源義仲 / 木曽義仲(1154~1184)とは、平安時代末期に活躍した武将である。
概要
幼名は駒王丸。通称木曽冠者、または朝日将軍。源義賢の次男で母は遊女とされる。
1155年8月、大蔵合戦で父・源義賢がその兄・源義朝の息子である源義平に討たれた時にはまだ二歳であり、斎藤実盛の計らいで信濃国木曽の豪族、中原兼遠のもとに逃れ養育された。ここからしばらくは彼の足跡をたどることは難しい一方、兄の源仲家は八条院と結びついた軍事貴族として源頼政の養子となっており、以仁王の挙兵でその最期を共にしている。
そして彼が再び歴史の表舞台にたつのは1180年9月である。信濃国市原で平家方の笠原頼直を破り、そのまま信濃に勢力を築く。さらに10月には上野国へ進出し先代の郎党を確保したものの、源頼朝との衝突を避けいったん引き上げている。そして、1181年6月には甲斐源氏・信濃源氏と協力して越後から遠征してきた城助職(城長茂)を横田河原の戦いで破り、大勝をおさめたのである。
その後源義仲は城氏を追って北陸道に進出。しかしその一方で頼朝と対立した、叔父である志田義広、新宮行家を抱え込み従兄弟の源頼朝と一触即発の事態に陥っていた。しかしこの件に関しては嫡子・清水義高を頼朝の長女・大姫と婚姻させることで和睦を結び、後顧の憂いをなくした義仲はより一層北陸道を制圧していった。
そして起きたのが1183年5月の越中での倶利伽羅峠の戦い、加賀での篠原の戦いでの大勝利であり、命の恩人である斎藤実盛を討ち取ってしまったものの、平家の前線指揮官クラスを多数討ち取ることに成功したのである。そして1183年7月に安田義定や多田行綱といった軍事貴族の支援を得て、一気に入京。平家の都落ちを実現し、後白河院からは平家追討・洛中警護を任じられ、伊予守になった。
しかしこのような混成軍の統率は困難を極め、さらに八条院派として以仁王子息・北陸宮を天皇位に即位させようとする強引さは八条院本人からも距離を置かれ、おまけに中央政権を担うノウハウのなかった彼は次第に孤立することとなった。
そして起きてしまったのが1183年閏10月の水島の戦いでの大敗である。足利義兼の兄である矢田義清、古参の郎党であった海野幸広といった譜代の主力家臣を失ってしまった彼は、ついに11月に法住寺合戦で後白河院を襲撃。軍事力に欠けた後白河院を幽閉し、院御厩別当となり、摂関を平家ににらまれ逼塞していた松殿基房の息子・松殿師家に任じ、自らを征東大将軍に任じさせた。
しかしもはや源頼朝との対決は避けられない段階まで来ており、1184年正月に源範頼、源義経両軍に敗走。今井兼平に自害を勧められるも、深田に入って馬が動けなくなった隙を石田為久に討ち取られて亡くなった。こうして一時は第三勢力として重要な役割を担った源義仲軍はあっけなく壊滅したのであった。
この後、彼の子である清水義高も誅殺されたはずなのだが、信濃の豪族である木曽氏は彼の子孫を名乗っている。
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