概要
諱は俊奇。茶丘は幼いころの字で、モンゴル名チャクゥに漢字をあてたものとされる。
父は洪福源という高麗人で、中国系の高麗の武将の家柄にあったが1231年に元に降伏し、1233年にはモンゴルに逃走したという人物である。洪茶丘もそんな父の跡を継ぎ管領帰附高麗軍民総管となり、元の高麗攻略、および統治に深くかかわったが、父の恨みから高麗と折り合いが悪く、事あるごとに衝突したそうだ。
三別抄の乱で鎮圧にあたった他、日本遠征では監督造船官軍民管として高麗において造船の労役を厳しく督促した。そのため1274年の文永の役では右副元帥として都元帥の忻都とともに元軍を指揮し、今津に上陸したのは洪茶丘の軍勢だったといわれている。
文永の役後の征収日本行中書省(征東行省)が設置されると、忻都、范文虎とともにその長官に任じられ、弘安の役では再び侵攻に携わった。しかし、志賀島の激戦では大友貞親の攻撃を受けて危うく討ち死に寸前に至るほどの大敗を期した。
二度の日本遠征が失敗に終わった後も、遼陽等処尚書右丞まで昇進し、元では重んじられたようだ。
関連項目
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