源義経(1159~1189)とは、平安時代末期の武将である。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、幼名は牛若。
幼少期
元服前は幼名の牛若(丸)が通称だが、本項では一貫して義経と表記する。
平治元(1159)年、河内源氏の棟梁・源義朝の九男として生まれた。
母は義朝の側室・常盤御前。『平治物語』によると近衛天皇の中宮・九条院の雑仕女(召使)であったとされ、都の美女千人の中から選ばれたとある。そんな父と母の間に生まれた義経だったが、幼少期に両親は悲劇に見舞われた。
父・義朝は藤原信頼と手を結び、後白河上皇の近臣として権勢を誇った側近・信西(しんぜい)を捕らえて斬首。後白河上皇および二条天皇を軟禁する(実際には保護したとも)。世に言う「平治の乱」の始まりである。
信西の専横を良しとしない信頼一派の行動だったが、これに対し平氏の棟梁・平清盛は、逆に信頼の専横に不満を抱いていた公家と手を組み、上皇・天皇の奪還に成功。義朝と信頼は一転して逆賊となってしまった。
両軍は京都の六波羅で激突。兵数に劣る義朝は敗北を喫して東国へと落ち延びた。道中で一子・源頼朝ともはぐれ、家人の長田忠致・景致父子を頼ったが裏切られ、入浴中に殺害された。
これにより、常盤御前も危うい身となった。常盤には今若・乙若・牛若の三人の子供がいたが、清盛はその子供達を見つけ次第殺そうと、彼らを探し出すよう命じていたのである。常盤は子供を連れて逃げていたものの、ついには逃げ切れないと観念し、三人を連れて清盛の下へと出頭した。
この時、常盤の美貌に惚れ込んだ清盛は彼女を自分の妾とする代わり、子らを仏門に入れる事でその命を許したという。かくして義経は京都の鞍馬寺に預けられ、稚児名を遮那王(しゃなおう)とした。
助命され鞍馬寺に預けられた義経だったが、父が平氏によって殺されたと知ると、打倒平氏の志を胸に抱くようになる。伝説ではこの時、鞍馬山に住まう大天狗に剣術・兵法を教わったという。また『義経記』では陰陽師・鬼一法眼に師事したとも伝えられる。
しかしこの様子を平氏に知られては困ると、鞍馬寺では強制的に出家させようとしていた。平氏方からの出家命令というのもあったが、いずれにせよ義経は平氏打倒を果たすべくこれを拒否し、16歳の時に鞍馬寺を出奔した。
そして承安4(1174年)、近江国(現在の滋賀県)の鏡の宿にて自らの手で還俗・元服を行い、源九郎義経と名乗った。源氏ゆかりの「義」と清和源氏の祖・経基王の「経」が由来だとされる。その他にも熱田神宮説、尾張国説など、元服に関しては伝承・文献により諸説別れる。
義経は北を目指し、奥州平泉に向かう。そこには源平に匹敵するほどの勢力を誇る奥州藤原氏があった。
奥州藤原氏当主・藤原秀衡は平氏に対抗し得る源氏の御曹司として義経を保護、厚遇した。これについては秀衡の舅である藤原基成の従兄弟・一条長成が常盤御前と再婚した事が所縁になっていると推測されている。
治承・寿永の乱
源頼朝挙兵~木曽義仲討伐
治承4(1180)年、異母兄・頼朝が挙兵したと知ると、義経はいよいよ平氏打倒の機会到来と見て平泉を飛び出した。
富士川の合戦の翌日、黄瀬川に陣を張っていた頼朝の元に馳せ参じ、そこで涙の対面を果たしたという。
寿永2(1183)年、木曽義仲が平氏を都落ちに追い込み、義仲の勢威は不動のものとなった。これにより頼朝と義仲の間に源氏の棟梁としての立場などにおける対立が引き起こり、最終的に義仲討伐に至る。
頼朝は事情により鎌倉から動けない為、義経を義仲討伐の総大将に命じた。その事情の一つに、奥州藤原氏が頼朝を攻めるという内容で頼朝の動きを封じる一方、義経が活躍出来るようにしたとの見方がされている。
いずれにせよ義仲討伐は功を奏し、義経の武名は京都中に知れ渡ることとなった。
一ノ谷の戦い
義仲によって駆逐された平氏は逃亡先の西国で勢力を盛り返し、対抗の意を見せた。
後白河法皇は平氏の復権を阻止すべく、源頼朝に平氏追討の宣旨を下す。また平氏が都落ちの際に持ち去った「三種の神器」の奪還も命じた。
義経は1~2万の兵を率いて摂津に下った。この時彼は搦手(別働隊)の総大将で、大手(本隊)の5万6千余騎を従えた兄・源範頼が平氏の前衛を攻撃する隙に、一ノ谷に置かれた後陣を叩く作戦だったとされる。
義経は始めに三草山の平資盛・有盛軍に夜襲を仕掛け、これを撃破。その後、軍勢の半分を土肥実平に預けさせ、更に安田義定・多田行綱らにも兵の過半を預けさせると、義経の率いる兵数は僅か70騎となる。そして一行は一ノ谷の裏手にあたる鵯越(ひよどりごえ)に到着した。
2月7日、いよいよ合戦の火蓋が切られる。範頼軍と平家方は正面衝突し、激しい攻防戦を繰り広げた。
義経はその間、崖を一気に下り平氏の陣を奇襲しようと画策する。この時彼は現地の人間から「鹿がここを越す」という話を耳にした。そこで彼は「鹿も馬も足は四本。鹿が下れるなら馬も下れる」と言い、軍勢を一気に駆け下らせた。これぞほんとの馬鹿である
後世に「鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)」と呼ばれた無謀極まりない作戦は、しかし見事に功を奏した。
思いもよらぬ奇襲を受け、一ノ谷の陣営は大混乱に陥る。平氏方は次々と海上に逃げ出し、源氏方は見事に勝利を収めることとなった。この時合戦一番乗りを果たした熊谷直実が、若武者・平敦盛を哀れんで見逃そうとするもかなわず、涙ながらに討ち果たすという「青葉の笛」の物語が伝わっている。
しかしこの作戦が成功した理由の一つに、後白河法皇の陰謀があったとされる。
実は法皇はこれより前に平氏方に休戦の旨を伝えていた。それにより陣営の軍勢が油断したことにより大敗を喫してしまった。実際に平宗盛は「平家一門を陥れるための謀略だ」と法皇に抗議している。
屋島の戦い
平氏は一ノ谷の合戦で兵力を更に削がれ、四国に逃れる。そして讃岐国屋島に拠点を置き、源氏の軍勢に供えた。この時平氏が有力な水軍を擁していた事により、水軍の無い源氏方はしばらく攻撃を出来なかった。
その後山陽道を制圧した範頼だったが、兵糧と船の調達に手間取り進軍が滞る。 そこで義経は法皇に出陣の許可を貰い、元暦2(1185)年2月18日に出発。僅か150騎程度だったが阿波の勝浦に上陸、在地武士を味方につけて300騎にまで増やした。
そしてついに義経の奇襲が始まる。干潮時には屋島へ馬で渡れると知った義経は急襲を敢行。寡兵と悟られぬよう民家や集落に火をかけ、大軍と錯覚させて一気に攻め込み、またもや平氏方を混乱に陥れる。
瀬戸内海側からの攻撃に注意を向けていた平氏方は義経の計略により、またもや予想外の展開に。結局平氏一門は一目散に海上へと逃亡する事となった。
この時、平氏方を追撃せんとする源氏の一軍の前に扇の的を掲げた船が姿を現し、義経が弓の名手・那須与一に命じて射落とさせた「扇の的」の逸話は有名である。
壇ノ浦の戦い
ついに九州にまで追い詰められた平氏。しかし昔日から打倒平氏を誓ってきた義経が容赦するはずはなかった。
屋島の戦いに勝利し、熊野・伊予水軍等を味方につけると水軍を編成。また範頼軍も九州へ制圧した事により、平氏は完全に逃げ場を失った。
元暦2(1185)年3月24日正午、最後の源平合戦「壇ノ浦の戦い」が幕を開けた。
当初は関門海峡の激しい潮の流れにより、平氏方の優勢となった。水上戦に精通していた平氏は海に慣れない義経軍を圧倒。義経はそれでも何とか持ちこたえ、舵取りや水夫などの非戦闘員を射殺するという無法に出て、船を立ち往生させたという。
それでも有利な状態で戦っていた平氏だったが、ここで潮の流れは変化を遂げる。
流れは義経軍に味方し、ここから一気に源氏は平氏を押しまくった。遂には最期を悟り、平氏方から海に身を投じて自害する者が続出。この時平氏の猛将・平教経が義経を捕らえて道連れにしようとするも、義経は身軽に船から船へと飛び渡って逃げたという「義経の八艘飛び」が伝えられている。
最後には清盛の妻・二位尼が幼帝・安徳天皇と共に入水するに至り、ここに源氏の勝利という形で源平合戦は終わりを告げるのであった。
長きに渡った平氏一門との戦。
父殺害の顛末を知ったあの日から平氏滅亡を内に秘め、ついにその夢を果たす事が出来た義経。
しかし暗雲は彼を覆うように徐々に広がっていった。
頼朝との不和
壇ノ浦の戦いにおいて平氏が滅亡した後、頼朝は源氏の棟梁たる自分に許可なく任官した部下に対し、厳しい処分を下した。
実はこの時義経も独断により、後白河法皇から左衛門少尉、検非違使に任じられていた。
この事態を重要視する事もなく、義経は捕縛した平宗盛・清宗父子を護送し鎌倉に入ろうとしたが許されず、鎌倉郊外の山内荘腰越(現鎌倉市)の満福寺に留め置かれる。
誤解を解こうと思った義経は己の生い立ちから源氏勝利までの回顧、罪人扱いされる苦悩、神仏に誓って二心なき旨などを綴った「腰越状」 を頼朝の側近・大江広元に送った。
頼朝が義経に憤慨した理由としては無許可での任官の他に
「平氏追討にあたって使者の梶原景時の意見を聞かず、勝手に行動した事」
「壇ノ浦において範頼の管轄下にありながら、越権行為を行った事」
「東国武士達が過ちを犯すと、独断で成敗した事」
等がある。
義経の突出した活躍により、恩賞を求め頼朝に従う東国武士たちの戦功の機会を奪取する形となり、御家人から不平不満の声が上がっているというのも皮肉である。
その他、壇ノ浦で三種の神器の一つ・草薙剣が失われ、頼朝の構想を破壊させた事や、源平合戦による義経の武名を恐れた事なども二人の対立を呼んでいる。
謀反
腰越状を渡した義経だったが、結局は受け入れられなかった。
両者の関係に亀裂が入り、義経は「源頼朝に不満を持つ者は我に続け」と、頼朝への対抗をあらわにした。頼朝もこれを聞き、義経の所領をことごとく没収する。
そんな義経を狙ったのが叔父・源行家だった。
彼にも既に追討令が出されており、同じ頼朝に反する者として義経と組んで頼朝を討とうとしたのである。
頼朝は義経に行家追討を知らせるべく、梶原景時の息子・景季を義経の下に送ったが、義経は体調不良を偽りこれを拒否。
この背信により、頼朝は義経追討を本格的に始める事となる。 ちなみに後に義経探索のために置かれるのがあの有名な守護・地頭である。
義経もまた、頼朝を討つ方向へ傾いていく。
10月7日、頼朝方の刺客・土佐房昌俊が義経のいる京に送られ、8日後に義経邸を襲撃。義経は奮戦し行家も駆けつけて昌俊は敗走したが、もはや頼朝と義経の関係は完全に崩壊していた。
義経は後白河法皇に強要し、頼朝追討の宣旨を得ることになる。
義経は摂津国大物浦から九州に向かおうとしたが、途中で暴風雨に遭い船は転覆。
住吉浦という場所に漂着するのだが、この時既に彼に従っていた人間は源有綱・堀景光・武蔵房弁慶・静御前の僅か四人であった。
逃亡の日々
義経は郎党や愛妾などを吉野に隠したが追討使に見つかり、静御前が鎌倉へと送られてしまった。二人はここで別れを告げる事になる。その後、歌舞の名手であった静御前が夫を想い歌った事に激怒した頼朝により成敗されそうになる所を、頼朝の妻・政子の強い訴えにより許される逸話が知られている。
義経は反鎌倉の寺社や貴族らに匿われて京都周辺に身を潜めるが、翌年の文治2(1186)年5月に叔父の行家が討たれ、各地に潜伏していた郎党も次々と殺害された。義経は「義行」や「義顕」などと改名しながら雌伏の日々を送るが、11月に頼朝が「京都側が義経に味方をするならばこちらは大軍を送る」と脅した事で、遂に京から逃げる羽目になる。
また義経が潜伏している最中、母の常盤御前が捕えられて息子の居場所を問われが、彼女は「義経は仁和寺にいる」と答えた。そこで追っ手を差し向けたところ義経の姿はなかったという。果たして義経を守ったのであろうか。
義経はその後も逃亡を続け、伊勢・美濃を経由し奥州へと逃れようとした。
その途中で僧侶に化けて関所を通ろうとした際、役人が「お前は源義経ではないか?」と疑いを持つ。弁慶は咄嗟に主たる義経を責め、杖で打ち据えて疑いを逸らすという逸話は能「安宅」や歌舞伎「勧進帳」などに謳われている。
様々な紆余曲折を経て、義経は元服当時から自分を支援した藤原秀衡にすがる。7年ぶりに奥州平泉へ戻った義経を秀衡は温かく迎えた。
頼朝もさすがに奥州藤原氏となると迂闊に手は出せない。何せこの時の奥州藤原氏には「奥州七万騎」と称されるほどの軍事力を有していたからだ。頼朝は後白河法皇の義経追討の宣旨を振りかざして義経保護を咎めたものの、秀衡はこれを無視した。
一説には、頼朝と一戦を交えるために軍事力を蓄えたとある。実際に義経と秀衡は臨戦体制を整えていた形跡があるらしい。しかしその思惑も泡沫となって消えた。
文治3(1187)年10月、秀衡が急死したのである。
最期
秀衡は国衡・泰衡・忠衡の三兄弟に、義経を守るようにとの遺言を残していた。
しかし秀衡の死からわずか1年半後に泰衡が頼朝の圧力に屈してしまい、衣川の館にいた義経を襲撃。
数百騎の軍勢に対して、義経の方は10名あまり。最早これまでと、義経は持仏堂にこもり妻子を手にかけた後、自害した。文治5(1189)年4月30日の事である。
義経の首は酒に満たした漆器に収められ6月13日に鎌倉に到着。31歳の若さで亡くなった彼に涙したものは多かったという。源氏栄光への足がかりを築いたヒーローは、こうして悲運の死を遂げたのであった。
この時義経の最期を守ろうと奮戦し、全身に矢を受けながら立ったまま戦死した弁慶の逸話「弁慶の仁王立ち」が残っている。
その後、藤原泰衡のおもねりも空しく、潜在的脅威と見なされた奥州藤原氏は源氏との戦いに突入。奥州合戦において大敗、滅亡することとなる。
後世への影響
彼の武将としての輝かしい活躍と悲劇的な生涯が、後世の人々に与えた影響は多大である。
義経を主人公とする物語や歌舞伎などが続々と生み出され、現代でも演劇や小説として広く流布している。また古典芸能・浄瑠璃も義経がきっかけで生まれたという説がある。
変わった所では壇ノ浦の戦いの後、救助された建礼門院(安徳帝の母)と義経がアーン♥なワァーオ♥をする官能小説「壇ノ浦夜合戦記」なんてのもある。これだからご先祖は
「判官贔屓(ほうがんびいき)」という言葉は江戸時代には既に一般的なものとなっており、これは現在でも使われている。
また義経の斬新な戦術は、「日本騎兵の父」と呼ばれた秋山好古にも影響を及ぼしていた。
彼は日露戦争において臨機応変な戦術を運用、世界最強と呼ばれたロシアのコサック兵と対等に戦闘。そのような渡り合いが出来たのは義経の騎兵戦術を研究した事も一つの要因らしい。
今まで義経の戦術は革新的で長らく評価の対象外とされていた。しかし明治時代に入り日本の軍事思想が変わっていくと、700年以上の時を経て義経の戦術を受け入れる人物が出てくるのだった。
義経の悲劇的最期を反映したかのように、広く生存説が唱えられている。その極北として、義経=チンギス・ハン説という珍説がある。
すなわち、義経は奥州平泉では死なず、更に北に逃れ、大陸へと渡ってチンギス・ハンとなり大陸を掌握、その子孫が「元寇」で日本に襲来してきたというもの。当然今では否定されているが、人々のロマンがこういった説を生み出したのかもしれない。
創作として
近年の創作においては、従来の「悲劇の美青年」を踏襲しつつ、それぞれに変わり種があるのが特徴。
コーエーテクモのアクションゲーム「無双OROCHI」シリーズに、仇敵・平清盛らと共に登場。
絵に描いたような生真面目さかつ古風な美青年である。
漫画・アニメ「鬼灯の冷徹」にも小柄な美少年として登場。
鞍馬天狗の「究極の判官贔屓」により地獄に召喚され、烏天狗警察の警察官になっている。
非の打ち所のない美少年なのだが、実は本人はドスコイ体型に憧れていたりする。
平野耕太の漫画「ドリフターズ」にも登場。
漂流物でも廃棄物でもないトリックスターとして、人類廃滅を画策する黒王に「面白そうだから」という理由で加勢している。同じくこの世界に流れ着いた那須与一からは「化物」と評され、恐れられている。
大河ドラマにおいては、イケメン俳優が演じる事がほぼお約束。
過去には東山紀之、滝沢秀明、神木隆之介らが演じている。
映画「五条霊戦記 GOJOE」では五条橋で次々と平家武者を襲う「鬼」として登場、「鬼」を討つべく立ち上がった弁慶と対峙する。浅野忠信が遮那王を怪演している。
刀ミュこと「ミュージカル『刀剣乱舞』~阿津賀志山異聞~」において、弁慶のほか頼朝、泰衡と共に登場。本来の歴史から逸脱して異形の力を手に入れ、弁慶を従え泰衡と手を組んで頼朝を討とうとする。
続編にあたる「ミュージカル『刀剣乱舞』~つはものどもがゆめのあと~」では、頼朝とも泰衡とも手を取り合う「幸福な結末」へ至ろうとする義経に対し「歴史の通りに死なねばならない」残酷な展開となる。
ゲーム「Fate/Grand Order」では牛若丸名義でライダーのサーヴァントとして登場。詳しくは個別ページへ。
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