津田恒実とは、広島東洋カープに所属していた元プロ野球選手である。現役最終年の背番号は14。
概要
ルーキーイヤーから2桁勝利をマークし新人王に輝くものの、翌年以降はルーズショルダーに悩まされ不調。
プロ入り4年目に名前を恒美から恒実に改名し(ついでに背番号も15から14になる)、翌年には抑え投手として復活、カムバック賞を獲得する。
1986年9月24日の対巨人戦で津田と対戦した原辰徳はストレートをファウルした際に左手の有鉤骨を骨折し、残りシーズン全て欠場した。この骨折により原はグリップを深く握ることができなくなり、バッティングフォームそのものを変えなければならないほどで、引退までこの骨折時に記録していた36本の本塁打を超えるシーズンはなかった。しかし原は「あの時の津田との勝負に悔いはない」「僕は彼だから(当時手首を痛めていたが)フルスイングをしたと思う。」と、当時から現在に至るまで繰り返し語っている。
7年目の1988年はリリーフ失敗を繰り返し、2007年の永川的ポジションに置かれてしまう。
しかし、1989年には最優秀救援投手に輝き、見事に復活を遂げ炎のストッパーと呼ばれた。このとき野球板があれば土下座スレが乱立していたことであろう。
1990年シーズン終了後から頭痛をはじめとする体の変調が現れ始め、翌年もそれが続く。
4月15日に悪性の脳腫瘍があることが判明。この年限りで引退する事となる。
この前日の読売ジャイアンツ戦での登板が生涯最後の登板になるなどと誰が予測し得ただろうか(ちなみに、最後の打者は原辰徳)。
なお、球団側は引退の理由について、本当の病名を伏せて発表していた。
津田の病を知ったチームメイトは奮起し、見事カープをリーグ優勝に導いた。
この年の投手部門をカープの選手が総なめにしていることからも津田に対する想いを伺う事が出来る。
そして1993年7月20日に永眠。このとき32歳であった。
そして、この日はオールスターゲーム第一戦が開催されていて、津田が亡くなった時は試合中だった。
津田の死は試合途中に速報で伝えられた。
広島市民球場には彼の功績をたたえるためのプレート(通称・津田プレート)が設置されている。
プレートは新広島市民球場にも移設され、石原慶幸、倉義和、永川勝浩の3人が取り付けを行った。
座右の銘は「弱気は最大の敵」。
2012年1月13日、元広島の北別府学らと共に野球殿堂入り。
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