海江田万里(1949年(昭和24年)2月26日~)は日本の政治家である。民主党所属の元衆議院議員であり、第10代民主党代表。過去に民主党政策調査会長や経済産業大臣などを務めた。
概要
1949年(昭和24年)2月26日に東京都杉並区にて誕生。東京都立鷺宮高等学校、慶應義塾大学法学部政治学科を卒業。大学卒業後、経済評論家で国会議員も務めた参議院議員・野末陳平の秘書を経て、タレント・経済評論家として活動。
国会議員として
1986年、第14回参議院議員通常選挙に税金党公認で東京都選挙区から出馬したものの落選。それから7年後の1993年に第40回衆議院議員通常選挙に日本新党公認で旧東京都第一区(かつて存在した中選挙区)から出馬し初当選。その翌年、離党し民主新党クラブを経て1995年に山花貞夫率いる旧日本社会党勢と一緒になり市民リーグを結成。その後民主党(1996年~1998年)と合流。第41回衆議院議員通常選挙に東京都第1区から出馬し、小選挙区では当時自民党所属の与謝野馨に敗れて落選したが、比例代表選挙では当選。(これ以後、与謝野の引退まで激しい選挙区争いが続くこととなる。)
2014年12月14日の第47回衆議院議員総選挙でまさかの落選。野党第一党の党首が落選するのは片山哲以来65年ぶり。もちろん代表も辞任。
第48回衆議院議員選挙では、立憲民主党候補として、東京1区・東京ブロックから出馬。同選挙区からは、自民党の山田美樹、希望の党の松沢香、諸派から又吉光雄などが出馬していたが、自民党の山田候補を接戦で制し、当選した。獲得票数は96,255票、得票率は40.7%だった[1] 。
民主党所属
1998年に民主党が他野党を吸収合併した後も民主党に所属。2000年(平成12年)に民主党東京都連会長に就任した。同年朝鮮総連による招請により訪朝団とともに北朝鮮を訪問。2002年(平成14年)には党政策調査会長に就任。2005年の第44回衆院選挙では、与謝野に比例復活も不可能な程に差を付けられ失職したが、2009年の第45回衆院選挙では民主党が与党となり、海江田も小選挙区での当選を果たし政界に復帰した。
大臣就任
2010年(平成22年)の菅改造内閣で内閣府特命担当大臣(経済財政、科学技術担当)に就任し初入閣。その後、菅第二次改造内閣で経済産業大臣へ横滑りする。(なお、小選挙区の対立候補であった与謝野馨が海江田の担当していた経済財政担当の特命担当大臣として入閣しており、「人生というものは不条理だ」との言葉を海江田はこの時残している。)経産相への就任後は、衆院経済産業委員会で自民党の赤沢亮正議員に責められ続けて号泣する場面が見られた他、原発関連のことなどで菅と齟齬をきたすこともあってか内閣総辞職前の大臣辞任を表明したこともあった。(下記の代表選出馬を表明したことで大臣辞任は撤回された。)
民主党代表選
2011年8月末、菅直人の退陣表明後の民主党代表選挙では後継候補に名乗りを挙げた。小沢一郎率いるグループの支援を受けた結果、代表選挙の投票では一位になるものの過半数の票の確保まで果たせず、決選投票では野田佳彦に逆転されることとなった。その後は民主党の下野までの間、衆議院の財務金融委員会の委員長に就任した他は2012年9月の民主党代表選挙に出馬した赤松広隆の推薦人になった。
民主党代表就任
2012年12月の衆議院選挙では、東京都第1区で第三極の候補者も乱立する中で自民党公認の山田美樹に小選挙区で僅差で敗れたが比例区での復活当選を果たす。選挙の惨敗の責任を取って民主党代表の辞任を表明した野田佳彦の後任を決める民主党代表選に出馬して、馬淵澄夫との一騎打ちに勝利して代表に就任した。
その他
少し中共寄りのせいかチベット弾圧を容認したり、大臣になって調子に乗ったせいか東日本大震災のときにハイパーレスキュー隊を恫喝したりなど、ネット上ではあまり評判が良くない。
なお、幕末の薩摩藩士で、生麦事件でイギリス人を殺傷したことで知られる海江田信義(有村俊斎)とは、特に血縁関係は無い。
漢詩には定評がある。2012年の民主党代表戦時に披露したものは、「臘月扶桑戦鼓鳴 寒天寡助計無成 将軍功盡萬兵斃 粉骨砕身全此生」[2] 。
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関連項目
リンク
脚注
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