洪茶丘単語

コウチャキュウ
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洪茶丘1244~1291)とは、元の武官である。

概要

諱は俊奇。丘は幼いころの字で、モンゴル名チャクゥ漢字をあてたものとされる。

は洪福という高麗人で、中国系の高麗の武将の柄にあったが1231年に元に降し、1233年にはモンゴルに逃走したという人物である。洪茶丘もそんなの跡を継ぎ管領帰附高麗軍民総管となり、元の高麗攻略、および統治に深くかかわったが、の恨みから高麗と折り合いが悪く、事あるごとに衝突したそうだ。

三別抄の乱で鎮圧にあたった他、日本遠征では監督官軍民管として高麗において造の労役を厳しく督促した。そのため1274年の文永の役では右副元帥として都元帥忻都とともに元軍を揮し、今に上陸したのは洪茶丘の軍勢だったといわれている。

文永の役後の征収日本行中書省(征東行省)が設置されると、忻都范文虎とともにその長官に任じられ、弘安の役では再び侵攻に携わった。しかし、志賀戦では大友の攻撃を受けて危うく討ち死に寸前に至るほどの大敗を期した。

二度の日本遠征が失敗に終わった後も、陽等処尚書右まで昇進し、元では重んじられたようだ。

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