渋川義季(1314~1335)とは、南北朝時代の武将である。
概要
御一家渋川氏につながる存在で、中先代の乱で若くして散った存在。
渋川氏とは、足利泰氏の次男・足利兼氏(顕氏・義顕)を祖とする家で、足利本宗家を継いだ三男・足利頼氏(利氏)の兄である(そのさらに兄が斯波氏・石橋氏の祖・足利家氏)。
足利泰氏の兄・足利長氏を合わせて、後の吉良氏・斯波氏・石橋氏・渋川氏に位置する足利氏の兄の家たちは、他の庶子と違い足利の名字を名乗り続けた。これは、建長3年(1251年)の、おそらく建長の政変に絡んだ足利泰氏の突然の出家、建長6年(1254年)の足利義氏の死、弘長2年(1262年)の足利頼氏の死、といったように、惣領家が空洞化し、衰微しつつあったことが大きい。
ただし、渋川氏に限って言えば、谷口雄太の主張するこのような御一家観の証拠がまだそこまでないのも事実である。なお、谷口雄太は触れていないが、北条時定とともに足利兼氏も吾妻鏡から突然姿を消すことから、宗尊親王の近衆だった彼らの政治生命をつぶした、何らかの政変を熊谷隆之が想定している。
とはいえなのだが、これが事実であってもなくても、他の兄の家と同様、独自の大きな勢力であったのは、ある程度推測できる。しかし、2代目当主足利義春(渋川義春)の代に、文永9年(1272年)二月騒動の関係で一旦佐渡国に配流され、翌年召し返される事件もあったようだ。
かくして、渋川貞頼、続いて渋川義季が跡を継ぎ、鎌倉幕府滅亡に至る。
というのだが、ぶっちゃけ、この渋川義季は、中先代の乱で22歳で戦死したことしかよくわからない。ただし、足利御一家の期待のホープとして、色々歴任していたのはあったようだ。関東廂番の一番頭人として「大将」、「鎌倉大将」と呼称され、姉妹が足利直義に嫁いだ足利直義の義弟であり、御的小侍所を足利直義の下で率いるなど、足利直義の右腕として色々と任されていた、というのが渋川義季であるのだ。なお、彼の「義」の字も足利直義の偏諱だとも言われている
以後、渋川義季の幼い息子・渋川直頼が跡を継ぐが、正直幼子だったため、足利直義の妻である渋川義季の姉妹を中心に、渋川義季の娘の内の渋川幸子が足利義詮の、その姉妹が吉良満貞の妻となり、有力者の姻族として、彼の死後に生き残りを図っていった。
関連項目
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