源平藤橘とは、平安時代以降に権勢を誇った氏族、源氏、平氏、藤原氏、橘氏の総称である。
概要
それぞれ、源氏、平氏は皇族が臣籍降下(皇族が一般人になる)ときに与えられた氏、橘氏も皇族の一族、藤原氏は中臣鎌足に下賜され、その子不比等の時代から権勢を誇った一族。この、源、平、藤原、橘の4つの氏族の共通点は、政治の中枢についていたということである。その事から、憧れの家系図ともされる。あれ、橘氏影薄くね?
鎌倉時代初期に兵部卿(今でいう防衛大臣)の平基親が著した「官職秘抄」という書物に、「外記史(官僚の役職)に四姓(源平藤橘)の人を任ぜず」とあり、鎌倉時代には源平藤橘を指して四姓と言われていたことがわかる。
俗に日本人の系譜を遡ればほとんどが源平藤橘の4氏に行き着くとも言われるが、源平藤橘の他にも菅原氏や蘇我氏、大江氏、紀氏、小野氏、安倍氏、秦氏など様々な氏があることや、家系図を粉飾するために祖先を仮冒(詐称)していることもあったため、一概にそうとも言えない。例えば、織田信長の織田氏は平氏、島津氏は源氏と自称していたが、実際は織田氏は忌部氏、島津氏は惟宗氏とされる。
橘氏
ウィクショナリーに「源と平と藤原に語呂合わせで橘を加え」とおまけ的な扱いをされてしまっている橘氏。確かに日本史の教科書を見ても影が薄い。
酒呑童子討伐の源頼光、鎌倉幕府を成立させた源頼朝などの源氏、「新皇」平将門や平氏政権の平清盛などの平氏、皇族の血筋ではない(不比等は天智天皇の落胤説もある)が、藤原氏の地位を確立させた実質的な祖の藤原不比等、「この世をば~」の藤原道長などの藤原氏。この3氏は非常に栄え、人物を挙げるとなると枚挙に暇が無い。しかし、橘氏はどうだろう。橘諸兄、橘奈良麻呂、橘逸勢くらいしか知られていない。橘を氏とする武将も楠木正成くらいだ(しかもはっきりしない)。
よに源平藤橘とならべて、四姓といふ。源平藤原は、中昔より殊に廣き姓なれば、さもいひつべきを、橘はしも、かの三うぢにくらぶれば、こよなくせばきを、此かぞへのうちに入りぬるは、いかなるよしにかあらむ。
現代語訳:世間では源平藤橘と並べて四姓という。源平藤原はとても広く勢力を持っていた姓であるからそう言う様になったのであろうが、橘は必ずしもあの3氏に比べるとこの上なく勢力は狭い、四姓の内に入ったのはどのような理由からであろうか。
※現代語訳は編集者による
と疑問を述べている。
平安時代初期にはすでに公家社会では権力を失っていた橘氏。それでも源平藤橘の1つとして数えられていたのは、敏達天皇の子孫であることと、皇族、藤原氏以外で唯一皇后(壇林皇后こと橘嘉智子。奈良麻呂の孫)を輩出していたことが挙げられる。
本居宣長も
おもふに嵯峨天皇の御代に、皇后の御ゆかりに、尊みそめたりしならひにやあらむ。
現代語訳:思うに嵯峨天皇の御代に、皇后(壇林皇后)の縁から、尊み始めたならわしであろうか。
※現代語訳は編集者による
と述べている。
また、延長5年(927年)から12年間に源清蔭、平伊望、藤原忠平、橘公頼が同時に太政官に列したからともいい、承平天慶の乱で武功を上げた橘遠保の影響もあるともいわれる(橘遠保は別系統の伊予橘氏説もある)。
そう。橘氏はおまけなどではない。源平藤に並ぶ、尊敬された氏族なのだ。
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