戦略爆撃の任務から転じさせた。ルメイ少将は統合参謀本部のアーノルド司令官に対し、ニミッツ提督が戦争努力を妨害していると不満を言った。統合参謀本部のキング海軍作戦部長のほうは、もし陸軍航空隊が神風特攻機に対し攻撃をかけることに乗り気でないなら、海軍はマリアナ諸島にいるB29への補給を停止するかもしれいないと示唆した。九州に対するB29の爆撃は続いたが、特攻機の出撃を止めることはできなかった。
スプルーアンス提督は、沖縄上陸部隊の進行が遅いので極めて機嫌が悪かった。「陸軍の緩慢な、几帳面な戦闘方法が、長期的にみて、本当に人命を救うことになるか疑問に思う」と同提督は彼のもとの参謀長に向けて書いている。レーダーピケット艦に代わる陸上のレーダー早期警戒所は、陸軍は建設中だと知らされたが、スプルーアンスから提出された不満の文書にもかかわらず、素早く実施されていなかった。
第57機動部隊として特別命名された英太平洋艦隊南琉球及び台湾の各地の飛行場を無力化する任務を帯びていた。台湾からの日本部隊の近接を援護しつつ、中間の島々の飛行場を攻撃してこれを日本軍に使わせないように努力した。シドニーを経由して到着したばかりのバーナード・ローリングス英海軍中将の指揮する英艦隊は空母4、戦艦2、巡洋艦5、駆逐艦10隻よりなり、それに独自の補給部隊を持っていた。英空母イラストリアス級はエセックス級と同じ排水量であったが、搭載機は半分にすぎず、補給修理部隊は長期耐久の諸作戦に耐えるようには編成されていなかった。おまけに、英空母の密閉式格納庫は、迅速な作業に間に合わず、かつ熱帯海面の使用には不適当であった。しかしながらその装甲飛行甲板は、飛行甲板は木製で格納甲板だけ装甲張りであった当時の米空母より特攻機の攻撃に耐える力が有利であった。
第57機動部隊英海軍部隊はその任務からも特攻機に注意を向けざるを得なくなったが、神風の突入に対して英空母のほうがずっと丈夫で、やられることが非常に少ないことが立証された。英空母は4隻とも神風の直撃を受けたが、作戦の継続には何ら支障がなかったのである。スプルーアンス提督が、サー・バーナード・ローリングズ中将指揮下の英海軍機動部隊の存在をありがたいと思ったのも無理からぬことだった。
首里線の戦い
日本軍の反撃
日本軍陣地に対する絶え間ない圧力により、米軍は4月23日第96師団は死者99名、行方不明19名を含む798人の戦死傷者の対価を払いつつ、棚原から西原にかけての稜線を確保することができた。ついにマシナト線を突破分割した米軍に対し、日本軍は素早く次の防衛拠点まで3キロメートルほど後退して再編するとともに、米軍の猛威に備えた。米軍は次に、日本軍の主要な防衛線である首里-与那覇防衛ライン線に向かって前進した。4月22日以後南部の備えとして配備されていた日本軍の歩兵第24師団と独立混成第44旅団両部隊は首里線の強化に移動することになっており、26日これを察知した米24軍団作戦部が南部逆上陸を提案したが、バックナーは兵站上の理由によりまたも拒否した。
ここで牛島中将も大きな失敗を犯した。牛島中将の第32軍司令部は、首里城の地下50mのトンネル内に置かれていた。複雑につながったトンネルや洞窟が、火力拠点や兵舎として機能していた。しかし大本営の圧力、長参謀などの攻撃的意見により、再度攻勢をとる圧力が高まった。作戦会議決定により5月3日夜に、日本軍は反転攻勢に転じた。第32軍は、温存していた砲兵隊により5,000発のかってない規模で砲撃を浴びせ、第24師団と戦車第27連隊などを繰り出して普天間付近までの戦線回復を図った。船舶工兵第23、26連隊が残存の上陸用舟艇、大発動艇に乗船し海上を迂回してアメリカ軍背後に逆上陸を試みることとした。第5航空艦隊司令宇垣纏は総攻撃援護のため、九州及び台湾の陸海軍全航空戦力を投入することを決定、同日「菊水五号作戦」と「第六次航空総攻撃」を発令し、大量の特攻機を出撃させた。しかし米軍の反撃により日本軍は退路を断たれて大損害を受けた。また、逆上陸部隊は、主力の西海岸上陸部隊が那覇桟橋を出港し、牧港と嘉手納に向け海上を進行中に、米軍の第1海兵師団に発見され、激しい追撃により壊滅した。東軍は米陸軍第7師団からの偵察部隊によって海に追い落とされた。翌5月4日も日本軍の攻撃は続き、日本軍の砲撃は、米軍が太平洋戦線で受けたことがない規模となる13,000発にもなったが、米軍は日本軍の発砲地点を観測機により発見して効果的に反撃、米軍戦線を突破したのはたった1個の大隊だけで、攻撃は1日半後に中止された。日本軍の損害は大きく、のちに米第12軍団は前線上に6,237名の日本兵の死体があったと発表、殆ど無傷の予備兵力第24師団も大打撃をうけた。一方で米軍の死傷者は陸軍714人と海兵師団352人の合計1,067人にとどまった。この反撃はのちに沖縄戦を2週間以上短縮させる効果があったと推定された。
4日後、アメリカ人はドイツの降伏を祝うために日本の位地に大弾幕を張った。バックナーは、再編成された部隊で首里線に対する5月11日の攻撃を開始した。これはニミッツを喜ばせた。
首里線の戦い
首里の防衛線は10キロメートルにわたって沖縄本島を横断しており、複雑につながった洞窟やトンネルが、火力拠点や兵舎として機能していた。事実上、米軍の砲撃や艦砲射撃は全く役に立たなかった。バックナーの選択した首里防衛線への正面からの両翼包囲作戦は決して楽な作戦ではなかった。日本軍の巧妙な防御陣地に対する正面攻撃に疑念を示した将校もいたが、バックナーの課した作戦は厳密だった。北縄北部を予定より早く攻略した第三水陸両用軍団所属の海兵隊が投入された。
5月9日、第22海兵連隊は安謝川を渡河、安謝川河口と安里川河口の中間に位置する丘に侵攻していた。海兵隊が丘を登りだしたその瞬間、日本軍の銃撃が正面から始まった。突然、あらゆる場所から日本兵が現れ、真下からも日本兵の叫び声が聞こえだした。日本軍部隊が正面から向かってくる間に、さらに別の部隊が右手にも表れた。突如”ブスっと”という嫌な音がし、海兵隊のヘルメットを銃弾が貫通し、彼は即死した。丘はいつしかチャーリーヒルと名付けられていた。シェファード将軍はベイリー型の組み立て橋をかけるように命じた。これにより戦車を渡河させて、翌日の攻撃に投入できるのであった。日本軍の断続的砲撃により遅延したが、最初の海兵隊の戦車が渡河した。にもかかわらずチャーリーヒルの攻略は引き続き苦戦していた。メイヤー第一大隊長は艦砲射撃を要請した。重巡インディアナポリスが現れ、連続集中砲撃を行った。メイヤーの大隊は前進を開始した。しかし信じられないことにカモフラージュされたトーチカや銃眼からの銃撃は途絶えなかった。時間をかけ、戦車による準備砲撃を経て、翌日戦車がトーチカや亀甲墓に対して直接攻撃を行い、さらに四両の火炎放射戦車が頑強に抵抗する一帯を焼き払った。こうして5月11日日没までに丘一帯はようやく制圧された。海兵隊は大な被害を出していた。チャーリーヒルをしらべてみると、その頑強さが明らかになった。石灰岩でできた丘は高度に要塞化され、内部は三層構造で様々な部屋と火力拠点がトンネルや廊下でつながっていた。しかし日本軍も思うように事態を掌握していたわけではなかった。最近封印されたばかりの明らかに巨大な墓地と思われる部屋も発見され、壁には数百の認識票に勲章、軍刀にライフルや旗などがかけられていた。
5月12日米軍四個師団と日本軍の間で合わせて5-10万人が激しい戦闘を繰り広げた。沖合の艦隊に対する特攻攻撃が続く中、バックナーは「目覚ましい前進が期待されるような類の戦いではないが、多数の日本兵が死んでおり、彼らは着実に後退している」と述べた。首里西方の天久台地区では、米軍は激戦の上丘を確保していた。第6海兵師団も5月12日より南東方向へ向かって侵攻した。ここから首里高地の間、現在のゆいレールおもろまち駅付近、には小さな三つの丘があった。血みどろのシュガーローフ、ハーフムーン、ホースショアである。
シュガーローフは樹木と低木がまばらに点在する、高さ15-20m、長さ270mしかない台地である。第6海兵師団にとって、この丘は重要な目標でなく、単に安里川の約1.6キロ先に位置する国場と呼ばれる場所にある高地に対して砲撃を加えるのに必要な地域のほんの一部であった。しかしその下に、2,000人の日本兵が米軍に打撃を与えるのを辛抱強く待ちかまえていた。日本兵たひたすらたこつぼや洞窟、銃眼の中で忍耐強く待っており、米兵が彼らの射界に入ってきた時だけ射撃した。南部製99式軽機関銃は8000発/分の発射速度で米M1919軽機関銃の約2倍だった。狙撃兵は忍耐強く、神業としか思えない選択眼で将校や通信兵を狙撃した。5月12日第22海兵連隊第二大隊のシュガーローフ攻撃は無残な失敗に終わった。第2大隊のG中隊は、3つの小隊をシュガーローフ斜面に進出させたが、2つがたちまち敵の銃撃により壊滅された。第3小隊40人は山頂に向かって突進したが、100ヤード以内に28人が倒れた。攻撃を受けた生存者は引き戻さなければならなかった。夜の闇に包まれた後も海兵隊員たちは野ざらしの死体を置いて必死に後退を続けていた。G中隊は事実上壊滅した。
シュガーローフの丘は複数が相互連携する構造により強固な陣地が構築されていた。この仕組みを海兵隊側が理解するまで、4日間を必要とした。シュガーローフの南東400mにはハーフムーンヒルがあり、この二つの丘の間を軽便鉄道が走っていた。さらにシュガーローフの奥にはホースショア(馬蹄)と呼ばれる別の丘があった。ホースショアの馬蹄に挟まれた窪みは、接近戦で手榴弾や小銃の直接影響を受けず日本軍にとって格好の迫撃砲陣地となった。海兵隊からはどれか一つの丘を攻撃しても他の丘から丸見えで遮蔽物もなかった。またこの一帯はシュガーローフ東の首里高地から機関銃、迫撃砲、野砲による攻撃を受けた。
5月13日海兵師団の攻撃が始まった。陣地は海軍の艦砲射撃によるすさまじい轟音と衝撃波にもびくともしなかった。翌日も進撃は停滞していた。14日日没後、F中隊は丘を占拠していたが、取り残された。大隊の執行役員、ヘンリー・A・コートニー少佐は夜間にシュガーローフを攻撃、確保する戦法をとった。コートニーは暗闇の中縦隊を率いて進んでいった。この時の兵力は45人である。全員が決心したリーダーを追って丘に到達し、塹壕を掘った。日本軍からは手榴弾が投げ込まれてきた。シュガーローフ上では海兵隊は日本軍の十字砲火を受けていた。丘の上には戦車の残骸が遺棄されていた。一人の日本兵がそのうち一両のシャーマン戦車に侵入した「やーい、アメ公、やーい、アメ公」丘の上の軍曹は「この黄色いくそ野郎」と叫び発砲した。胃のあたりに当たった。彼は甲高い悲鳴を上げ始めた。軍曹は再び発砲しなかった。30分ほど悲鳴が続いたが、やがて聞こえなくなった。コートニー少佐は日本軍が丘の頂上を支配し手榴弾を投げ続けている状況では、支配地域を維持することが困難であると考えていた。日本軍側の反撃準備が見て取れた。コートニーは丘の頂上に向け奇襲した。見事な奇襲で丘を占拠した海兵隊は、日本軍を多数射殺したが、手榴弾や迫撃砲の反撃にさらされることになった。コートニーも迫撃砲の破片が頸動脈を切断し、死亡した。彼の勇気とリーダーシップに対して、コートニーは死後に名誉勲章を授与された。
その後も増援の海兵隊と日本軍との間で、激しい銃撃、迫撃砲、手榴弾の応戦が続いた。日の出のころ、海兵隊員は想像以上に多くの日本兵がいることに気づいた。海兵隊の攻撃は手ひどく撃退されたようだった。丘に残っていた海兵隊員も20人まで減っていた。海兵隊は翌朝シュガーローフから撤退しなければならなかった。救援のアムトラックが日本軍の攻撃をかいくぐり、海兵隊員を収容した。
西方の戦いにより沖縄の県都那覇への道はすでに開いているが、東方首里の牛島中将を包囲するためにはシュガーローフの攻略が必要であり、ここが陥落できなければ、那覇へ部隊を進めることはできない。しかし5月15日の攻撃は跳ね返され、5月16日は、頂上への4つの別々の突撃が失敗し、死傷者は増えるばかりだった。海兵隊の攻撃はつづけられた。彼らの進む先には、以前の攻撃で戦死した多くの戦友たちの死体が転がっていた。重症患者の構想は迅速に行われたため、負傷兵の致死率は3パーセント以下に抑えられた。米国の国家を上げて行われた献血による血液は冷凍されてグアム経由で空輸され、多くの海兵隊員の命を救った。第10軍では5.7万Lの血液を使った。重症患者は快適ベッドや豪華な食事に看護婦までついた病院船でグアムに搬送され、それ以外もC-54輸送機で空輸された。経験豊富な兵士たちが戦列を去り、代わりの補充兵の質は下がる一方だった。中にはコックや、パン焼き兵、それに憲兵まで連れてこられた。
5月17日時点で日本軍が支配する地域は沖縄のほんの一部だった。しかし米軍はそのわずかな支配地域を奪うために途方もない代償を支払っていた。この日までに米10軍は戦死者3964名、負傷者18258名、行方不明302名、9265名の非戦闘損耗病者を出していた。沖縄近海における海軍の戦死傷者も4000人を超え、バックナーは上層部から前進が遅いことへの批判のプレッシャーをかけられていた。しかし第1海兵師団は首里高地への攻撃でズタズタにされ、第6海兵師団はシュガーローフへの前面で消耗していた。
シュガーローフでは海兵隊は一方的に損害を受けているように見えたが、日本軍もまた激しい損害に耐えていることを複数の証拠が物語っていた。そこには数百体の日本兵の腐敗した戦死体が横たわり、洞窟や亀甲墓で死亡した日本兵も相当な数に上っていると推定された。海兵隊にとらえられた独立混成第二大隊所属の捕虜は、尋問に対して、彼の部隊は5月9日からの戦闘で「事実上全滅した」と答えた。牛島中将の第32軍はこの裂け目に対して予備部隊を緊急に投入した。
食料や生活物資を現地で調達していた日本軍、少年たちは民家から物資を持ち出してくるように命じられた。「酒をもって来いという命令を受けました。危険な中を崎山まで行って地下貯蔵庫に入っている泡盛を、いっぱい酒を積んでね、やれ帰ろうという時に榴散弾が飛んできてね、頭上2、300メートルのところでバーンと散るわけでもう非常に危険、一目散に逃げましたよ。酒で命を失ったら一体どうするのかと思いましたが、当時は当然のことでした、そういう危険な目も」。
このころようやく日本軍の防御網の実態を把握しつつあった海兵師団は、シュガーローフを攻略するためには、ハーフムーン一帯の側面からの日本軍の重砲を遮断する必要性を感じていた。第29海兵連隊はハーフムーンを攻撃した。5月17日にハーフムーンにようやく突破口が生じ、翌日シュガーローフ攻撃に火力支援の増加を期待できた。首里の日本軍の砲兵隊は東の第1海兵師団によって徐々に縮小されていた。
5月18日シュガーローフの頂上を再び占拠した海兵隊は、地下から現れだした日本兵のいる斜面の下部に向かって手榴弾を投げ込んだ。この時豪音を響かせて戦車が丘の東側面に回り込んでいた、地雷原も消耗して薄弱となっていたのだ。戦車の砲撃は日本兵を吹き飛ばした。決死隊が対戦車爆雷を抱えて地下から現れると、随伴歩兵の機関銃に掃射され打倒された。日本軍の戦線は崩壊し始めた。戦車隊は退却する日本兵を多量に殺傷した。やっと、シュガーローフは沈黙した。7日間の猛攻撃により、第6海兵師団は死傷者2,662人、さらに1,289人が疲労や戦場神経症にて戦線を去った。
5月19日海兵隊はシュガーローフ南部のホースショアを攻撃、まだこの部位では日本軍の反撃は強固だった。海兵隊の占拠する丘の地下の日本軍陣地には依然として日本兵がいた。日本軍はまだシュガーローフ一帯を放棄する気はなかった。5月20日帝国海軍陸戦隊が一帯奪回のため送られた。まだ一帯には相当数の日本兵がいたものの、この日米軍第4海兵連隊は予定通り前進した。20日夜の日本軍の大隊兵力を動員した反撃は粉砕された。21日にはホースショアの迫撃陣地は無力化された。しかし東の首里高地からの砲撃にさらされるハーフムーンの占領は難しく、第一海兵師団が同高地の攻略に成功するまで見合された。第六海兵師団は5月22日東方ハーフムーン裏側斜面に強力な防衛ラインを構築した上で、南西の那覇へ進撃を始めた。首里防衛線には亀裂が生じており、シュガーローフを突破された首里は側面から攻撃される位置にあった。さらにコニカルヒル(運玉森)も同時に失った首里は西側からの防衛が困難となっていた。
日本軍の撤退
5月22日、 首里城の地下壕で軍の作戦会議が開かれた。日本軍の被害は甚大で、すでに6万以上の将兵を失っていた。生き残っている5万が首里に包囲されれば自滅は必至である。牛島中将が選んだのは生き残った兵を南部へ撤退させることであった。それは避難民の犠牲をも顧みず、戦闘を最も長く引き伸ばす策であった。補給物資、負傷兵の撤退が始まり、通信や管理支援部隊がそれに続き、29日戦闘部隊がそれを追った。傷の深い負傷兵は殺されるか自決を強要された。後続の防衛部隊5000人は31日まで首里に張り付くことになった。
最後の作戦「軍は残存兵力をもって玻名城~八重瀬岳~与座岳~国吉~真栄里の線以南の 喜屋武半島地区を占領し、努めて多くの敵兵力を牽制抑留するとともに、出血を強要し、もって国軍全般作戦に最後の寄与をする」。国軍全般作戦とは本土決戦のことであり、本土決戦への時間稼ぎのために、日本軍は徹底した持久作戦をとった。本土決戦に備えること及び終戦条件をいくらかでも有利にするために時間稼ぎをする必要があった。特に「軍の名誉」を最も重視する誇り高き日本軍軍人が、連合軍によって戦争犯罪人として裁かれるという不名誉なことは絶対に避けねばならない。そのために日本軍、沖縄徴用兵、沖縄民間人、軍民一体となり、すべての命を浪費してでも血の一滴まで粘って戦い、少しでも米軍の人と物資を消耗させなければならない。飛行機もなければ船もなく、持久のために閉じこもる日本軍に対して、アメリカはあり余る爆弾、砲弾を雨のように沖縄に注いだ。島の南部にはすでに多くの住民が避難していた。日本軍が南部に向かっていくとともに、住民たちは戦闘に巻き込まれることになった。5月27日に那覇が倒れ、5月29日に首里線が崩壊した。撤退も簡単ではなかった。艦砲射撃と機銃掃射で5万のうち1.5万が死亡したと推定され、撤退に成功したのは3万であった。太平洋戦争で珍しく、かなりの数の日本軍が脱走し始めた。これは沖縄現地徴用兵が多かったためである。
「あの勇ましさは、首里まではすごくあったんですよ。首里が散々にやられて、追いまくられてからは…」少年たちの心からは、あこがれの兵士になった時の喜びは消えていた。南部はすでに多くの住民が避難しており、住民たちが戦闘に巻き込まれることになった。「兵隊が『お前は土地のものだから、あの(地元の)人たちに道を聞いてこい』と。『あの』といって月の光で見たら、返事をしない。あれと思って、みんな死んでいる、一家、津嘉山のあそこで。皆座ったまま、休憩しているような感じだった。俺のほうがびっくりしちゃって、初めてそんな集団で死んでいるのを見てね。」。住民たちは戦闘を逃れて、豪の中に避難していた。その住民たちを追い出すよう、少年たちは命じられる。「うちらが(南部へ)移動するたびに民間の豪、みんな追い出して、『兵隊が来るから、あんたがたは他の方に逃げておけ』って、いうこと聞かんと危ないからな、兵隊たちは銃を持ってやってくるから、うちらもそれを止めることはできない、同じ軍隊だから・・・、住民に対しては本当に済まない感じ持っていたすよ」。日本軍が新たに司令部を置いたのは、沖縄本島南端の摩文仁、周辺にはガマと呼ばれる洞窟が無数に存在し、この洞窟に分散して入り、持久戦を行うことにした。少年たちは日本軍と生活を共にすることで、軍隊の現実を目の当たりにした。助からないと判断された負傷兵は穴に投げ捨てられた
米海軍司令官の交代
神風は5月中旬までに沖縄水域で、艦船133隻に損害を与え、26隻を撃沈し、水兵2000人を戦死させていた。ニミッツ提督は沖縄作戦中にもかかわらず、艦隊の司令官と幕僚を交代させることに決めた。5月18日ハルゼーはミズーリに将旗を掲げた。27日夜にハルゼーはスプルーアンスと交代した。スプルーアンスは余裕あり落ち着いているように見えたが、幕僚の何人かは疲労の限界に達しており、ミッチャー提督は体重が45㎏以下になり、あまりにも弱っていたので助けなしには舷梯さえも登れなかった。スプルーアンスは沖縄作戦にもっととどまりたいようであったが、やつれた幕僚のために文句も言わず離任する準備をした。
ハルゼーはなぜ洋上ピケット艦をこのような大殺戮にさらす必要があるのかいぶかっていた。なぜ陸軍は陸上にレーダー早期警戒所を建設することで、ピケット艦を交代させなかったのか。陸軍はそのような警戒所を建設中だと知らされたが、スプルーアンスから提出された不満の文書にもかかわらず、素早く実施されていなかった。ハルゼーは陸上部隊を支援するのに空母軍を使用するという戦略には、ほとんどとたえられなかったと回想している。なぜ空母任務部隊は、ルソンの飛行場を絨毯爆撃したように、まず九州の飛行場を絨毯爆撃しなかったのか。彼は空母部隊が4回九州に接近し、各飛行場の爆撃で航空機を派遣したが、飛行場があまりに多すぎ、広く散らばっており、さらに対空砲台で十分防御されていたため、それらを絨毯爆撃することは不可能だったと知らされた。イギリス空母部隊、つまり第57任務部隊が南西琉球列島と、しばらくの間、台湾の飛行場を攻撃してかなりの成果を上げていた。しかし、この任務部隊は整備のため、最近シドニーに引き上げていた。
南西太平洋の陸軍航空部隊は任務をどれぐらい実施してるんだ?。 | スプルーアンス提督 | 連中は多くのサトウキビ圧搾機、鉄道列車そのほかの設備を壊しただけさ |
サトウキビ圧搾機は我々に損害を与えることはできないんだ。son of a bitch!、どうして連中は奴らの飛行機をぶち壊さないんだ。 |
5月26日ハルゼーはバックナーと相談するために陸上に出向いた。提督が取り上げた問題に一つは、多くの早期警戒レーダー局を建設する陸軍の仕事についてだった。この建設の遅れが海軍の損失の原因になっており、またスプルーアンスが不平を述べていたものだと、バックナーはこの時初めて知らされたのであった。バックナーは直ちに状況を改善すると約束した。
私はいつも主張するつもりだ。もし君たちが何早くやってほしい場合には、5000語の要求書3通より5分間の会談のほうがはるかに効果がある |
マッカーサーがソロモン諸島を基地としていた極めて効果的な海兵隊航空部隊を前進移動させてレイテ島のあまりに少ない飛行場の問題をいかに解決したかを思い出したハルゼーは、現在フィリピンを基地としている同航空部隊を沖縄に持ってくるよう進言した。この部隊の到着を待ちながら空部任務部隊は陸上の支援を続行した。
6月に入ってアメリカ軍は沖縄南部に対する攻撃を強化した。6月2日ハルゼーはラドフォードに九州の各飛行場を攻撃するため、北に向かうように命じた。
と、的確に神風対策を進めていたハルゼーであったが・・・、またも大失敗を起こしてしまう。6月5日ハルゼーは再び台風に突っ込んでしまった。6人が死亡、76機の航空機が損傷した。このためハルゼーは査問委員会にかけられることになった。ハルゼーは解任の可能性もあったが、士気に与える影響を鑑み、なんとか不問となった。
6月8日すでに沖縄の空母部隊の存在は重要でなくなっていた。陸上のアメリカ軍はうまく攻撃し、海兵隊航空部隊も到着していた。追加の飛行場は建設中だったし、追加レーダーサイトも設置されつつあった。神風攻撃も100機以下にへっていた。明らかに日本軍は沖縄を見捨てていた。またフィリピン制圧の影響か、稼働機が減少していることが見て取れた。ある米軍の将軍は戦後書き残している。
戦後私は日本についてから、日本本土の各飛行場で発見された約8000機の日本側軍用機を視察したが、どれも95%から98%までは完全な姿で、ただ何か小さい部品が足りないという理由だけのために飛べない状態にあった。この8000機が動けたら、日本の戦争努力がどれほど違ったものになったかは計り知れない。
6月10日第38任務部隊は沖縄水域から解放され、6月19日レイテ湾に到着した。船員たちは休暇を取り、ハルゼーも休暇を取りマニラに飛んだ。ハルゼーはマッカーサー将軍と昼食を共にした。二人とも意気軒高だった。フィリピン会戦はほぼ終わっていたし、日本への最終的な勝利もほどないようであった。
沖縄戦いの終わり
1945年5月下旬、中部戦線で主戦力の8割を失った沖縄守備軍の司令部は、南部へ撤退した。日本軍には住民を守る義務はなかった。住民の為に米軍と交渉は行われなかった。皇軍指揮下ではたとえ民間人でも、捕虜となることは許されない。ただ大本営の命令に対する忠誠、そして軍の名誉があるのみだった。
米軍は掃討戦を展開し、海空からも砲弾をあびせ、緑豊かな丘陵は、石灰岩の白い肌がむきだしになり、家も木も森も全てを焼き尽くした。日本軍は沖縄人を人間の盾として使用した。戦闘中、米軍は民間人と兵士を区別するのが難しいと感じ、沖縄の民家を撃つことが一般的になった。ある歩兵は書いた「いくつかの家からは反撃の銃撃があったが、その他はたぶん、民間人しかいなかった―そして私たちは気にしなかった。敵と女子供を区別していない、ひどいものだった。アメリカ人はいつもは、特に子供たちに対して、大きな思いやりを持っていたはず。今や、私たちは無差別に銃撃している…」
6月半ばには米軍も南部に達する。日本軍は洞窟にこもり続けていた。少年たちは水くみや食料運搬などを命じられる。洞窟から出るたびに大きな危険にさらされる。「皆怖いわけですよ、上官でさえ小便も外でできない。(洞窟の)中で缶詰に用を足して「捨ててこい」というような状況で、正式な軍隊教育受けた人もみんな同じなんだなという気持ちでした。」。夜、わずかに砲撃が収まる間、少年たちは食料を求めて洞窟を出た。日本軍がこもる洞窟に、米軍は火炎放射器を浴びせ、手榴弾を投げ込み、次々と制圧していった。
着々と神風対策を改善しつつあった米軍は、ちょうど指揮権交代のころには、神風特攻の脅威を自信をもって跳ね返すところまで来ていた。米軍は沖縄北部にレーダー見張り所を多数設けたばかりでなく、その目的で手に入れた沖合の小島にもいたるところにレーダー・ステーションを作った。神風特攻隊の方では、これに反し、最後の突入から戻ってきてその体験を報告するパイロットは絶無であったから、改善の基礎となるデータを発展させる手がかりがなかったのである。なお、その上に特別攻撃隊の特質も変化しつつあった。自発的な影響を欣然として求める純粋に献身的な連中はほとんどすでに底をついていた。今や日本のパイロットは好むと好まざるにもかかわらず生命を投げ出さなければならなくなっていた。パイロットの中には、一隻も米艦がいなかったと報告して基地に生還するものもあった。飛び立つとき司令部の建物を機銃照射することによって暗に飛び込まされる恨みを晴らそうとした特攻隊員もあった、と伝えられている。 |
ニミッツ提督は6月17日のプレスリリースで第10軍司令官バックナーを熱心に支持した。しかし6月18日前線でバックナーは戦死した。バックナー中将は戦闘の様子を把握し、兵士を励ますために最前線に留まる習慣があった。しかし、この習慣は彼の命を奪った。バックナーは中将であり、レスリー・J・マクネア、フランク・マクスウェル・アンドリュース、ミラード・ハーモンとともに第二次世界大戦で死亡した最高位のアメリカ人だった。統計学的な研究では太平洋戦線における米軍の兵士と将校の負傷率は全く同一であり、戦死率では将校の方がやや高かった。これは将校の死傷率が極めて低く兵士の死亡率が極めて高かった日本軍とは対照的である。米軍では将校が倒れた時、下士官が指揮を執るのは伝統的な行為だった。ロイ・S・ガイガー少将はバックナーの後任となった。
6月19日、日本軍の組織的抵抗は終了し、6月21日この島は占領したと宣言された。6月20日には日本軍は南端の狭い範囲に閉じ込められた。アメリカ軍の戦車の砲弾が摩文仁の司令部まで届くようになると、牛島司令官は各部隊ごとに独自の判断で徹底抗戦を命令し23日牛嶋中将と長参謀長はの自決。軍は崩壊し、そのために6月23日が終戦と言われている。掃討作戦は6月末まで続いた。
第32軍司令官牛嶋満中将「爾今諸子は各々その陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘し、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大儀に生くべし。」
牛島司令官は自殺する時に、「捕虜になるな、国・上級将校のために徹底して戦え」と命令を残した。
この方針はさらに少年たちを苦しめた、少年たちは斬り込みを命じられた。重傷で身動きできない負傷兵は洞窟で多くが自決を命令され死亡した。投降の呼びかけを始めた米軍、少年たちの心は揺れた。しかしその呼びかけに応じることはできなかった。「同じ岩陰にいる兵隊の下士官が軍刀を抜刀して『あそこから捕虜になっている奴らがいる、おまえらもああいう風に行ったらすぐにたたき斬るから』なんて言ったんです」「パンパーンって音がしたの、アメリカの船が来てるんだね、それに向かって日本の兵隊が泳いでいくの、泳いでると、後から撃つの、うったのはもちろん日本の兵隊、同じ日本人どうして銃の向け方が違うじゃないかと思った」
沖縄戦の損害
米軍は、非戦闘死傷者(精神病、怪我、病気)を含む82,000人以上の死傷者を出し、そのうち死者・行方不明者は12,500人以上に及んだ。戦死者は海軍4,907人、陸軍4,675人、海兵隊2,938人であった(後日間接的に(傷やその他の原因で)死亡した数千人は含まれていない)。米海軍の死者は負傷者(4,874人)を上回った。航空機の損失は、神風基地の九州飛行場を爆撃した航空機を含め768機で、うち戦闘損失は458で、他の310は運用上の事故だった。海上では、水陸両用艦艇120隻を含む368隻の連合軍艦船が損害を受け、水陸両用艦艇15隻と駆逐艦12隻を含む36隻が沈没した。負傷した。わずか10万人の日本軍と戦った沖縄線及び硫黄島戦は、62万の日本軍精鋭を相手にしたフィリピン戦を上回る米軍死者を出してしまったのである。また大日本帝国陸軍による沖縄人を盾として使用する戦術は、アメリカ兵において心理的に大きな負担を与えることに成功、戦闘疲労による神経症の患者が26,211名にも上ったが、この患者たちは軍を退役した後も長らく神経症に悩み、社会問題化する事となった。
一方日本軍の被った被害はさらに甚大だった。沖縄出身兵含め軍人11万が命を落とし、また7401名の日本兵と3400名の沖縄徴用兵が捕虜ととなった。日本兵捕虜のうち半数は戦闘の直前に兵役に負われた沖縄出身兵で、彼らは日本軍の降伏禁止の戦陣訓にあまりなじまなかった。8月15日を過ぎ10月を過ぎてから投降する者もいたため、生存は16346人になった。特攻機1,900機を含めた4,000機もの航空機を失った。沖縄とマリアナ諸島からの爆撃機軍は500機もの大集団で日本上空に表れ始め、主要都市の広大な地域を焼き払っていた。
戦死者の最も完全な集計は、大戦中に沖縄で亡くなった各個人名を識別した沖縄県平和祈念資料館平和の礎記念碑である。2010年現在この記念碑には、沖縄人149,193人、日本兵77,166人、アメリカ兵14,009人、韓国(365)、イギリス(82)、北朝鮮(82)および台湾人々、計240,931名が祈念されている。
米第10軍の82日間の作戦の公式記録では、回収された敵の遺体は142,058人であり、うち兵役を強要された民間人を含め、約4.2万人の民間人が十字砲火で死亡したと推定された。一方沖縄県の推定では10万人を超える民間人が死亡している。米軍は沖縄戦で、占領した地域から順に軍政を敷き、民間人収容所を設けた。沖縄本島では米軍上陸の4月1日に収容所に囲われ、戦後生活をはじめていた住民もいたが、8月15日すぎても山野を逃げまどっている人びともいた。各地の収容所は少なくとも22か所に及んだが、統廃合の末45年10月ごろには16カ所に集約され、大半が46年に閉鎖された。米軍は沖縄戦で、民間人24万人に一人当たり一日1.9リットルの水のほか、食糧7万食の調達を計画していた。だが、民間人収容所の住民は45年8月に約33.4万人に達しており、食糧供給は限界を超えていた。この収容所では計6423人の死者が出ている。しかし住民の死者の多くは別の要因だった。
南部へ逃げた住民たちは、住民たちは墓や沖縄地方の方言で「
また沖縄では大日本帝国陸軍高級将校たちの理想とする国家総動員体制により、軍民一体化がなされた。多くが戦闘行為や自決の強要、捕虜になることを禁止されるなど、軍人と同じ責務を担った。とくに米軍の庇護下になる「捕虜」となるという行為は、誇り高き日本軍にとって重大な裏切り行為であり、たとえ民間人であっても決して許されることではなかった。生き残った裏切り者も多数いたのは事実だが、多くの沖縄県民は軍部に忠実で、軍の盾となり進んで米軍の捕虜になることを拒否し、米軍の捕虜になることなく自決を選んだ。これぞまさに陸軍の理想とするところの軍民一体で、陸軍高級将校たちが戦後も誇るように米軍に大きな損害を与える戦いができた。民間に軍員と同じ義務を強要するのは明白な国際法違反である
米軍が沖縄本島に上陸した当時、字波平の住民が避難していたチビチリガマでは、約140名のうち83名が集団死している。その約半数近くが幼い子供たち。目の前に米軍兵士がせまり、恐怖のなかで一昼夜を過ごした人々は、捕虜になれば残酷な殺され方をすると信じ、自らの手で家族を殺すという行為に走った。
同字のシムクガマに避難して助かった人々と、チビチリガマにいた人々に生活環境などの違いはない。米軍が本島上陸した地点から程近い字波平にあるシムクガマには、約千人の住民が避難しており、その中には2人のハワイ移民の帰省者がいた。米兵がガマ入口から投降を呼びかけたとき、2人はそこに日本兵がいないことを説明し住民の保護を求めた。そしてガマの中の住民を説得し、全ての人々が投降した。チビチリガマと対照的に取り上げられるシムクガマ、千人もの人々を生かした最大の要因は、米軍が捕虜を殺さないという事実を知る、移民経験者の存在であった。
米軍はまた、日本が行うことができなかった食品や医薬品を提供した。日本軍の主張するプロパガンダを考えると、沖縄人は「米軍の比較的人道的な治療」に驚いていた。しかし一方、1945年の沖縄戦において、「クロンボガマ」事件のように、多数の強姦が米軍によって犯されたと主張する信憑性のある多くの証言がある。時間が経つと、沖縄人はアメリカ人に次第に嫌がらせを受けるようになるが、降伏時には、アメリカ軍は予期されたほどには危険はなかった。
2か月後日本は降伏、少年たちは捕虜として終戦を迎えた。「『まさか』と思いましたけどね、あれも一瞬ですよ、『まさか日本が負けるはずはない』、わずか30秒くらいで、それよりは自分が助かったというのが強かったです。私は友軍が逆上陸してきて米軍が駆逐すると(思っていた)。その時には捕虜になったということで日本軍から銃殺されると思っていた。だから日本が負けると日本軍に銃殺される恐れはなくなったと」
混乱の中で、終戦を知らずに逃げ続けていた少年兵がいた。巨大な洞窟に6人の仲間とともに隠れていた。終戦から2か月たった10月のこと、「ある日壕に入ってきた人が二人『日本は負けたんだ、帰れるから、自分の故郷に帰れるから、出てきて』負けたんだから捕虜じゃない、だから説得しに来たんですよ、二人、中に隠れている人は『これは敵のスパイだ』とだれも信じない。生きて返すわけにはいかんと、射殺されたんです、この二人は」。1か月後壕を出た少年兵は、日本が降伏したことが本当だと知った。「申し訳ないという気持ちでいっぱいで。人助けのために、説得に来てくれたのに。申し訳ないことをした」
沖縄戦の結果
陸軍の理想となす軍民一体の効果もあり大本営的に善戦したとはいえ、軍部以外の日本人たちにとって沖縄戦は何十万人もの犠牲者を出した悲惨な敗北そのものであることには変わりなく、日本国の降伏の決心に大きな影響を与えることになった。ことに昭和天皇は2月14日の公然と敗北は不可避とし和平を進言した近衛上奏文が正しかったと考えを変え、降伏論者に代わってしまった。すでに4月には陸軍内閣が倒れ非陸軍の鈴木内閣が成立し、外相となった東郷茂徳も終戦を考えるべきと奏上していた。6月22日の御前会議で、ついに昭和天皇からも和平を実現するよう軍部に要請がされるようになった。陸軍はついに天皇に裏切られパドリオ(国王の信任を得てムッソリーニを裏切り伊降伏を現出)の再来や背後からの一突きを懸念する事態となってしまうのである。
一方米軍にとって沖縄戦の次の大きな出来事は「日本の全降伏」だったので、この戦闘の「効果」を考えるのはもっと難しい。降伏のために、次に予想される一連の戦い - 日本の祖国の侵略 - は決して起こらなかった。沖縄は結局日本本土上陸作戦の前線基地となることなく、日本は無条件降伏した。
だが戦後の沖縄の軍事的価値は、「すべての希望を超えた」。沖縄は日本に近接して艦隊の停泊地、部隊の上演区域、および飛行場を提供し、米軍のアジア戦略になくてはならない拠点となった。が、その後米軍の占領下が長く続き、現在の沖縄問題のきっかけとなっている。重要な米軍が沖縄に駐留しており、嘉手納は依然としてアジア最大の米空軍基地である。
故郷に戻った海兵隊の兵士たちの大半は、周囲の人間がほとんどシュガーローフの戦闘を知らないのに気付いた。大統領の死去、ドイツの降伏、原爆の投下のような大ニュースが続き、様々な事情が重なり、オキナワ、シュガーローフはタラワや硫黄島のような有名な戦場にならなかった。悲しい現実として、帰還した多くの海兵隊員たちを待っていたのは、第29海兵連隊のウィリアム・マンチェスター軍曹のような体験だった。彼はつぶやいた「自分の両親が、攻略した島の名前すら満足に言えなかった」。マンチェスターはのちに有名な小説家になった。
バックナーの正面攻撃の評価
沖縄の3/2を占領した時点で、バックナーには3つの選択肢があった。①本島南部への上陸、②正面突破、③防御し日本軍を「飢えさせる」。③はマッカーサーがフィリピンでしばしば行っていた作戦であるが、バックナーの上官のスプルーアンスや戦域司令官のニミッツには到底受け入れられそうにない案であった。バックナーは正面攻撃を選んだ。島全体を占領する必要がどれだけあったのか?。それは米海軍によくみられる方針である。本島南部には飛行場適地はなく、戦略的価値は疑問だった。また制空権は連合軍側にあり、脅威となる神風も陸上部隊や陸軍航空隊には無力で、艦隊が沖縄海域にぶら下がっている必要性も疑問があった。ジョゼフ・スティルウェルはロイ・ガイガーの後任として6月23日より第10軍の司令官に赴任となったが、海軍に従い、正面攻撃を繰り返すバックナーを強く批判していた。
ニミッツは批判にさらされることのほとんどない名将として知られているが、それでも批判者がいないわけではない。マッカーサーは沖縄の戦いにおいては指揮権はなく、彼の回顧録にもウィロビーのマッカーサー戦記にも沖縄戦の記述はないが、ウィリアム・マンチェスターはその有名な著書「アメリカン・シーザー」の中で彼の沖縄戦についての発言を引用している。
マッカーサーがニミッツとその指揮下にある司令官たちを非難した最大の点は、兵士の命を無意味に犠牲にしたというところにあった。彼らの沖縄戦の指揮は
全くひどいものだ。中部太平洋指令部は日本軍を島から駆逐するだけのために、何千人もの米兵の命を犠牲にした。上陸の3,4日後には、米軍は航空基地を作るのに必要とする地域を確保していた。彼らは部隊を防備配置にし、日本軍の攻撃をかけさせ、防備配置から敵をやっつけるべきだったのだ。その方が作戦としては楽で、兵力の損失も少なくて済むはずだ。 |
ワシントンの統合参謀本部において、硫黄島・沖縄戦を通じて、海軍の発言力低下が続いていた。陸軍はニミッツ提督の司令部が数個の陸軍師団を指揮し、一方マッカーサー将軍が通常わずかとるに足らない海軍部隊しか指揮していないという組織に、常に不満であった。太平洋艦隊は戦域にかかわらずニミッツ提督の指揮下にあると定められていたため、ニミッツは戦域司令官であるばかりでなく、実質太平洋水域の全海軍部隊の司令長官という二役を兼ねていた。そのうえ、陸軍の兵站部は常にニミッツの補給のやり方を無駄が多く、海軍の必要とするところを最優先させていると不満だった。海軍が太平洋地域の兵站業務を握っていたために、中部太平洋での海軍部隊の「高い生活水準」と非難された事態も起こったのではないか?。
マーシャル陸軍参謀総長は統合参謀本部に対し、マッカーサーが太平洋地域のすべての陸軍部隊と陸軍基地を指揮し、一方すべての海軍部隊、基地はニミッツの指揮下に置くことを提案した。キング提督及び幕僚たちはその提案に強く反対したが、とどのつまり陸軍はその望んでいた大半を手中にした。統合参謀本部の司令はマッカーサーを「太平洋陸軍部隊総司令官(CINCAFPAC)」に任じ、ハワイ及び南東太平洋を除くあらゆる陸上部隊に対し権限を持つとした。ニミッツは太平洋艦隊司令長官として、南東太平洋を除くあらゆる海軍部隊を指揮することとされた。第20空軍は依然統合参謀本部のもとに置かれた。
海軍の戦略家たちは依然として中国南岸の陣地の占領を望んでいた。しかし陸軍の参謀たちは、封鎖や爆撃だけだと何年にも長引く可能性があるうえ、中国沿岸部での作戦は必ずしも日本本土進攻より死傷が少なくて済むというものではないと主張した。マッカーサーも同意見であった。キング提督はこの議論に納得しなかった。本土決戦では日本陸軍のほうがはるかに有利であることを指摘した。リーヒ提督は沖縄の部隊の死傷率35%が九州でも同程度出るとみたほうが妥当であろうといった。侵攻軍は76万5000人だから、26万8000人ということになるだろう。
しかし結局は陸軍の本土進攻方針が採択されることになった。5月25日、統合参謀本部はマッカーサーとニミッツに司令した。マッカーサーは九州作戦に主要責任を持つことになり、ニミッツは海軍及び水陸両用作戦運営の責任を負っていた。したがって本土決戦の「ダウンフォール(滅亡)」作戦を練っていたのはマッカーサーの司令部だった。結局日本の降伏で本土決戦は行われなかったが、日本占領司令官はニミッツでなくマッカーサーが任命されることになった。
関連動画
関連項目
- 5
- 0pt