源実朝(1192~1219)とは、鎌倉幕府第3代将軍である。
概要
頼朝の弟の阿野全成と北条時政の娘・阿波局に養育される。兄で嫡子の源頼家の周囲に比企党が集まったため、これに対抗しようとする人々が集まり、1203年の阿野全成の失脚、および誅殺によって、北条時政、牧の方夫婦に養育される。
1204年の比企能員の変によって源頼家が失脚すると、実朝は早速叙爵、征夷大将軍に補任された。この際後鳥羽上皇から実朝という名が与えられている。政権交代を主導したのは母・北条政子であったが、実際には彼の在職期間の当初は北条時政の独裁であり、彼の名越邸に居住していた。
1204年に従五位上に昇進。源仲章が侍読に任命され、読書始を行う。さらに北条時政と大江広元を召し、政務の聴断が始められた。このころ足利義兼の娘を嫁がせる話が浮上するが、実朝の意向で沙汰止みとなり、公家・坊門信清の娘が嫁いでくることとなった。
1205年の牧氏事件で北条政子に迎え入れられ、叔父・北条義時の邸宅に移る。以後しばらくは官職の上昇しか語ることはなく、1209年に従三位右近衛中将となった。また和田義盛の上総介任官を推挙しようとしたが、政子の反対であきらめることとなる、という和田合戦の伏線が張られる。このころから藤原定家と和歌の添削を通した交流が始まっている。こうした和歌への傾倒は、後に『金槐和歌集』が編纂されるほど強いものであった。
和田義盛を1213年の和田合戦で失いつつも、以後も順調に官位を昇進させ、1218年には右大臣へと昇進した。そして1219年、この昇進を拝賀するため参拝した鶴岡八幡宮で、甥の公暁に暗殺され、非業の死を遂げることとなる。実朝と坊門信清の娘との夫婦仲はよかったが、男子には恵まれなかった。彼の死後、北条政子や北条義時、北条時房ら幕府の重鎮は以前から打診していた親王将軍を迎えようとするも、後鳥羽上皇がこれまでと一転して反対し失敗。摂家将軍である九条頼経が迎えられることとなった。
かつては入宋まで決意するほど現実逃避の激しい、東国武士からは一線を引かれていた和歌狂いで朝廷の従順な傀儡ともいわれていた。しかし研究が進み、急速な官位上昇は、親王将軍を迎えるためとも、摂関家子弟クラスと認められていたため極めて普通のことともいわれている。また和歌の分析を通した彼のマンタリテ研究も文学史学の双方から進んでおり、近年は政務の意志が強かったなど、再評価の進む人物となっている。
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