田豊単語

デンホウマタハデンポウ
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田豊とは、

  1. ?~200、後漢末期の人物。
  2. 1928~、河南鄭州出身の俳優香港映画に数多く出演。

ここでは1について説明。

袁紹に仕えた謀臣

字は元皓。冀州鉅鹿または勃の出身。
若い頃は茂才に推挙され朝廷に出仕したが、宦官の専横を見て役人生活に嫌気が差し辞職。その後冀州牧だった韓馥に仕えたが、袁紹に脅され韓馥が冀州に袁紹を招き入れた時に袁紹配下となった。

韓馥配下の耿武と純は袁紹を暗殺しようとするが、田豊は袁紹の命で彼らを殺した。その後田豊は別駕として袁紹の謀臣として様々な献策をする。

冀州の支配をめぐって公孫瓚と界で戦った時、袁紹の周囲が公孫瓚の軍に取り囲まれる事態となった。田豊は袁紹を物陰に隠そうとするが袁紹は「大丈夫たるもの、死を恐れて物陰に隠れることができようか」と兜を叩きつけてこれを拒否した。麹義が助けに来たので袁紹達は九死に一生を得た。

袁紹公孫瓚を滅ぼし河北で勢を拡大するのは田豊の貢献が大だった。また献帝を本拠地に迎え入れたり、曹操に対して持久戦を沮授と共にしたが、袁紹はこれらの意見を採用しなかった。

官渡の戦い

200年(建安5年)に曹操が徐州の劉備を攻めた時、田豊は曹操本拠の許都を攻めるよう袁紹に進言したが袁紹子供病気を理由にこれを拒否、田豊はで地面をいて悔しがった。
しかし劉備が敗退すると一転袁紹曹操攻めを決意する。田豊は持久戦をしてこれを阻止しようとしたが怒った袁紹に投されてしまう。

結局官渡の戦い袁紹敗北に終わり、疑心の強い袁紹は田豊がこの敗戦で自分を笑い者にすると思い込み田豊を殺してしまった。正史の注では逢紀の讒言が原因としている。
曹操は後で「袁紹が田豊の策を採用していたらどうなっていたかわからない」とったという。

評価

孔融は田豊を「知謀の士である」と評していたが荀彧は「田豊は強情で上に逆らう」と言っていた。
正史の注でも、孫盛(東歴史)は田豊は張良や陳に匹敵すると言い、裴松之は誤った君に仕えたため死なねばならなかったと同情している。

各メディアにおける田豊

三国志演義

数々の諫言が聞き入られないのは正史と同じ。その最期は自分の運命を悟って中で自死したことになっている。

蒼天航路

船を焼き払ってまで袁紹曹操を攻めるのを防ごうとする(対照的に沮授に描かれている)。笑ったことがないという田豊は精一杯作り笑いをして袁紹を送り出す。

三国志大戦

2005年10月、Ver1.1稼働直後にR田豊の計略「隙なき攻勢」にとんでもないバグが発覚し、すぐさま修正のため一時投(使用禁止)された歴史がある。

ニコニコ動画における田豊

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田豊

5 ななしのよっしん
2013/03/02(土) 02:22:11 ID: zSjJHYwe+r
記事作成乙。かなり最近なんだな作られたの。
この時代の軍師の中では結構好きだけど、退場がくて残念な気持ちが強い。
劉表に仕えてた軍師とべるとどの辺の人なのか気になる。
袁紹と10年前後の付き合いがあったわけだが、その仲で諌言して投までされるって、
相当軍規に違反する内容ったのかな?それこそ荀彧の評するような内容の。
6 ななしのよっしん
2013/07/04(木) 11:03:03 ID: 4XTHa47mtx
劉虞奉戴計画や臣団の閥争いの際に袁紹と衝突したことがあるのかも

曹操の徐州攻めの際に袁紹が動かなかったという部分は確かに記述があるんだが、曹操側の将の伝には同時期に攻め寄せた袁紹軍を撃退した記述もある
この辺りは陳寿の時代には偽不明で諸説あったのかもしれない
古今東西の史書は敗者を貶める傾向があるから(著者に悪意がなくても記載する人物に対する人々の評価がそうなってるから)、記述に矛盾がある場合は要注意かも
7 ななしのよっしん
2013/08/01(木) 00:31:04 ID: 5ndlCartJd
荀彧の評を見る限り、田豊虞翻や費と同じような空気を読めないムードクラッシャーだったようである。その死に対して田豊に過失が全くないとは言い切れない気がする。
8 ななしのよっしん
2014/01/24(金) 15:46:43 ID: CfX4UkpFIE
協調性の臣団とまとめきれない君のどっちが悪いのか…まぁどっちも悪いんだろうなぁ。
袁紹沮授審配郭図田豊逢紀も。
9 ななしのよっしん
2014/08/04(月) 01:13:43 ID: RK7QF5KnmI
田豊の策が本当に正しかったのかはわからんし、田豊に全く責任がなかったのかも分からん
がそれでも、こいつが処刑された経緯を見ると「ああ袁紹ってやっぱり全に救いようのないアホだったんだな」って思う
10 ななしのよっしん
2015/03/06(金) 21:35:37 ID: beJ7LCx6+K
あまり知られてないけど、
袁紹に仕えてから、旧韓馥に従う臣たちを
粛清してるよね。
剛直だけど清廉なイメージがあるから意外。
ドライな割り切りなのか、袁紹側から突きつけられた
「踏み絵」なのか。
ただ、このエピソードが、袁紹
「こいつ、を裏切るときも遠慮なくやるだろう」
と思わせ、後の粛清につながったかもしれん。

アウトレイジにも似たエピソードがあったような気がする
11 ななしのよっしん
2015/05/21(木) 16:35:09 ID: aGbB0CuLpT
冀州名士ではある以上、それなりにすんなり権譲渡が(しかも韓馥よりはかに頼りになる)袁紹にいったのに、ほじくり返して騒乱を起こそうとする連中は看過できないっしょ。その辺り陳登達といかにも同類って感じ。
まぁ確かに袁紹からすりゃ劣勢になったら裏切られる!っていう観念がその時頭の片隅に付いたかもね
12 ななしのよっしん
2015/05/23(土) 04:28:33 ID: +xZJLcv+96
強情で上に逆らう性格だったから袁紹粛清されたんだろうね。
官渡の戦いで敗走して勢基盤が揺らいでしまった袁紹に、普段から反抗的なだから裏切るかもしれないと思われるのも理はないと思う。
13 ななしのよっしん
2017/04/07(金) 08:53:46 ID: 0mfVIMEaMW
田豊沮授の高評価は、判官贔屓・曹操が本拠地を移した冀州への顕・相対的な袁紹ディスリスペクト、この三つが重なっての過大評価であるという説を読んだことがある。
14 ななしのよっしん
2018/07/31(火) 17:51:29 ID: Ghy5cnKKDb
まぁ袁紹が言うこと聞かなかったエピソード以外に幕僚・将軍としては録に事績残ってないしな
散逸しただけで昔は豊富な逸話のある人物だったのかも知れんが

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2019/12/06(金)04時更新