治承・寿永の乱とは、1180年から1185年まで続いた日本史の内乱であり、要するに源平合戦のことである。
ここまでのあらすじ
平家勢力の興隆
平治の乱で勝利をおさめた平清盛勢力は、保元の乱で武力を失った摂関家、平治の乱で壊滅的大打撃を受けた他の院近臣、とすっかり空白になってしまった朝廷内に新興勢力として地位を固めることになった。平清盛を、平治の乱以前から後白河上皇と二条天皇勢力間の対立をうまく立ち回っていたこと、また婚姻関係を通して摂関家の近衛基実と結びついたことなどが後押しし、二条天皇亡き後これまた平清盛と姻戚関係を結んだ高倉天皇の即位で、若い天皇と摂関を平清盛が支える政権が誕生したのであった。
…つまり旧来勢力・守旧派や朝廷の長老格にとっては非常に苦々しい状態になったのである。
鹿ケ谷の陰謀
ここで一つ問題が起きる。今まで平家と後白河上皇を結び付けていた皇后の平滋子・建春門院が亡くなってしまったのである。そのため後白河上皇は、ただでさえ旧来の院近臣といった不満分子の核として機能しだしていたところに、ブレーキ役がいなくなってしまったのである。
このタイミングでちょうど起きたのが、院近臣西光の息子・藤原師高の配流をめぐる延暦寺の強訴である。後白河上皇としては自分の側近を守らなくてはいけない。そこで平家に命じてこれを鎮圧させようとしたところ…なぜか逆に西光、藤原成親といった院近臣勢力が平家に誅殺されてしまったぜ!
この原因といわれるのがいわゆる1177年6月の鹿ケ谷の陰謀である。つまり平家勢力を排除しようとしたことを、味方だったはずの多田行綱に密告されて平家の逆襲を受けてしまった、というものである。
が、そもそもこの「鹿ケ谷の陰謀」自体は本当かどうかわからない。当時の記録によると後白河上皇の周囲で何らかの謀議が行われていたのは事実のようだが、平家勢力の討伐が現実的だったとも思われないのである。そのためあくまでも平清盛のみを狙っていた説、平家のでっち上げだよ説など様々に今もなお議論されている。
まあ要するに代表的な後白河上皇の側近がみんなまとめて始末されちゃったわけである。
治承三年の政変
こうして平清盛、後白河上皇の対立は、西光、藤原成親といった側近の首切りで済んだ…と思っていたところに、高倉天皇と平徳子の間に第1子誕生である。平清盛は、彼を皇太子として立太子させ平家勢力で周囲を固め、この後の安徳天皇の周囲から旧来勢力は排除されたのである。
この流れで一つ事件が起きる。夫・近衛基実の死後摂関家領を引き継いでいた平盛子、院近臣勢力に接近し小松家というべき独自の存在となっていた平重盛が相次いで亡くなり、後白河上皇に彼らの所領は取り上げられ、摂関も反平家勢力であった松殿基房の息子・松殿師家が盛子と基実の息子・近衛基通を差し置いて就任したのである。
この結果、平家の逆襲が起こる。1179年11月、平清盛が上洛し後白河上皇を幽閉、数十人にもわたる院近臣や反平家公卿を解任したのである。
こうして平家の独裁ともいうべき状態が起き、朝廷は平清盛に掌握されることになった…はずであった。
治承・寿永の乱の勃発
以仁王の挙兵
一つ問題が起きる。旧二条天皇派を吸収した第三勢力、後白河院の妹・八条院の存在である。彼女のもとには親王宣下もされずほったらかしにされていた以仁王や源頼政をはじめとした武力などが結集していたのである。この状況下で1180年2月、平清盛は安徳天皇の即位を実現する。もちろん以仁王はそれに不満だった。
この結果起きたのが1180年5月の以仁王の挙兵である。当初は鎮圧する側にいた源頼政もこれに参加し、八条院本人は関わっていなかったものの八条院勢力の軍事貴族たちが多数これに加わったのである。
しかし、当初予定されていた山門、南都の協力がちぐはぐなものになってしまい、乱自体はあっけなく鎮圧される。中央情勢の中ではこれですべてが終わるはずだった…。
源頼朝の挙兵
さてここまで見てきたように、都では数多くの政変が起き、多くの勢力交代の末に平家勢力が全国を掌握したのである。そこで問題となるのが、地方でそれまでの受領の下で在庁官人として活動していた軍事貴族や武士が、受領が親平家勢力の人物に交代することと合わせて、それまでと異なる親平家勢力に交代したのである。つまり急激な平家政権の誕生が、言ってみれば地元の顔聞き役たちの対立をあおったのである。
このタイミングでちょうど源頼政の敗死によって、彼の一族を誅殺すべく捜索が始まった。これに危機感を覚えたのは三善康信である。彼は自分の乳母子である源頼朝に危機を知らせ、奥州に逃げることを勧める。しかし源頼朝は逆に北条氏や三浦氏などと連携して伊豆で8月17日に挙兵。伊豆国目代の山木兼隆を襲撃して殺害する。
と、ここまではよかったのだが石橋山の戦いで敗北し、安房に逃亡することとなる。しかし、房総半島で上総広常、千葉常胤といった坂東平氏が味方し、さらに当初は平家方として徴兵されていた秩父平氏の畠山重忠なども味方に付く。こうして10月までには南関東を制圧し、鎌倉入りするのである。
富士川の戦い
一方、挙兵したのは源頼朝だけではなかった。信濃で挙兵した源義仲(木曽義仲)、甲斐で挙兵した武田信義、全国に以仁王の令旨をばらまいたとされる新宮行家など、東国で清和源氏の挙兵が相次いだのである。
特に武田信義は南下して東海道へ進出し平家方の現地軍を撃破。こうして東国にいたはずの平家家人がほとんど壊滅したことから、乱の鎮圧に向かっていた平維盛、藤原忠清は撤退を決意する。しかしそこを襲撃され平家本隊が壊滅的な敗北をしてしまうのである。これが水鳥の羽音でおなじみの富士川の戦いであった…
こうして武田信義、安田義定による東海道制圧、および源頼朝の協力が始まる。さらに平家本隊の敗北は石河源氏・源義基・源義兼父子、近江源氏・山本義経などの畿内軍事貴族や西国の河野通信、菊池隆直といった反平家側在庁官人の反乱を招き、乱の全国拡大が起きてしまったのであった。
平家軍事政権の誕生と清盛の死
しかし、平家もこれには負けてはいられない。南都焼き討ちなどうっかりミスもあったものの、瞬く間に西国を再制圧し、尾張まで回復するのである。この間源頼朝の兄弟であった源希義、義円らが敗死している。
さらに平家は1180年6月に実行した福原遷都をあきらめ京都へ戻る。この後、源氏対策のための軍事態勢を畿内に構築し、このままいけばまだ勝ち目はあったかもしれない…
しかし1181年閏2月、巨星平清盛が亡くなる。あとに残されたのはまだ若い安徳天皇、近衛基通、平宗盛といった存在であった。
源頼朝の関東経営
一方源頼朝は、上総広常らの反対によって京都への進出を断念し坂東経営にいそしむ。頼朝はこの後にかけて、周囲にいた敵対勢力である、志田義広、新田義重、佐竹隆義・佐竹秀義父子や足利忠綱(清和源氏ではなく秀郷流藤原氏の方である)を排除・屈服させることに尽力している。
このいわゆる反源頼朝同盟ともいうべき人々は、1180年11月の金砂城の戦い、1182年の足利俊綱との戦い、1183年2月の野木宮合戦、さらに同年3月頃の源義仲との和平などで順次壊滅し、さらにその関係で下野の最大勢力の片割れだった小山氏ら北関東の諸勢力が味方に付くなど、頼朝の坂東経営は順調に軌道に乗っていったのである。
こうして治承・寿永の乱は第二幕に移るのである。
平家勢力の敗北
養和の大飢饉と源義仲の京都進出
1181年から1182年にかけて養和の飢饉と呼ばれている大飢饉が発生した。困ったのが絶賛内乱中の京都である。各地を源氏に蚕食されて輸送網がマヒし、また長期にわたる軍事態勢の構築が恒常的な軍需物資の確保という問題を引き起こした。
そして一つ問題が起こる。1181年6月の横田河原の戦いで城助職を破り、信濃から越後を席巻し、以仁王の皇子である北陸宮を推戴した源義仲の存在である。彼は越前若狭などで挙兵した北陸の在地勢力と結ぶこととなり、食料供給所であった北陸と京都への交易網のかなめであった若狭の奪取は平家方の最上課題となったのだ。
対源義仲として、平維盛・平通盛率いる平家軍が、飢饉が小康状態にある1183年に討伐に向かう。しかし結果は越中の倶利伽羅峠の戦いと志保山の戦い、加賀の般若野の戦いと篠原の戦いでの敗北であり、その結果平家は前線指揮官クラスを多く失うことになった。
その勢いに乗って源義仲は各地の軍事貴族・および山門勢力と協力して上洛、1183年7月の平家の都落ちが生じたのである。
源頼朝と源義仲の争い
こうして都に進出した源義仲であったが、安徳天皇不在の中新たな天皇に傍流である北陸宮を置こうとするなど、中央での政治経験不足や全国統治のノウハウのなさが足を引っ張る形となってしまった。また西国を平家が、東海道・東山道を源頼朝派が抑えている状況で、依然として食料が京都に入ってこない状況は変わっていなかったのである。
時勢を見た結果、1183年10月に後白河法皇は寿永二年十月宣旨で源頼朝に接近する。さらに1183年閏10月の水島の戦い、11月の室山の戦いで源義仲勢力は平家に相次いで敗北。結果として、軍事的優位性も徐々に失っていった。こうして源義仲は追い詰められていく。
源義仲はこの流れを巻き返すために、法住寺合戦で後白河法皇を襲撃。松殿師家を摂政とする傀儡政権を樹立し、1184年に征東大将軍に就任する。
こうしてついに、源頼朝は源義仲の排除へと向かう。源範頼、源義経と二人の弟に率いられた軍が京都を襲撃、1184年1月の宇治川の戦いである。ここに畿内軍事貴族の多くが義仲から離反し頼朝側についたこともあり、源義仲は敗死し、源頼朝方が京都を掌握したのである。
なおこの結果義仲の息子である源義高の誅殺と甲斐・信濃の制圧が行われ、さらに北陸道も惣追捕使の侵攻が行われ源頼朝勢力によって支配されていった。
その結果、朝廷も源頼朝を官軍とみなし、以下の人事が行われた。
平家の滅亡
一方この間平家は黙ってみていたわけではなかった。当初本拠にしようとしていた大宰府を緒方惟栄に追われたものの、屋島に本拠地を置き瞬く間に中国地方を回復する。こうしてかつての本拠地であった福原近くまで回復したのである。
そこで源頼朝方では平家との和睦も視野に入れられ始めたのだが、それを認めないのは後白河法皇だった。1184年2月の一の谷の戦いで多田行綱など現地の軍事貴族の協力もあり、源氏は勝利、平家は軍事指揮官クラスの多くを失い一気に劣勢に立つ。
ついに西国に進出した源範頼軍による中国地方の再制圧が行われる一方、源義経は三日平氏の乱を鎮圧し京都の治安維持を行う。またどさくさ紛れに東国では武田信義の息子の一条忠頼が謀殺され、甲斐源氏の屈伏が起きた。
しかし源範頼率いる源頼朝軍は瀬戸内海を掌握する平家方の制圧に意外と手間取ることとなる。この状況を見た源義経は独自の判断による電撃作戦で一気に四国にわたり1185年2月の屋島の戦いで、平家を本拠地から追い払うことに成功するのである。1185年3月の壇ノ浦の戦いはもはや掃討戦に過ぎなかった…
こうして驕る平家は久しからず、6年にわたる内乱を経て平家は滅亡したのである。鎌倉幕府の成立へと向かっていく。
その後
源頼朝と源義経の対立
しかし、源義経の独断専行は東国武士の間に不満を招き、また安徳天皇と平時子の生還や三種の神器の宝剣の奪回に失敗するなど、源頼朝自身の構想を揺るがしたことから頼朝本人との間にも少しづつ亀裂を招いていった。
ただし、従来言われている1184年の彼の検非違使任官に関しては、源頼朝自身も祝いの使者を送っておいる。他にも終戦後の無断任官した武士たちに関しても従来の軍事貴族の京武者としての働きを否定したわけでもない。源頼朝と源義経の間に、少なくともこの時点ではまだ対立はほとんど行われていなかったとされる。この後の源義経の鎌倉への帰還から腰越状の差出と頼朝の無視もあくまでも文学的表現にすぎず、源義経の帰京は従来の任務に戻っただけという見解もある。
しかし院御厩司という義経の官職の潜在的な脅威は頼朝の不安をあおり、源義経と京武者の連携を阻止し、惟宗忠久(島津忠久)や大内惟義といった人々による新しい在京軍事態勢が構築され始めていった。
しかし、義経は任じられた伊予には行かずに検非違使のまま後白河のもとにとどめられ、また婚姻関係を通して平時忠らが接近し、次第に旧平家勢力の不満分子が集まり始めていた…
義経の挙兵と没落
1185年10月、後白河の側近であった、頼朝や義経の叔父・新宮行家が挙兵し、源義経もこれに続き後白河院から宣旨を手に入れた。しかしすでに畿内は旧来の軍事貴族である京武者たちが解体されていき、御家人として源頼朝の支配体制が構築された後であり、時忠一門や源有綱といった例外を除き、これに味方するものはほとんどいなかった。
源義経たちは西国に逃れようとするが暴風雨によって失敗、義経の流浪の旅路が始まる。一方で源頼朝は北条時政を上京させ、それまでの源義経の役目に代え、後白河院に対しては穏便な措置にとどめた。
やがて源義経は平泉にたどり着き、かつての庇護者であった奥州藤原氏を頼る。ここからの展開はご存知の方も多いだろう。藤原秀衡が存命中は庇護されていた源義経であったが、秀衡の死去後、源頼朝からの朝廷を通した圧力や、秀衡の息子藤原国衡、藤原泰衡の対立との連動もあり、1189年閏4月、藤原泰衡によって源義経は討ち取られたのである。彼と命運を共にしたのは武蔵坊弁慶をはじめとした20余人の郎党と、正室の河越重頼娘、この夫婦の娘であった。
奥州合戦と鎌倉幕府の成立
しかしこれで戦いは終わらなかった。藤原泰衡の源義経誅殺は朝廷の任を全うしたとはいえ鎌倉側の出方でどう転ぶかわからなかったのである。実際に朝廷は頼朝に奥州を攻めるのをやめるよう再三指示を送っているのだ。しかし1189年7月、内乱の総仕上げである奥州合戦が始まったのであった。
軍勢は以下のとおりである。
途中これに宇都宮、佐竹といった諸勢力が合流しながら、源頼朝による三方向からの攻撃が行われたのである。
一方、奥州軍も阿武隈川を藤原国衡が先鋒として防御ラインを築き、さらに刈田に防御拠点を、名取・広瀬の両河を利用して藤原泰衡自身は国分原、鞭楯に本陣を構えた。
しかし鎌倉側の圧倒的勝利により鎌倉軍は多賀国府入りを達成し、8月22日には平泉も陥落。泰衡は逃亡するが、部下の裏切りによって殺され、9月には奥州藤原氏は滅亡したのである。最後に大河兼任の乱によって旧奥州勢力の抵抗が行われたがこれも翌年3月に鎮圧、こうしていよいよ全国が平定されたのである。
鎌倉幕府へ
1190年には源頼朝は上洛し、右近衛大将として朝廷における武門の最高の官職に任じられた。頼朝は九条家をはじめとした親鎌倉派公卿と協力しながら鎌倉幕府の全国統治の機構を整備し、暫定的な措置に過ぎなかった国地頭が守護として正式に全国に置かれたのである。
1192年の後白河法皇の没後、頼朝は一つの献策をする。それは自分を何らかの大将軍に任じてほしいというものである。朝廷はこれについて合議し、源義仲が任じられた征東大将軍などを退け、征夷大将軍に任じられたのであった。これによって名実ともに鎌倉幕府が成立し、時代は鎌倉時代へと移っていく…
この後粛清劇と内ゲバの連続による大波乱が続くなんて言っちゃだめだぞ。
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