泉守紀(いずみ・しゅき 1898年2月11日~1984年10月21日)は日本の官僚・政治家である。
概要
第21代沖縄県知事(1943年7月1日~1945年1月12日)、第33代香川県知事(1945年1月12日~1945年4月21日)、いずれも官選知事。
沖縄県知事時代
太平洋戦争/大東亜戦争のさなかに就任した泉知事は、沖縄の文化は遅れていると公言するような人物であった。
1944年7月7日にサイパンが陥落すると南西諸島での戦闘が確実となってきた。政府は緊急閣議を開き、南西諸島の老幼婦女子10万人の疎開を決定し泉守紀沖縄県知事へ命令したが、泉知事は「沖縄を戦火に巻き込まないのが軍の使命である」「耕地がない北部に避難させる事は、戦闘が始まる前に県民が飢餓状態に陥る恐れがある」と理由を付けて消極的だったため、結果的に沖縄戦での県民の犠牲を増やしたと言われる。
1945年10月10日に米軍が南西諸島各地を空襲、10・10空襲である。県庁がある那覇市は特に攻撃が激しかった。そんな中で泉知事は職員達を差し置いて自分だけさっさと防空壕へ隠れ、空襲の後しばらくは那覇を離れたという。
在任中は出張が多く約1年半のうち175日を県外で過ごし、1945年1月には東京出張中に香川県知事に転任しそのまま香川県へ赴任することで沖縄県へ戻ってこなかった。沖縄が戦場になるのを予期し内務省に根回しして沖縄から逃亡したと噂された。
沖縄県民を守りながら散った後任・島田叡沖縄県知事や荒井退造沖縄県警察部長との比較もあり、戦場となる沖縄県から敵前逃亡した卑怯で臆病な知事として今でも沖縄県政史上最も評判が悪い知事の一人である。
本当に無能で卑怯者だったか?
以上のような評価が定着しているが、軍との確執を中心に擁護すべき点があるとも言われつつある。
泉知事は、上は軍政気取りで我が物顔で振る舞い下は規律が乱れていた沖縄の軍に強い不信感を持っていた。軍の沖縄差別観もひどかった(大田實中将のような例外はいたが)。
血気盛んな兵士が沖縄の未亡人や若い娘とトラブルを起こしたり遊郭で事件を起こす問題が連日続いたため、軍幹部がこれを解決するため沖縄県内に慰安所を設置したいと申し入れた。ところが泉知事は「ここは満州や南方ではない。いやしくも皇土の一部である。皇土の中に、そのような施設をつくることはできない。県はこの件については協力できかねる。」と拒否。戦中の当時としては軍の要請を官僚風情が却下するなど異例で勇気の要ることであった。
当然ながら泉知事と軍の溝は深くなる一方だった。
こうしたことが重なり軍は泉知事を在任中から公然と批難、というより中傷する広報をし続けた。
軍は戒厳令を発令して泉知事を無力化する計画まで立てたとされるが、その前に香川県転任があり実行されることはなかった。泉知事が沖縄県知事職から逃げ出したと言うよりも軍に沖縄から追い出されたと言えるのかもしれない。
県民の疎開が遅れたため沖縄戦での犠牲が増えたという意見も、民間人を守る意識が希薄だった軍の落ち度を泉知事へ転嫁する側面があることは見逃せない。
疎開に対する泉知事の危惧も実はだいたい的中しており、沖縄戦で沖縄本島北部では食糧が不足し餓死者や奪い合いによる死者も出た。
泉知事はそれまでの知事と違って沖縄の文化歴史を学ぶ姿勢があったとも言われていて、前述した泉知事が沖縄蔑視発言を繰り返していたという話も何らかの脚色があると疑っていいのかもしれない。
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