概要
東京から南へ1000km離れた場所に浮かぶ絶海の孤島、小笠原諸島。その諸島で2番目に大きい島が父島である(1番目は硫黄島)。島の総面積は23.45平方km。一般の人が住んでいるのは父島と母島だけで、他は自衛隊関係者で占められる。一度も大陸と繋がった事が無い海洋島なので、独自の生態系が築かれている。これが評価され、2011年6月にユネスコ世界自然遺産に登録された。
島西部には二見港と呼ばれる大きな港湾があり、本土と島を結ぶ連絡船の拠点となっている。暴風の中でも1万トン級の船が停泊できる良港である。島内には海上自衛隊と海上保安庁の拠点が存在し、近海の警備を担っている。二見港の名は、三重県伊勢市の二見から取られている。
歴史
戦国時代の1593年、信州深志城々主のひ孫に当たる小笠原貞頼によって小笠原諸島が発見される。同時に父島も発見され、日本史の表舞台に登場する事になる。長らく無人島のまま放置されていたが、父島近海は欧米の捕鯨船団がよく訪れており、1830年に捕鯨船団へ補給を行うべく住み着いた欧米人が最初の定住者となった。江戸幕府と明治政府の調査と開拓により、1876年に正式な日本領土と認められる。大正から昭和初期にかけては亜熱帯の気候を活かして果樹と冬野菜の栽培が盛んに行われた。漁業ではカツオ及びマグロ漁、捕鯨などを行い、人口は約7000人に達した。
日露戦争後、父島は日本海軍の目に留まり、無線通信所や貯炭所などが作られる。1920年8月には陸軍も進出し、1921年7月から要塞の建築が始まった。ワシントン海軍軍縮条約締結で一度は中断したものの、脱退後の1934年12月に工事再開。トーチカ、地下壕、発電所、砲台、飛行場、水上機基地などが作られていき、堅牢な父島要塞が誕生した。1939年には横須賀鎮守府隷下の父島海軍航空隊が開隊。
1941年の大東亜戦争開戦時、父島には陸軍の要塞司令部と海軍の第5艦隊第7根拠地隊が駐留していた。戦況が悪化の一途を辿る1944年2月、大本営は第31軍を新設し父島要塞はその指揮下に入った。5月には第109師団が新編され、父島の部隊は第1旅団と呼称された。マリアナ、カロリン、硫黄島への増援補給を行う松作戦では、父島は硫黄島行きの物資を集積する拠点として機能。父島から出発した小型船が硫黄島へと物資を運んだ。7月7日にサイパン島を失陥すると、硫黄島に増援を送る伊号作戦が開始される。父島はその経由地に指定され、多くの輸送艦や駆逐艦が二見港へ投錨した。同時に7月16日から軍属825名を除く全島民6886名の疎開が始まり、横須賀へと移送されていった。しかし増援阻止を図る連合軍は8月頃からスカベンジャー作戦を開始。父島を空襲したり、熾烈な艦砲射撃を浴びせた。父島海軍航空隊はほぼ壊滅し、停泊中の船舶にも大打撃を受けた。8月4日、最後の避難船団が父島を出発したが道中で4隻が撃沈され、島民13名が死亡している。一方で父島要塞は頑強に抵抗し、対空砲火で米軍機を数機撃墜している。
損害を受けてもなお父島は小笠原諸島の重要拠点であり続けた。硫黄島と違って水や食料があり、風呂にも入れるので、硫黄島の将兵は父島へ連絡任務に行く事が唯一の楽しみだった。通信・指揮・補給の中枢となっており、硫黄島に赴任する栗林忠道中将に「父島に司令部を置くべき」という声も上がったが、6月8日に師団司令部を父島から硫黄島に移している。12月15日、第903海軍航空隊に吸収される形で父島航空隊は解隊となった。父島のレーダーは本土空襲に向かうB-29を早期探知し、本土の防空隊や司令部に通報。犠牲者の増大を防ぎ続けた。1945年3月26日、硫黄島守備隊は玉砕。壊滅した第109師団は、父島の第1旅団によって再建された。
終戦後の1945年9月3日、父島の第109師団は米駆逐艦タンラップの艦上で降伏調印。戦後はアメリカ軍に占領される。1946年、欧米系の島民だけは帰島が許されたが、大部分の元島民は戻れなかった。1978年6月26日、父島を含む小笠原諸島が返還され、ようやく島民の帰島が許された。23年に及ぶ空白期間を埋めるため、国の特別措置法のもと様々な公共事業が行われ、新しい村づくりが進められた。また海上自衛隊の分遣基地が作られ、申し訳程度に戦力が置かれている。
放送
地上波デジタルテレビ放送は、小笠原村ケーブルテレビによる再送信。八丈島にて受信したものを海底光ケーブルにて引き込んでいる。
交通
- おがさわら丸 - 小笠原海運が運行する定期貨客船。東京港竹芝桟橋発着。
- 共勝丸 - 株式会社共勝丸が運行する貨物船。東京港月島埠頭発着。
- ははじま丸 - 伊豆諸島開発による貨客船。二見港(父島)-沖港(母島)。
- 小笠原村営バス - 路線バス。
関連項目
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