概要
12世紀末の平安時代末期に法然上人源空によって開かれた浄土教の一つ。ひたすらに南無阿弥陀仏と口に出して称えれば浄土に往生できるという専修念仏の教えを中心とする。
経典は観無量寿経、無量寿経、阿弥陀経(浄土三部経)。後述の鎮西義の総本山は知恩院。
法然の死後、念仏と往生の考え方の違いによって5派(浄土五流)に分派するが、鎮西義と西山義の2派以外は早くに途絶え、鎮西義が浄土宗の主流となっていく。
浄土五流のうち一向義から親鸞によって浄土真宗が生まれた。また一遍の全国を遊行する布教活動から時宗が生まれた。
上記されている通り、「南無阿弥陀仏」と口にすれば、極楽浄土出来るという単純明快さゆえ、鎌倉時代より多くの民衆を引きつけた。
浄土宗が確立するまでの簡単な流れ
法然は元々美作国(岡山県)の豪族の子であったが、9歳で父親を亡くし、出家して13歳で比叡山の門をくぐる。
懸命に修行するも、求めるものは得られず、比叡山をあとにし、いくつもの寺を渡り歩いた末、43歳の時唐の善導大師が書いた『観経疏』という『観無量寿経』の注釈書を読み、「専修念仏」の教えにたどり着く。
この教えを、民衆の中に入って布教し始めると、戦乱と飢饉で荒廃し、末法思想が広がっていた平安末期の世相を背景に、門徒が急増する。
しかし、既存仏教界がこれをよく思わず、比叡山延暦寺では法然の布教を止めさせる反対運動が激化、法相宗大本山・奈良興福寺では専修念仏の禁止を時の朝廷に訴えている。
これは既存仏教=天台・真言・法相・華厳が日夜厳しい修行を繰り返していたのに対し、浄土宗が念仏を唱えるだけで救われるとしたからである。
しかし法然は、人心荒廃の広がる末法の世の現実に照らし、既存仏教の説く高邁な思想、難解な哲理がどれほどの救済力があるか、疑念を深めていた。そして実際に浄土宗はこの時代京都周辺だけでなく、北陸や東海地方という遠くにまで信徒が広がっていった。
そんな法然が開いた浄土宗の所依経典は、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』のいわゆる浄土三部経。その『阿弥陀経』には、西方に極楽浄土があり、そこには美しい鳥がさえずり、七宝で出来た池には五色の蓮の花が咲き、一切の苦の無い世界であると説いている。その極楽のイメージは、少なくとも当時の民衆には、難解な説法を振りまき、眉間に皺を寄せて修行に励む高僧より説得力を持っていた。
法然自身は迫害を受けたあげく、晩年になって弟子の密通疑惑を理由に四国へ流罪になるが、臨終の床で書き残した200字ばかりの「一枚起請文」の最後に、「智者の振る舞いせずして、ただ一向に念仏すべし」としたためている。
浄土宗と浄土真宗の違い
名前も似たような二つの宗派。同じ阿弥陀様を拝み、極楽往生を願う。
- お墓
お墓は普通、板に経文を書いた卒塔婆(そとば)が立っているが、中には卒塔婆の無いお墓がある。それは浄土真宗のお墓である。また戒名のつけ方にも違いがあり、浄土宗では五重相伝を受けた人などには「誉」の字を用いた誉号(よごう)をつける。浄土真宗では男性には「釈(しゃく)」、女性には「釈尼(しゃくに)」を付ける - お経
浄土宗を始め、多くの宗派では『般若心経』が読まれるが、浄土真宗では読まれない。(ちなみに日蓮宗でも読まれない) - 他力を認めるか否か
浄土宗では念仏による他力を重んじつつも、他の自力業を完全否定はしない。祈祷もやるし、御朱印も書くし、神道との習合を否定しない。
用語
- 往生
- 仏の国に往き、生まれ変わること。浄土宗では往生は極楽浄土へ生まれ変わることである。
- 極楽
- 阿弥陀仏の浄土のこと。注意してほしいのは極楽浄土に行ったら終わりではなくてその後、そこであらためて仏道修行するということである。極楽浄土は極めてヌルい環境、ゲームで言えばイージーモードでのんびりクリアを目指せる場所である。
僧
寺
- 華頂山知恩院 - 鎮西派総本山。正式名称は華頂山知恩教院大谷寺。京都府京都市東山区
- 報国山光明寺 - 西山浄土宗総本山。正式名称は報国山念仏三昧院光明寺。京都府長岡京市
- 聖衆来迎山禅林寺 - 西山禅林寺派総本山。正式名称は聖衆来迎山無量寿院禅林寺。京都府京都市左京区
- 誓願寺 - 西山深草派総本山。京都府京都市中京区
- 三縁山増上寺 - 鎮西派大本山。正式名称は三縁山広度院増上寺。東京都港区
関連動画
関連サイト
関連項目
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