牟田口廉也(むたぐちれんや)とは、かつて大日本帝国陸軍に所属していた軍人である。
明治21年 (1888年) ~ 昭和41年 (1966年)。最終階級は陸軍中将。
概要
現代では、史上まれに見る愚将として有名。あまりにもボンクラで、兵隊からは「鬼畜牟田口」「無茶口」と罵られた。
終戦後にA級戦犯として捕まったが、シンガポールで不起訴処分となる。
陸軍悪玉論を語る場においては、必ずと言っていいほどこの人の名前が出てくる。
インパールまでの経歴
支那事変前まで
佐賀県出身。熊本幼年学校・中央幼年学校を経て、明治43年陸軍士官学校卒業(22期)。
同年、陸軍少尉として熊本の歩兵第十三聯隊に配属。
大正6年に陸軍大学校卒業(29期)。翌年参謀本部付。
大正9年に陸軍大尉。参謀本部部員になる。
大正15年に陸軍少佐。近衛歩兵第四聯隊に配属。翌年に陸軍省軍務局課員。
昭和4年フランス出張を経て参謀本部部員。翌年陸軍中佐。
昭和8年に参謀本部総務部庶務課長。翌年陸軍大佐。
昭和11年支那駐屯歩兵第一聯隊長。
難関の陸軍大学校を中尉になってすぐに合格しており、頭は悪くはなかった。しかし長らく中央勤務が続いており、彼の官僚的思考に凝り固まってしまう原因になった。
支那事変
昭和12年に起こった盧溝橋事件では、現地に駐在する支那駐屯歩兵第一聯隊の聯隊長だったこともあり、所在不明の銃撃について反撃するように命令を下している。この時の口火となった攻撃命令を無断で牟田口連隊長が先決し、河辺旅団長が追認した。その時の関東軍参謀長が東条英機であった。実はこの関係は、後のインパール作戦の時も同様である。
翌年、関東軍司令部付。陸軍少将。さらに昭和14年陸軍予科士官学校の校長に就任。
昭和15年陸軍中将。
大東亜戦争(ウ号作戦まで)
昭和16年12月、牟田口は第十八師団長として南方作戦に従軍。マレー作戦、シンガポール作戦に参加している。
シンガポール作戦においては、テンガー飛行場の攻略中に、近接したオーストラリア兵から、手榴弾攻撃に合い、血塗れのまま指揮を執った。次いで、ビルマ攻略作戦に参加。
昭和17年、南方軍がアッサム地方の攻略する作戦を立案したが、兵站の準備不足から第十五軍司令官と共に反対しており、無期延期にしている。
翌年に第十五軍司令官に任命される。
ここまでの経歴ではそれほど問題は無く、むしろ好評価すらあった。しかし、後の行動で評価が一変した。
インパール作戦
彼の愚将としての評価を定着させたエピソードが、日本軍が大敗したインパール作戦である。
第十五軍司令官となった牟田口は、従来の守勢から攻勢によるビルマ防衛へ方針転換を行い、イギリス軍の拠点インパールからインドのアッサム地方への侵攻計画を構想した。
これは前年、南方軍が立案した計画を改良したものだった。前年には、彼は作戦に反対したものの、太平洋地域のアメリカ軍に対応する為に陸上部隊や航空戦力が引き抜かれており、またウィンゲート旅団によるゲリラ戦で防衛線を突破されないか不安であった。
インド独立運動の誘発や積極的攻勢に出て防衛範囲を限定させようとして作戦決行に踏み切った。
作戦を立案した際に、補給ができない事やウィンゲート旅団の討伐後の部隊休息・再編成を理由に、参謀長や指揮下の師団長などのほぼ全員が反対、にも関わらず主張を変えなかった。第十八師団の田中師団長の発言の影響もあり、反対派の参謀長を更迭してしまった。(第十五軍司令官就任時に大幅な人事異動があり、現地ビルマを知る将校が少なく、これが周りの意見を聞かない原因であった。)
その主張の内容は、つき詰めていえば「英軍は弱い、必ず退却する。補給について心配するのは誤りである」。現場の将兵にとって不幸だったのは、無謀な作戦を中止させるべき存在であるはずの軍上層部が、悪化する一方であった戦局の打開をこの作戦に期待して、牟田口を制止するどころか後押ししてしまったことである。特に直属の上司である河辺正三ビルマ方面軍長は牟田口と旧知の間柄で、インパール作戦に同意し推進した。
さらに東条英機は、牟田口廉也との個人的な信頼を持っていた。牟田口も、ビルマ方面軍や南方軍、大本営の頭越しに、時の参謀総長である東条英機には毎日のように私信を書き送った。東条英機は、すっかりインパール作戦に期待するようになった。確かにインパール作戦は、成功すれば快挙であることは間違いなかった(成功すれば、ね)。またインパール作戦の間にも、牟田口軍司令官は頻々として中央に手紙を出した。宛先は東条英機首相であり、富永恭二陸軍次官であり、あるいは陸軍省のやり手将校であった。
なお、インパール作戦におけるイギリス軍は、日本軍を自分たちの領域に十分に引き付けて、補給が出来なくなった時点で反撃する方針を決めていた。補給を徹底的に軽視した牟田口廉也は、敵将ウィリアム・スリムの罠に見事にかかったのである。日本軍は、補給線の伸び切ったインパールに引き寄せられ、弾薬どころか食料もろくない惨状で、立体陣地を構築し強力な火砲、戦車、航空機を要するイギリス軍にさんざんに打ち破られた。さらに補給のない撤退路は、餓死・病死者が大量になり、道なりに日本兵の死体が累々とつながる「白骨街道」となった。
この戦いにおける日本軍の損害は、軍の把握していた数値が極めていい加減であったこともあって明確な資料はなく明らかではないが、戦死30,000、戦病死40,000、合計70,000ともいわれる。一方でイギリス軍の損害は、日本の公式戦史および陸戦史集とも敵将スリムの著書からとして「インパール作戦の死者15,000、傷者25,000、合計40,000」という数値が挙げられている。
しかし、スリムの原本においては、損害40,000でその後ほとんどが部隊に復帰できたとあるだけであり、また実際にはインパール限定ではなく東南アジア連合軍の44年1月から6月の全損害が40,000であり、どうやら大日本帝国陸軍側の意図的な誤訳のようである。[1]
そして、水牛に荷物を運ばせ、食料としても利用するジンギスカン作戦を実施させたが、水牛がジャングルや荷物運びに適応せず、エサも用意出来ずに大失敗。牟田口を代表するエピソードの一つになっている。なお、牟田口が戦後に中華料理店「ジンギスカンハウス」を開店したというエピソードがあるが、これは資料がなくデマである。
牟田口には、次のような証言がある。彼は兵隊たちに「周囲の山々はこれだけ青々としている。日本人はもともと草食動物なのである。これだけ青い山を周囲に抱えながら、食糧に困るなどというのは、ありえないことだ」と大真面目で訓示したという。言い換えれば、「野草がいくらでも食える」という論理である。
前述したように、前線はイギリス軍の作戦通り補給不足で大苦戦。空腹の将兵たちは、上述の呆れた訓示でも実施せざるをえず、タケノコ、野イチゴはもちろん、ヘビ、カエル、カタツムリ等、食べられるものは何でも食べて、飢えを凌いでいた。
挙句の果てに、作戦の失敗が確実になると、作戦指揮そっちのけで戦勝祈願の呪文を唱え始める始末。戦勝を祈願していたことから、勝つ気はあったのかもしれないが、軍司令官が神頼みを始めた、ということから「いよいよこの作戦はダメだ」と将兵たちは感じたという。
各戦線は、補給不足から絶望的な戦いを強いられていた。指揮をとっていた師団長たちも、作戦中止を具申したら更迭された者、マラリアで健康を害したという理由で交替された者(後に死亡)、いよいよ呆れ果てて師団主力を撤退させたために更迭された者(作戦終了後、軍法会議にかけられそうになったが責任が及ぶため精神疾患として不問)など、いずれも酷い目にあっている。
……とはいえ、生きて帰れた者はまだマシというもので、最も悲惨な目にあったのは「白骨街道」とまで言われた死屍累々の道を歩む羽目になった前線兵士達であるのは、言うまでもない。
さらに、牟田口本人は敗戦の色が濃くなるってくるや一目散に逃亡。そして言い訳。
「逃げたんじゃねぇよ! 補給路を確保したかったんだよ! それを卑怯だなんて、ぼく悲しいなぁ」(意訳)
加えて、インパール作戦失敗後の7月10日に将校を集め訓示を行っている。以下にその内容を記す。
…皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って
(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリックしても無駄)
訓示は一時間以上も続き、栄養失調で弱っていた将校たちは次々とぶっ倒れていった。
ちなみにその全文はWikipediaにすら載っていないほど長い。内容は推して知るべしなので見る価値もないだろう。
……もっと知りたいという人は各自で調べられたし。
戦後
敗戦後は戦犯として告発されることはなく、穏やかな隠遁生活を送っていたようだ。インパール作戦で犯した擁護のしようのない失敗の責任を強く感じて反省していたようだが、1962年に届いた書簡がすべてを変えてしまった。英陸軍元中佐アーサー・バーカーから届いたその書簡にはインパール作戦の成功の可能性について指摘があったのだ。
以後彼は作戦の失敗を部下に転嫁する著述活動に注力することになる。牟田口将軍が批判されているのは作戦の成否以前の問題で、ずさんな作戦計画によって膨大な犠牲者を出した点であって、作戦が成功する可能性があったところで彼の責任がなくなるわけでは断じてない。はっきり言って見るに堪えないレベルで惨めだが、7万人もの死者を出したという責任から逃れられる一筋の可能性を見出してしまった老人の心境を考えると無理のないことのように感じられないでもない。
1966年、責任を投げ出したまま自己満足の中で彼は亡くなったわけだが、彼の悪名が忘れられることはなかった。
評価
実は、インパール作戦が失敗するまでの牟田口の功績・評価は、現代ほど低いものではなかったとされている。
開戦当初のマレー作戦においては、「マレーの虎」山下将軍の指揮下で戦果を挙げ、その勢いのまま一気にビルマ(現在のミャンマー)を制圧するなど、順調な時にはかなり活躍していた。
だが、「逆境の中でこそ人間の本性が現れる」とは昔からよく言ったもので、彼の愚将としての評価はこのインパール作戦において決定的となったのである。というか、日本軍において補給能力は人事評価に全く影響を与えなかったので、こうなるのはある意味当然だったとも言えるが。
現代まで続く悪評の原因は、現役時代の失策・不祥事もさることながら、晩年にはインパール作戦について「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と主張し、挙げ句の果てに自らの葬儀においても自説を記したパンフレットを参列者に対して配布するなど、文字通り死んでも反省しなかった事が大きいとも言われている(当然ながら、自分が死に追いやった部下達への公式な謝罪は最後まで無かった)。[2]
後任者
また、インパール作戦に参加した日本軍にとって弱り目に祟り目だったのは、牟田口中将が更迭されたあとの後任、木村兵太郎中将も牟田口中将に匹敵する無能者だったことだろう。[3]
兵力を激減させた日本軍に対してイギリス軍の追撃が行われたことを知った途端、恐怖で手が震えて口がきけない有様。第一線に出て指揮をとってほしいという部下の進言も無視して、現地日本人文民や在留邦人などすべてを置き去りにしてトンズラ。方面軍司令部が連絡途絶するという前代未聞の展開へ。まともな反撃指揮がとれない日本軍はさらに壊走する羽目になる。
なお、木村兵太郎司令官は逃亡先のモールメインにて大将に昇進した。
関連動画
関連項目
脚注
- *イギリス公式戦史においても、インパール作戦の損害16,700(うち四分の一が死者)とあり、インパール作戦での英軍の損害が従来の日本で言われてきたものよりずっと少ないことが注目される。なにもかもがいい加減である。
- *ただし、牟田口一人に全ての責任を取らせる動きがあったことも否定できない。当然、上司である東条英機や河辺正三の責任も重大である。また強硬にインパール作戦を推進した参謀の藤原岩市も大問題である。戦後の大東亜戦争全史ではビルマの部を担当するなどし、著書できっちり他に責任を押し付けている。
- *ただ、木村の軍人としての作戦立案・指揮能力については、相手であるイギリス側のスリム中将からは賞賛されている。
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