浅間丸事件単語

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浅間丸事件とは、1940年1月21日日本郵船の客「浅間丸」がイギリス海軍軽巡洋艦リヴァプール」に臨検された事件である。この一件で対英感情が悪化し、ドイツとの更なる接近を促す結果となった。

概要

1939年9月3日第二次世界大戦が勃発し、ドイツイギリスは交戦状態に入った。強大な海軍を持つイギリスは各所に艦艇を派遣し、ドイツを追い立てて自沈ないし中立の港へ押し込めた。ドイツと友好関係を結んでいた日本であったが、この時はまだ参戦しておらず中立だった。戦争勃発後、イギリス海軍省と日本の各商会社は戦時禁制となる人や物資の輸送中止を含んだ協定を結ぶ。つまりドイツ人やドイツ向けの物資を輸送しない代わりに、イギリス側は臨検しない事を約束した訳である。

日本郵船が保有する浅間丸は「太平洋女王」と言われるほど実績に溢れたであった。浅間丸がサンフランシスコに寄港した時、英駆逐艦に追い回されて自沈した独商コロンブスの乗員51名を乗させた。これは日本大使館から乗させるよう強い要請があったとも、船長大使館の制止を振り切って独断で乗せたとも言われ、相は不明である。ともあれ浅間丸に51名のドイツ人が乗する事になった。1940年1月6日、浅間丸はサンフランシスコを出港。ホノルルを経由して横浜港へ向かっていた。ところが1月21日千葉県房総半島上でイギリス中国艦隊の軽巡リヴァプールに発見される。威嚇射撃しつつ停を命じられ、強制的に臨検された。士官3名と武装兵9名が浅間丸に乗り込み、ドイツ人乗客51名のみが一等サロンに集められる。このうち兵役に就く事が出来る民間人21名を「戦時捕虜」の名で連行され、協定は反故にされてしまった。

イギリス海軍側は戦時国際法に則ったもので、臨検と連行は正当なものだとイギリスの姿勢に日本の各新聞社は次々に非難を浴びせ、政府も1909年に締結されたロンドン宣言47条「中立上から拉致できる者は既に軍籍にある交戦国人に限る(つまり現役のドイツ兵しか拘束してはならない)」を掲げ、ロバート・クレーギー駐日イギリス特命全権大使外務省に呼び出して正式に抗議した。非難の矛先は抵抗ドイツ人を引き渡した渡部喜貞船長にも向けられ、痛な罵詈を浴びた。大日本帝國海軍はというとイギリスの言い分も、船長の対応も妥当の認識を示していた。日英両政府ドイツ人の処遇を巡って交渉を開始し、較的兵役に就くのが難しい9名の解放には応じて横浜ドイツ領事館前で釈放。しかし12名は拘禁されたままだった。再発防止のため交戦国軍人や紛らわしい人物の乗を禁止する事となり、浅間丸事件は終結した。

ちなみに浅間丸は大東亜戦争に参加し、一時は空母装する事も検討されたが実行には移されなかった。そして1944年11月1日に被沈没した。

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