献帝(劉協)とは、三国志に登場する人物である。
概要
霊帝の次子で、少帝弁の異母弟。母親は王美人。妻は伏皇后、曹節(曹皇后)、 董貴人など。
董卓や曹操から傀儡(かいらい。操り人形)の如く扱われ、曹丕に禅譲し、後漢は滅亡した。
母親同士の争い
霊帝に寵愛された王美人だったが、181年に同じく霊帝の子・劉弁を持つ何皇后(何太后。何進の異母妹)と対立。跡目争いとなり、毒殺されてしまう。結果的に劉弁が皇帝の位(少帝)につき、劉協は陳留王となった。
陳留王
189年、何進が宦官に謀殺され、宮殿が混乱。劉弁と劉協は宦官に連れ去られてしまうが、途中で董卓に保護された。
怯えるばかりの劉弁とは対照的に、劉協は今回の出来事を含め正確に説明、なおかつ董卓に対して動じないばかりか、劉弁にひれ伏させたため董卓は彼を気に入り、皇帝に擁立させることを決心させる。聡明の片鱗を魅せたこの時が献帝の全盛期であったとさ。
傀儡として
董卓は何皇后や劉弁を殺し、自分に反する者たちをも悉く殺害。元いた洛陽は焼き払われ、長安に遷都させてしまう。皇帝の位こそついているものの、この時まだ10代となったばかりの帝には何もできなかった。
董卓が呂布に殺された後は、彼の配下である李傕・郭汜らに擁立された。後に董承らに引き連れられて洛陽へ戻るが、今度は曹操に保護されて許(許昌)へ移された。
勢いに乗った曹操が勢力を広げる一方、帝に近しかった者達は追い出されて帝に実権はなかった。それを憂いた董承や王子服、伏皇后などが曹操排除を画策するが失敗して殺され、帝は孤立を深めていった。その後、殺された董貴人や伏皇后に替わり、曹操の娘である曹節が皇后になった。
禅譲
220年1月、曹操が死去し曹丕が魏王を継ぐ。同年10月に皇帝の位を曹丕に譲り、漢王朝は滅亡した。
山陽公の称号を与えられ住処を山陽県に移された。格が落ちたとはいえ、皇帝のみ使える一人称「朕」の使用を認めてもらえたり、漢王朝の暦を使う事を許されるなど王朝の存在そのものを消すようなことはされなかった。
234年に死去。魏は『漢孝献皇帝(献帝)』と諡した。曹叡は群臣を率いて哭礼を行った。偶然にも生没年が諸葛亮と一緒であった。
蜀呉のその後
曹丕による禅譲の後、経緯は不明だが、益州にいた劉備の元には「帝は曹丕に殺害された」という一報が届いた。
情弱乙。益州と許は遠く離れているし仕方がないのかもしれない。
蛇足だが、益州(成都)と許(許昌)は直線距離でおよそ920km程離れており、日本で言うならば東京-旭川ぐらい離れている。
劉備はこの報に乗っかる形で、喪を発して劉協に愍帝(びんてい)という諡号を贈った。また、「漢の命脈を継ぐ」という名目から、翌221年に自ら漢の皇帝に即位した。この王朝は蜀や蜀漢などと呼ばれている。
本当は生きてたこと知ってたんじゃね?というのは禁句。
一方の呉ではこの禅譲を一応承認し、孫権は曹丕から呉王に封じられた。
諡号
前述の通り、魏によって贈られた孝献皇帝(献帝)と、蜀によって贈られた孝愍皇帝(愍帝)の二つがある。
『献』とは、「博聞にして多能だが道を究めるに至らない」
『愍』とは、「国に政がなく、動乱が長く続く事」
という意味を持つ。この二つの諡に込められた意味を比べてみるのも面白いかもしれない。
演義では
劉備の事は皇叔として気にかけており、曹操の暗殺に失敗した後も、彼が天下を取る事を願っていた。
また一時曹操に降った関羽を偏将軍に封じ、彼を「美髯公」と呼んだ。
その他の献帝
皇帝への諡号は異なる王朝で同じものが使用されることがあり、「献帝」も後漢以外でも使用されている。ただし、いずれも皇帝の祖先に対し追号されたもので、実際に皇帝の座についたのは後漢皇帝の劉協のみである。
- 李驤 - 当初は兄の李特、後にその子(李驤から見れば甥)の李雄に従い、成漢の建国に大いに貢献。後に第4代皇帝となった息子の李寿によって追号。
- 劉広 - 前趙の第5代皇帝、劉曜の曾祖父。劉曜によって追号。
- 拓跋鄰 - 鮮卑族拓跋部の大人(部族長)。後に子孫が代および北魏を建国し追号される。
- 朱祐杬 - 明の第12代皇帝、朱厚熜(嘉靖帝)の父。嘉靖帝によって追号されたが、このことは大礼の議と呼ばれる大論争に発展した。
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