河津興光(かわづ・おきみつ 生没年不詳)とは、筑前国の戦国武将である。河津弘業の子。子に河津隆業、河津隆光がいる。ここでは彼の息子たちについても述べる。
概要
生没年は明らかになっていないが、恐らく1470年~1480年代生まれだと推測される。
西郷300町を領地とし与えられ、 筑前亀山城を居城とする。
1511年、父と共に大内義興に従い船岡山合戦に参加したが、戦いの最中に敵に討たれそうになり、重傷を負い沼に転落してしまう。
動けないまま死を覚悟した時、1匹の大ナマズにより助けられて味方まで帰陣できたという。
これ以降ナマズを大森宮に祀り、命の恩であるナマズを食すことを領内で禁じた。
長男・隆業
河津隆業(かわづ・たかなり ? ~ 1553)とは、筑前国の戦国武将である。河津興光の長男。弟に河津隆光。子に河津隆家、景轍玄蘇がいる。
大内義隆により偏諱を賜る。
本拠地・西郷を中心として糟屋郡や鞍手郡の郡代などの役職を利用しながら基盤を固めた。
1532年には大友義鑑の家臣・宗像氏延に居城・亀山城を攻撃されるが、これよく防ぎ氏延を討ち取って撃退した。
大寧寺の変で主君・義隆や弟・隆光が自害した数年後に家督を子・隆家に譲った。
次男・隆光
河津隆光(かわづ・たかみつ ? ~ 1551)とは、筑前国の戦国武将である。河津興光の次男。兄に河津隆業。
1551年、陶晴賢が謀叛を起こすと大内義隆に従い大寧寺に入りこれを護る。しかし衆寡敵せず義隆と共に自害した。
関連項目
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