牧野富太郎とは、日本の植物分類学の父とされる植物学博士である。
概要
1862年高知県生まれ。裕福な商家の出身で、幼少時から植物に興味を持ち、独学で研究を続ける。
ちなみに学校の授業はつまらなかったことから、2年生(14歳)のときに自主退学している。
22歳で上京して東京帝国大学の理学部植物学教室へモグリの学生として出入りするようになる。やがて学内で最も植物に詳しい男として注目されるようになるが、注目されたことでモグリの学生であることがばれてしまい、大学から追い出されてしまう。追い出された3年後には必要な人材であるとして大学に呼び戻され、助手として正式に雇用された。50歳からは大学講師。以後77歳で職を辞すまで東京帝国大学に在籍している。
1887年に友人と共に「植物学雑誌」を創刊、1889年同誌に共著で記載したヤマトグサは日本国内初の新種発表となり、その後1989年に学名が与えられた。
その他「日本植物志図篇」や「大日本植物志」などの刊行に携わり、1940年刊行の「牧野日本植物図鑑」は研究者や愛好家にとってなくてはならないバイブルとなっている。
1927年にはついに理学博士の学位を受け、独学ここに極まったのである。
その後も精力的に研究や執筆を続け、植物に対する好奇心が衰えることはなかった。
1958年には郷里の高知市に牧野植物園が開園。富太郎は惜しくも前年に94歳の生涯を閉じたが、没後文化勲章を授与された。
亡くなる前年には病に伏した彼のもとへ、昭和天皇からお見舞いのアイスクリームが届いたそうである。
生涯を植物の研究に捧げた牧野富太郎の功績を称え、彼の誕生日の4月24日は「植物学の日」に制定されている。
人物
植物と音楽をこよなく愛した。好きなものには人並外れた集中力を発揮する反面、興味のないものにはどんなに注意されても関心を示さなかった。研究のために私財を投じたため、裕福だった生家は没落し、生涯質素な暮らしであった。大学の権威を意に介さず、大学教授の権威を意に介さなかった。そのため東京帝国大学に在籍しながらも、たびたび大学側とぶつかったと伝えられる。
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関連項目
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