洪思翊単語

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ホンサイク
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洪思翊

(ホン・サイク/こう・しよく 1889年3月4日1946年9月26日)とは、南陽洪氏を本貫とする大日本帝国陸軍の軍人であり、もっと評価されるべき朝鮮人の1人である。

最終階級は陸軍中将であり、これは李氏朝鮮1392年~1910年)出身の軍人としては大韓帝国皇太子の英王(徳宮 王垠 イ・ウン/り・ぎん 1897年10月20日1970年5月1日陸軍中将と並ぶ最高位である。

体格は長身で顔立ちは温和で品の良く、実際の人柄も非常に温和で魅的であったと言われている。

人柄を表すエピソードとしては、洪少将(着任時の階級)が南方方面軍総兵站監部総監に着任した時に兵站監部に所属していた一男氏の言がある。(長いので編集をしているが概ね下記の様な言である)

本部前に整列して洪少将を出迎ると、静かに降り立った将軍ひとりひとりの顔を覗き込むようにしながら労いの言葉を掛けたと言う。その表情は微笑をたたえて人懐っこそうな眼をしており、出で立ちは上半身は将官その物ながら下半身には上等兵の様に巻脚をつけて地下足袋を履いていたという。

この出迎えの後、当時55~56歳の将軍自動車で行けるところまで行くと工兵が切り開いた山を徒歩でバンバン(日本軍の飛行場があった)に向かったと言われている。

この端正で穏やかな老紳士が上兵站監であることを心から喜んだ。

また、日本語の発音はが聞いても韓国人とわかるほど極めて韓国式であり、それを理に日本式にする事もなく堂々と韓国日本語を駆使していたという。

概要

生まれ

1889年(明治22年)に李氏朝鮮にて両班李氏朝鮮の身分階級で最上位、貴族に相当する)のに生まれる。ただし両班と言っても名ばかりの貧しい貧農ので、三度食事を二度にして、さらににする幼少期を過ごしたという。

中枢院参議を務めた鄭日本名:大韓帝国から日本統治時代の官僚)と姻戚関係とされている。

14歳結婚(当時の風習で実際に夫婦らしい生活をしたのは14年後)、16歳になると出世のを探して漢城府(李氏朝鮮首都現在ソウル)に上京する。

大韓帝国武官学校から陸軍中央幼年学校、そして陸軍士官学校へ

1908年(明治41年)に大韓帝国陸軍武官学校入学するとそのを認められる。

翌年の1909年(明治42年)に日本大韓帝国陸軍武官学校止すると同年9月日本陸軍中央幼年学校予科3年に編入することになる。

この編入過程で俊(日本名:香山武俊、日本陸軍大佐大韓民国陸軍中将)、日本名:金山日本陸軍大佐大韓民国陸軍少将)と一緒に費留学生に選ばれる。 これは皇族である英王(徳宮王垠、大韓帝国皇太子日本の王族)が日本陸軍中央幼年学校に留学に出る際の留学仲間に選ばれたことによる。

1912年(明治45年)5月日本陸軍中央幼年学校予科を首席で卒業すると1912年(大正元年)12月には陸軍士官学校入学

1914年(大正3年)5月28日陸軍士官学校を第26期卒業、見習士官(曹長)を経て同年12月少尉に任官した。

陸軍士官学校を第26期で卒業した朝鮮人は13人いたが、その中には独立運動の池大韓民国軍の将官(准将以上)になる俊、、安秉範、申泰英、埈元、がいた。 ちなみに日本人では栗林大将宮崎繁三郎中将千田貞季中将等がいる。

日韓併合の際、陸軍士官学校に在籍していた朝鮮人学生の中には上記の池の様に抗日独立運動に身を当じる者も少なくなかった。しかし「今決起しても朝鮮独立は果たせないので実を養うべきだ」と考えていた洪思翊は学校に残って卒業し、大日本帝国陸軍の軍人となるを選んでいる。

陸軍のエリートコース

陸軍士官学校卒業成績が非常に優れていた洪少尉は、上級将校に出世できるエリートコースである通称“赤坂の歩一”の東京第1師団第1連隊に配属されると1918年(大正7年)7月には陸軍中尉になる。

1920年(大正9年)12月日本陸軍エリート養成コースである日本陸軍大学入学、1923年(大正12年)に第35期として卒業した。

中尉と同じく日本陸軍士官学校を第26期で卒業した同期生742人の中で陸軍大学卒業した人は僅か66人に過ぎず、また日本陸軍大学入学した朝鮮人は英王(徳宮王垠)、山虔一()、グウ(ケングウ、広島で被爆して翌日に死去)、洪思翊の四人だけである。 この4人のうち3人は氏王族であるため、一般市民出身は洪思翊ただ一人である。

グウ : グウは(禺)、ケンは(山見)と書く。

陸軍大学受験するには師団からの推薦が必要であり、一師団からの推薦は3~4名であった。(編成により異なるが例として第41師団は20000名程度)また、受験者は官報に実名が報道される(受験するだけで非常に名誉)。

これは今年の第~師団からは受験者が1人も居ない、今年の第~師団からは~名も受験したのに1人も合格者が居ない~と言った事が報道によって知られてしまう状態である。

合格者が出ない事は師団にとって非常に不名誉な事態であり、推薦される軍人は師団の中でも特に実の優れた者でなければならなかった。この陸大受験に際するエピソードとして「閑職につけての受験勉強」がある。推薦した軍人をどこかしらの名ばかり閑職に異動させて、参謀なりの実者が付きっきりで詰め込み勉強をさせるものである。

中尉の場合、実態がどうだったかは不明だが受験前の1919年(大正8年)6月3日歩兵第1師団第1連隊から陸軍人事局付となり、12月7日に陸大入学すると12月15日には陸軍人事局付を免じられている。(書籍には1919年とあるが1920年の間違いか?)

王族と言う特別待遇ではない洪中尉が第1師団第1連隊から推薦された事から実はかなりの物があったと推測される。四書五経を全て暗誦でき、英語も堪相撲も強かったと言われている。

日本陸軍軍人として

1924年(大正13年)3月陸軍大尉に昇進して歩兵第1連隊中隊長を務める。

1925年(大正14年)5月陸軍参謀本部に配属され軍事史編纂に関する業務を担当。

1929年昭和4年)、陸軍少佐に昇進して歩兵第3連隊大隊長になる。

1931年昭和6年8月陸軍歩兵学校の教官になる。

1933年昭和8年4月関東部に配属、満州国軍顧問として派遣されて奉中央陸軍訓練処を導、監督する。 特に満州国軍顧問にいる間、満州に移住した朝鮮人青年たちの満州国軍将校参入を制度化した。 中央陸軍訓練処の入学資格が日系、モンゴル系、満州系と制限された規定を一部修正し、満州国軍の朝鮮人現役兵が将校になるための門戸を開放した。 さらに翌年、軍の入学朝鮮系を含めて募集告を出すように措置した。

1934年昭和9年8月陸軍中佐に昇進、関東部参謀部に配属。

1936年昭和11年8月日本陸軍歩兵学校の教官に転勤。

1937年昭和12年)、日中戦争が勃発すると11月には陸軍歩兵学校育成所長を兼任。

1937年昭和12年12月、中支那派遣軍部への配属を受けて中国戦線に派遣される。 同関東軍勤務時代の功績を認められ満州国が与える勲三位章(日章に相当)を授与。

1938年昭和13年2月、中支那派遣軍特務部員として上海派遣

1938年昭和13年3月陸軍大佐に昇進すると亜院捜官として上海中連絡部で勤務。

1940年8月、流留守)第1師団部に配属。

1941(昭和16年)年3月陸軍少将に昇進すると中国河北省に駐留した歩兵108団長に就任。華北一帯の八路軍を相手に戦う。 この八路軍には尹世が率いる朝鮮民族革命下の朝鮮義勇華北支隊が抗日闘争を展開していた。

1942年昭和17年4月から1944年昭和19年3月まで日本軍戦車隊、軽装甲車の操縦や射撃訓練を担当する日本陸軍学校幹事(副校長)として勤務。

1944年昭和19年3月フィリピンに駐屯した南方方面軍軍総部の兵站監部総監に任命され、約10ヶ連合軍捕虜収容所所長を兼任しながら、連合軍捕虜を監視した。

1944年昭和19年10月陸軍中将に昇進。

1944年昭和19年12月兵站監であった下野一霍 陸軍中将は内地への転属となり、後任となる洪中将に関して専属副官であった斎藤定一中尉に「あの人は実に立な人だから、朝鮮人などと軽視してはならぬ」と言った。

終戦

1945年昭和20年8月15日日本ポツダム宣言を受諾して太平洋戦争終戦を迎える。フィリピン駐屯軍はルソンの山岳地帯で遊撃戦を繰り広げていた。

1945年昭和20年8月16日、夕方に軍部に呼び出されて「無条件」を知った洪中将が更けてから自分の小屋戻ってきたとされている。防壕の掘りをしている斎藤中尉やビラを撒く米軍機を眺めながら何か懐古にふけっているかの様だった洪中将独り言のように、またりかけるかの様に、ふといった言葉を専属副官の斎藤定一中尉記憶していた。

戦争が終わってわしも故郷に帰ることになるだろうが、何をするかなあ。そうだ数学先生をやるか。小学校先生でもいいが、中将にまでなったんだから、小学校ではちょっとかわいそうかな。中学校先生がちょうどいいかな・・・・・・」

これは斎藤定一中尉が知る「どんなに困難で苦しい状況下に置かれても静かにして胆、民族の差に卑屈になることなく堂々と振る舞い、それでいてにでも温かい言葉をかけ、温和で部下の家族関係をしっかりと記憶して細かい配慮を忘れない」、良い意味で素晴らしい的な武人としての「大日本帝国軍人」であった洪思翊とは異なる「素顔」の洪思翊であったと言う。

※一部の参謀(どこか高慢さがある秀才肌の参謀)は「とっつきにくい印」を持ったとされている。これは偏見としての「朝鮮人」からあまりにもかけ離れていた事が原因とされている。

調印後、捕虜となった洪思翊はフィリピンの捕虜収容所所長を兼任していた事から連合軍捕虜の不法処遇や捕虜虐待及び殺の原因提供疑惑により「捕虜虐待罪」のB級戦犯として起訴され、マニラ軍事法廷の裁判によって1946年4月18日に絞首刑の死刑判決をうけた。

この頃、大韓民国では大日本帝国陸軍士官学校の同世代の人達を中心とした「洪思翊救命運動」をはじめとして、各メディアでも救命運動を行ったが為に終わり、「量刑が過剰であること」といった幾つかの極右大韓民国としての極右)の世論があった。

しかし、その努しく1946年9月26日フィリピンのマニラ戦犯収容所で死刑執行されて絞首刑に処された。

死刑判決後、洪思翊は、

「絞首合格だったよ」

と絞首と甲種をかけた一言を残し、処刑台の露と消えた。

辞世の句

「昔より冤死せしものあまたあり われもまたこれに加わらんのみ」
「くよくよと思ってみても愚痴となり 敗戦罪とあきらむがよし」

洪思翊の軍人観

大韓帝国軍人勅諭

洪思翊は高宗皇帝が下賜した大韓帝国の軍人勅諭を生涯身に着けていたと言われている。

この大韓帝国の軍人勅諭は日本の物よりも簡潔だが五箇(「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」)の他に第六条として「軍人は言葉を慎むべし」がある。

軍人としての忠誠

フィリピン山中行動を共にして終戦を迎えた通信隊の佐藤氏の言によると、

『これで韓国独立する、洪中将も帰されて、活躍されることでしょう』といった意味合いのお祝いの言葉を述べたと言う。これに対して洪中将は威儀を正した上で

自分はまだ制服を着ている、この制服を着ている限り、私はこの制服に忠でありたい。従って、これを着ている限り、そういうことは一切考えていない。

と述べたとされている。

また別の言としては洪中将と同じ陸軍士官学校26期卒業の井崎氏が昭和18年にマニラで洪少将に会ったとき、

井崎君、これはもういかんな、はね、朝鮮の故郷に帰り静かに暮したいな、の故郷は静かで実によい所なんだよ

と述べたとされている。こちらは同期故か、それとも私服で面会したのかと状況は不明だが「軍人」洪思翊ではい顔を見せている。

洪思翊の朝鮮人観

日本人と朝鮮人

中将大尉(1924年~1929年)の頃、息子の洪善(年齢は不明だが少年時代とされている)が朝鮮人だとからかわれた事を「なぜ自分たちはこういう扱いを受けるのか、これはどうにかならないものか」とに訴えると

「これは大変に困った問題、むずかしい問題、また早急に解決できるとは思えぬ問題である。

自分はこのことについて大分調べたが、アイルランド人とイギリス人の間に、非常によく似た問題がある。 それゆえアイルランド人の行き方がわれわれの参考になるであろう。 アイルランド人はイギリスで、どのような扱いをうけても、決してアイルランド人であることを隠さない。

そして名乗るときは必ずはっきりと「私はアイルランド人のだれだれです」と言う。

おまえもこの通りにして、どんなときでも必ず「私は朝鮮人の洪善です」とはっきり言い、決してこの「朝鮮人の」を略してはいけない」

と洪善を諭したと言われている。

創氏改名

日本式の戸籍管理方法を導入する創氏と名が朝鮮で実施された際に、洪思翊も日本式への創氏と名を勧められたが、洪思翊は日本式の氏を設けることなく「洪」をそのまま氏として登録、名も名することなく思として登録した。普段から自身は朝鮮人であるとしていた洪思翊にとっては、こうするのが当たり前だったものと思われる。

洪思翊は赴任した際の初訓示で

「自分は「朝鮮人」の洪思翊である。
 今より天皇陛下の御命により揮をとる。
 異義のあるものは申し出よ。」

と毎回っていたとされているが情報ソースめられる。

山本の著書に書かれている内容は次のとおりである。

私(山本)が少々遠慮に「軍人として朝鮮人であることが障害になったことはありませんか、進級その他で差別はありませんでしたか、部下に何か侮蔑的反応を感じたことはありませんか」と言った意味の質問をした。

その一人は「士官学校では表面的にはなかった、部隊では全くなかった」といい、あなたも軍隊経験者ならそれくらいのことはわかるでしょうと言いたげな調子で、「私は朝鮮人であることを隠したことは一度もありません。赴任をすると同時に全部下を集めて堂々と言いましたよ。「私は朝鮮人である。天皇陛下の命により今日からこの中隊を預かる」それだけです」と言った。

もっともこれは伝聞だが、以上の言葉についで「それに文句ある者は一歩前に出ろ」と言ったともいう。

山本が四十五期からの韓国系将校に話を聞いた、その一人自身の体験を話したことであり、さらに伝聞として「それに文句~」の句が加わっている。すなわち、初訓示のエピソード息子の洪善にったエピソードと上記のエピソードが混じり生まれたエピソードと言える。(山本の書籍を参考にしていない他の書籍で洪思翊の部下が訓示として聞いたとの言があれば情報提供をお願い致します)

とは言え、息子ったエピソードを含む様々なエピソードからも朝鮮人としての強いアイデンティティーを持っていた事は確認できる。

氏に関する日本と朝鮮の違い

創氏

創氏は、夫婦別姓(本貫を名乗る)が基本だった朝鮮において、日本式の戸籍管理をする為に本貫とは別に氏を設けるというもので、本貫と氏は同じでも問題なかった。(詳細はWikipedia創氏改名exitを参照)

ちなみに、日本明治31年(1898年)までは夫婦別姓を基本としていたが明治民法の成立により夫婦同姓を原則とするようになった。

朝鮮の本貫

洪思翊は南陽洪氏が本貫である。この本貫とは『発祥を同じくする同一系氏族集団』であり、南陽洪氏とは高麗の功臣である洪殷悦を始祖(発祥)としている。

日本の場合は徳川家康を例に挙げると「徳 次郎三郎 家康」となり、「徳」が名字苗字)、「次郎三郎」が通称、「」が氏(姓、本姓とも)、「臣」が姓(かばね)、「家康」が諱(いみな、本名)となる。

これが朝鮮の場合は「洪(南陽洪)」が氏に相当する意味合いを持っており、洪思翊が「南陽洪氏」の「洪思翊」と言うのは日本式で言うならば「清和源氏」の「家康」とするようなものである。

そう言った意味合いでは日本の武が所領の地名を苗字にしたり、庶民が私称していた野菜などの食べ物、土地にちなんだ苗字とは根幹が異なっているし、武の衰退と近代化により家族単位の戸籍管理をする様になった日本苗字に対する感覚とも異なっている。

とは言え、どんなに本貫が大事であれ人間の集まりである。『名誉や誇り、一族』に重きを置く者も居れば『生活や商売にける便利さや有利さ』に重きを置く者も居た事を忘れてはならない。

その他の人柄をあらわすエピソード

洪思翊の長男である洪善が結婚し、善夫人が洪思翊のを訪れた時に彼は新しいを用意して待っていた。「これからは女性も勉強しなければいけない、私も一緒に勉強しよう」と言って善夫人を迎え入れたとの事である。日本以上に封建的であった大韓帝国では峻厳で恐ろしいがあたりまえであり、洪思翊の行動は夫人にとって喜びよりも驚きだったという。

現在の評価

日本

昭和41年1966年)に靖国神社に合されている。

基本的に極めて少ない書籍に記述があるのみで戦史関係の書籍に余程興味を持って読んでいる人でなかれば知る機会はない。

大韓民国

2008年大韓民国市民団体「民族問題研究所」が親日人名辞典に収録するために整理した親日人名辞典収録予定者名簿の軍人部門に洪思翊が含まれていた。その翌年である2009年大韓民国大統領直属の国家機関である「親日民族行為相糾明委員会」が発表した親日民族行為704のリストにも含まれていた。

大日本帝国に忠を尽くし、個人的には素らしく清廉潔な人物』という評価があるが、一方では中国戦線で朝鮮義勇華北支隊がいた八路軍と交戦して独立運動を弾圧したと共に、太平洋戦争末期にはフィリピンの捕虜収容所で連合軍捕虜虐殺を黙認したとして批判されている。

また創氏改名はしなかったが「コウ・シヨク」と日本語読みをしており、その姿勢は一貫していないとの批判もある。(これに関しては根拠が不明である。山本の著書を基にしたであれば著書内には「コー・シホウ」と聞いたり、記憶されており原因は当時たばこであった「鵬」の「鵬」の字が「」の字に似ていたからではないかとの推測されている様に漢字を見た上での読み間違いで誤った名前が広がっていたとの話である。洪中将が「コウ・シヨク」と名乗ったとは記載されていない)

故郷であるの洪氏一族の山には墓石が立っているらしいが遺体く、遺品を埋めた物との事である。

家族

先妻のチョ・スグォンは洪思翊より3歳年上。晩年は中を患い手が不自由であり、洪思翊は自らを持って夫人の口に食べ物を運ぶのが日常であったとの事である。長く病床に患った後の1943年昭和18年)に病死したとされている。

長男の洪善は早稲田大学卒業して朝鮮銀行に就職。時期は不明だが終戦後は朝鮮半島に戻り朝鮮韓国銀行に勤務してとされている。この朝鮮銀行承晩大統領直々の命により職を追われたとの話もあるが詳細は不明である。1984年に故郷であるで亡くなった。

後妻には東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)を卒業した清栄がおり、洪思翊との間には次男のホン・ヒョンソンがいた。時期や善と一緒だったかは不明だが、こちらも終戦後は朝鮮半島に戻っていた。何れにしても承晩大統領の下にあった大韓民国政府は洪の家族が帰する事を喜ばなかったという。

この清栄も朝鮮半島に戻った後は一切の職に就くことが出来なかったとの話もあるが詳細は不明である。

朝鮮戦争が終わると清栄はアメリカに渡ろうとした。理由は不明だが「親日家族」という周囲の圧に耐え切れなかったのが原因とされている。(長男の洪善や清栄の件、朝鮮戦争、当時の朝鮮半島ける社会情勢等、実態がどの様な物であったかは不明である)

しかし費がなく考えあぐねた清栄は日本内閣総理大臣手紙を送る。清栄の手紙を受けた当時の内閣総理大臣である吉田茂は、じっくり考えると秘書を呼んで「100万円を送してあげなさい。」と言ったとされ、清栄と息子は(次男か?)はその資アメリカに渡ることが出来たという。

その後はアメリカロサンゼルスで暮らしていたが1978年交通事故で亡くなったとされている。

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洪思翊

29 つじ
2018/05/02(水) 00:44:42 ID: SRIl7j74bi
な人だなあ。
日本に尽くしながら祖国のことも忘れなかった。韓国もこういう偉人がいたと教えてもいいような人物だと思う。
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30 ななしのよっしん
2018/06/29(金) 16:54:33 ID: pf5/x5SCVs
ふーん
この人は確かにヒトドの人物ってやつだな
まあこんな人ばかりだったらもっとマシなんだが
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31 ななしのよっしん
2018/10/10(水) 21:50:06 ID: 8YZADZgCZU
日本への忠を最後まで持ち続けて、朝鮮人としての誇りも持ち続けた英雄
処刑されるにはあまりにも惜しい存在だった
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32 ななしのよっしん
2018/12/01(土) 17:45:26 ID: VBH1i6xpfP
親日リストに載るのはしょうがないとして、それを理由に批判されるのはどうかと思う人達の一人だよな。独立運動も評されるべきだが、宗自民族のアイデンティをもって働いた人達とか、地位向上や土開拓に努めた人達とかも評されるべきだと思う。
その辺り、南北融和進むにつれ、変に反日を拗らせた時世のかなと思う。
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33 ななしのよっしん
2019/01/07(月) 20:38:37 ID: Tu6rsU1/yX
>>30
こういう上から目線日本人に洪将軍ならどう対応するか見たい
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34 ななしのよっしん
2019/01/12(土) 22:20:08 ID: UOUGhfbY/y
もしこの人が裁判で助命され、後の朝鮮戦争に関わっていたら韓国での評価も違ってたんだろうなと思う
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35 ななしのよっしん
2019/03/03(日) 02:48:03 ID: Y0ZN32DRdr
>>34
将軍の評価と冷遇ぶりを見るに大差ないと思うわ。

昨日韓国中将に関する記事が書かれてた。
その評価は
日本軍に入った以上、朝鮮名を名乗ろうが親日売国奴)の誹りは免れない。
懺悔と謝罪すらなかった許されざる存在。
民族行為を行った戦争犯罪人。
論争せず死刑を受け入れ惨めな最後を迎えた、信念も愛国心もない裏切り者。

ようここまで書けるな、ってレベルボロクソ。同じ情報を観てるのに、日本人の評価と被るところがほぼない。
本当、韓国人(というか半島の人)とは根本的に思想というか、考え方に
著しい乖離があるなとめて思ったわ。
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36 ななしのよっしん
2019/08/17(土) 01:56:31 ID: yN9rIGbBjR
>>35
それに対し、「いわゆる」A旧戦犯東条英機が、
日本軍と敵対する米軍の日系アメリカ部隊に宛てた手紙
「君たちはアメリカ人だから君たちの祖国アメリカに忠義を尽くせ」
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37 ななしのよっしん
2019/11/04(月) 15:53:18 ID: Xc2WEY5RGg
>自分はまだ制服を着ている、この制服を着ている限り、私はこの制服に忠でありたい。従って、これを着ている限り、そういうことは一切考えていない。
かっけえ。
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38 ななしのよっしん
2019/11/20(水) 23:54:58 ID: PCcTdDqXiq
この人今の残りカス半島見たら大泣きしそう
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