片倉景綱(かたくら かげつな 1557~1615)とは、独眼竜伊達政宗の師であり、兄であり、片腕であり、片目であり、政宗重臣の中で一等先に出奔しようとして踏みとどまった名参謀である。通称小十郎、備中、備中守。
前半生
片倉家は諏訪大祝の神官を祖に求め、奥州管領・斯波家兼に付き従い奥州に移り住んだという。異説あるが片倉景時(景綱祖父)の代より伊達家に服属し、嫡男・片倉景親(のちの片倉意休斎)が出仕、次男・片倉景重は米沢八幡宮の神職として仕えていた。
※米沢八幡宮の所在については成島、安久津など諸説ある。
そんな大身とは程遠い小家で、小十郎は1557年に片倉景重の次男として出生した。母は鬼庭良直から離縁された本沢直子。異父姉に片倉喜多、異母兄に片倉重継がいる。
1560年父・景重が逝去、母・直子も間もなく後を追い、以降は姉・喜多が母代わりとなって小十郎を教育した。
神職は兄・重継が継いだため、幼少の小十郎は跡継ぎのなかった縁戚・藤田家へ養子に出された。
1567年喜多が梵天丸の養育係を拝命する。
1570年藤田家に嫡男が生まれると、聡明だった小十郎は疎まれ家を追い出されてしまう。
このように粗略な扱いを受けても小十郎は腐らず、喜多の慈愛もあってまっすぐに育っていった。
片倉家は代々神事を執り行うこともあって弓の名手であった。文武教養に優れた喜多は剣術や軍学にも長けていたため、小十郎はこれらを学び修めて機に備えた。また篠笛をよくし、特に愛用の名笛・潮風は後年陣中においても懐に携えていたという。
1571年その才を惜しんだ伯父・意休斎や姉・喜多の推挙を遠藤基信が汲んで、ついに伊達輝宗の徒小姓として取り立てられることとなった。小十郎は忠勤に励んでこの恩に報い、立身の足掛かりを掴んでいく。おそらくこの頃に名乗りを小十郎景綱と改めている。
1575年遠藤基信の推挙により梵天丸の傅役を任じられる。
片目を失ってふさぎ込みがちな梵天丸を闊達な心を以って鍛え上げ、大将たるにふさわしい人物として育てた。
病んだ眼球を小刀で抉り出した逸話が有名であるが、景綱が荒療治を任されるに至った理由は神仏の加護に縁のあった出自が影響していることは間違いない。
政治から医療まで加持祈祷が重きをなした時代である。輝宗らが八幡様の霊験を前に危難も逃げ去るだろうと信じて景綱に任せたというのは充分に論拠となりえる。
1577年梵天丸元服。藤次郎政宗と名乗りを改める。引き続き近侍として勤める。
1581年政宗の初陣に従い相馬との合戦に出陣。無事戦勝。
1584年相馬との長年に渡る領土紛争に決着を付けた輝宗が家中統制の為に政宗へ家督移譲。この間景綱も近侍に相応しい軍功を挙げており、世代交代も手伝ってその地位を確固たるものとしている。
同年嫡男・片倉左門(のちの片倉重綱→重長)誕生。
妻の妊娠中、政宗に子ができないことをはばかって男児なら殺す旨を告げていたが、当の政宗から助命嘆願の書状が下されたため思いとどまっている。
年代は不明であるが景綱は一度伊達家を出奔しようと画策している。その理由については後世の推測でしか語られず不詳であるが、新参者の癖に輝宗近侍となったことに対する嫉妬や嫌がらせが酷く、とはいえ主君の傍らに侍る身にしてはあまりに微禄であり、身を立てるに忍びない窮地が続くならいっそ、と新天地を求めたとする説が主流である。
わずかな家財道具を売り払って路銀に充て旅仕度を済ませた景綱だったが、喜多の説得により翻意し、以後は生まれ変わったつもりで奉公に邁進したという。
苦節を経て一国一城の主へ
1585年小手森城の合戦では鉄砲の釣瓶打ちを提案し攻城に一役買っている。大内定綱の逃亡を知った政宗の命により城中を皆殺しにした後は小瀬川付近へ進軍。手勢を率いて大内勢と合戦に及ぶも双方首10程を取ったところで不利を悟って引き上げる。
同年輝宗が畠山義継の手にかかり死去。忘我に陥った政宗を諌めるも進軍が決定され、二本松城攻めが行われる。
この間、殉死した遠藤基信より御家の将来を託されている。
1586年には人取橋の戦いへと突入していく。怒りに任せた強引な軍略は全く功を成さず、鬼佐竹義重率いる南奥連合軍に次々と前線を破られ、鬼庭左月斎が戦死するなど防戦一方となった。政宗本陣も攻撃を受けるに至る。
伊達成実らの奮戦によりこれをかろうじて防ぎ、まさに九死に一生を得た大激戦であった。
戦中で景綱は「やあやあ殊勝なり、政宗ここに見てあるぞ」と名を騙って敵の耳目を一手に引き付け、追い詰められた主君の窮地を救っている。
度重なる合戦と調略に逃散と内応が相次いだ畠山勢はやがて瓦解し、二本松城を明け渡した。
畠山残党の反抗を殲滅するため、二本松城城代を命じられる。
のち正式に論功行賞が行われ二本松城は成実に、空いた大森城は景綱に与えられている。
1588年の郡山合戦では北方の大崎合戦大敗に乗じて大内定綱が侵攻してくるが、成実らと寡兵でしのぎ続けて政宗の援軍到着まで40日余りを持ちこたえた。
この頃に喜多考案の「黒釣鐘」を旗印として使い始めている。伯父・意休斎の子が病弱であったため、出世頭の景綱が片倉家総領になった証であるとする説もある。
1589年摺上原の戦いでは三番備を担当。向かい来る砂塵に潰走し、旗印を敵に引き裂かれる屈辱を味わった。
これに激怒した片倉家臣が蘆名方の陣へ突っ込み、意趣返しとばかりに法螺貝を奪っている。のちに戦勝の縁起物として政宗より片倉家に下された。
風向きが変わった後、景綱は一計を案じる。小高い丘で戦見物をしていた農民に鉄砲を撃ちかけたのである。
蘆名方は逃げ惑う農民を味方の敗走と誤認し、浮き足立った。この機を逃さず乗りかかったため敵方はひとたまりもなく潰走した。
この戦勝により名門・奥州蘆名氏は事実上の終焉を迎えている。
立身出世の栄に浴する景綱だったが五月の蝿にたかられた政宗を救うためにさらなる真価を発揮していくことになる。
不動の柱石
豊臣秀吉によって蘆名攻めの罪を問われた伊達家中は主戦派と小田原参陣派に別れ評定がまとまらなかった。
上方の脅威を予見していた景綱は「秀吉ずれなどは五月に湧く蝿の如し。いくら打ち払ってもたちまちたかられるでしょう」と決死の諌言をして政宗に小田原参陣を決意させた。
1590年減封されながらも秀吉との謁見が無事に済んだ政宗は数々の嫌がらせを仕掛ける。
その一つに加担したとされる逸話があり、それは黒川城引渡しの際のことであった。
臣下の礼をとるにあたり、伊達軍の働きがいかばかりのものであるかをご覧頂きたい、と軍事演習を行ったのである。
景綱指揮の下で一糸乱れぬ演武を見せられ唖然とした秀吉は、面目を保つため槍印に目を付けた。
「そこもとの槍印は奇妙な格好をしているな」
「これは天下一撫での刷毛と申します」
「何、さればこの殿下も一撫でと申すか痴れ者め」
言うか早いか剣撃一閃、刷毛は半分になり「天下さまは残しまする」と言って平伏した。
秀吉はいよいよ立つ瀬を失ったという。
諸将の面前で首を叩かれ、立小便の共にされた主君の恥を雪ぐ当代一の意趣返しであった。
出典が不明なので後世の創作であるが知恵者・景綱らしい逸話である。
1591年火遊び(葛西・大崎一揆)が過ぎたせいか政宗が岩出山転封となる。付き従って亘理城主となる。
1593年文禄の役より帰国。その智勇を評した秀吉は軍船「小鷹丸」を与えた他、三春5万石の家禄を以って大名として取り立てようとした。
陪臣(主君・秀吉から見て家臣・政宗のまた家臣)に対する褒賞としては格別であるが、景綱はこれを固辞し、政宗への忠節を守っている。
※人たらしの天才・秀吉の家中分断工作を見抜いていたからとも言える。事実伊達家では重臣の出奔が相次いでいる。
1598年太閤・豊臣秀吉薨去。
1600年東北の関ヶ原に際しては、長谷堂城の戦いで「漁夫の利」作戦を献じた他、松川の戦いにおいて上杉方・本庄繁長と戦った。
伊達勢は福島城町曲輪まで攻め入ったが城方の反撃著しく、景綱は撤退の提言をしている。この戦いで片倉隊は兜首をいくつか挙げている。
また撤退の際に小荷駄隊が襲われ、「竹に雀」の陣幕やら兵糧やらを上杉方に簒奪されている。
※松川の戦いは伊達・上杉ともに優勢を主張しているため虚報も多く、これらの戦果は確証に至っていない。
1601年政宗とともに徳川家康から江戸屋敷を賜るが、主君をはばかり返上。陪臣としてはこれも異例の評価である。
1602年一国一城令が布かれる中で例外として白石城城主に任じられる栄誉を賜っている。
※同じく例外となったのは加藤清正、佐竹義宣など。
1614年頃から病臥し、大阪の陣には嫡男・重綱を参陣させている。
1615年忠勤一筋、万石取りの栄誉を枕に死去。享年59。
徒(かち・徒歩のこと)で戦功を挙げた息子へ「将たる者が徒で組み討ちをするなど慮外であると心得よ」と最期の訓辞を遺している。徒小姓より身を立てた苦労があったからこその遺訓であろう。
戒名:傑山寺殿俊翁常英大居士
補足
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 76 | 政治 | 77 | 魅力 | 72 | 野望 | 69 | 教養 | 74 | ||||
覇王伝 | 采配 | 81 | 戦闘 | 70 | 智謀 | 75 | 政治 | 87 | 野望 | 69 | ||||
天翔記 | 戦才 | 146(B) | 智才 | 160(A) | 政才 | 170(A) | 魅力 | 88 | 野望 | 69 | ||||
将星録 | 戦闘 | 72 | 智謀 | 86 | 政治 | 87 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 64 | 戦闘 | 82 | 智謀 | 84 | 政治 | 86 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 76 | 智謀 | 79 | 政治 | 80 | 野望 | 56 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 76 | 知略 | 80 | 政治 | 81 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 76 | 知略 | 80 | 政治 | 81 | 教養 | 67 | ||||||
革新 | 統率 | 85 | 武勇 | 70 | 知略 | 95 | 政治 | 91 | ||||||
天道 | 統率 | 85 | 武勇 | 70 | 知略 | 95 | 政治 | 91 | ||||||
創造 | 統率 | 87 | 武勇 | 77 | 知略 | 92 | 政治 | 86 |
無双シリーズ
戦国無双で片倉小十郎として登場。実際には初代から登場していたが、一無双武将として登場したのは戦国無双4からである。
4でのCVは竹内良太。一言で言ってしまえば執事キャラであり、無双シリーズでは三国、戦国含め初のメガネキャラである(ただし、コラボ衣装や新武将のパーツとしてメガネが登場したことはある)。
執事のような言動の傍らで政宗以外の相手に対しては毒を吐くことも多い。綾御前に対しては「ババァ」と言ってのけてしまうこともある。
ちなみに、流浪演武ではメガネを取られると「メガネメガネ」といいながら探すことから、視力はかなり低いのだろう。
戦国大戦
SRの小十郎は2コストで武力は6と低め、統率は流石の10で伏兵と魅力持ち。
計略「竜の右眼」は状況により計略効果の変わる「機転陣形」。
伊達家の味方が敵部隊より範囲内に多い場合は伊達家の味方の武力と移動速度が上がる。
逆に敵部隊のほうが多い場合は敵の移動速度と統率力を下げる。
しかしながらVer2.00A当初は範囲が半端に狭く、更に同コストに超使いやすい計略でスペック優秀の葛西俊信がいたため、ほとんど彼を見かけることはなかった。「戦国大戦の伊達三傑は成実、綱元、葛西」と言われる始末である。小十郎涙目。
Ver2.01では葛西の計略が下方され、小十郎は範囲が拡大したためそれなりに見かけるようになった。
戦国数奇(SS)枠としてコミックゼノンの『バリエンテス』の小十郎が登場している。コストは2.5になり統率は1下がって9だが武力は2.5の騎馬なら標準の8になっている。特技は伏兵・魅力とそのまま。
上記元ネタのタイトルにもなっている計略名「伊達の鬼」は、武力と移動速度が上がり更に徐々に武力が上がっていき、弾数が無い時はタッチして突撃可能となる。
しかし悲しいかな、武力が徐々に上がる仕様上瞬発力に欠け、更に同コスト竜騎馬にあの伊達成実がいるという対抗が余りに強いという環境上の問題によりあまり見かけない。速度上昇も半端であり、士気も6と成実と同じ、更に向こうも効果時間は長い方という被りっぷり。
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