由良拓也とは、日本の自動車デザイナーである。40年以上にわたってモータースポーツに関わる偉人でもある。
概要
1951年東京生まれ。父は工業デザイナーで日本大学芸術学部の教授も務めた由良玲吉。
父の影響を受けて工業デザインへの道へと進む。
育英学園工業高等専門学校(現:サレジオ工業高等専門学校)へ進学、在校中の10代のころよりレーシングカーの製作に携わっていく。
卒業後、1972年にフリーでの活動を開始、1975年に弱冠24歳にしてデザイン会社「ムーンクラフト」を設立する。
デザイナーとしてレーシングカーボディを中心に手掛けるほか、市販予定の車のデザインや腕時計、ヘルメットも手掛けている。
またレースには自らチームを率いたり、チーム監督として携わっており、 最近ではSUPER GTやWEC(世界耐久選手権)およびル・マン24時間レースの解説を務めている。特にデザイナーとして各チームのマシンデザインの詳細に切り込んでいく解説に定評がある。
違いが分かる男
1984年に、ネスカフェゴールドブレンドのCMに起用された。そのときの商品のキャッチフレーズから、現在に至るまで「違いが分かる男」というニックネームをもらっている。
主な作品
スポーツカー
- RQC NOVA(1970年) - ノバエンジニアリングの前身となるRQCの依頼でボディをデザイン。
- 紫電(初代、1977年) - 富士グランチャンピオンレース(グラチャン)向けとして開発されたクローズドボディのマシン
- MCSシリーズ(1979~1986年) -グラチャン向けとして、英国マーチ製のF2マシンをベースにオリジナルのオープンプロト風ボディを組み合わせたマシン。
- マツダ 717C(1983年) - ル・マン24時間レースのグループCジュニアクラス向けのマシン。そら豆のあだ名がされる独特のデザインであったが、その年のル・マンでクラス優勝を果たした。
フォーミュラカー
- パシフィックF2000(1970年) - 最初にデザインを手掛けたマシン。カテゴリーが発足できず幻のマシンとなる。
- アウグスタ Mk3(1970年) - FL500というカテゴリー向けのマシンで、ボディをデザイン。
- コジマKE007(1976年) - 日本オリジナルのF1マシンで、富士で開催されたF1(F1選手権イン・ジャパン)で使用された。
- ムーンクラフト MC031/040/041/041B(1988~1990年) - 完全オリジナルのF3000マシン。日本では鈴木亜久里が、国際F3000では片山右京、デーモン・ヒルが使用した。
1990年にはニューマシンの開発を行っていたが、テストをしていた村松栄紀が其の最中で事故で亡くなり、自社開発は中止された。 - ローラMCSシリーズ - 1991年にはF3000マシン、ローラT90/50のシャーシにオリジナルのカウル、ディフューザーを取り付けたマシンを開発して参戦する。
1994年には、ローラT94/50をベースに独自の空力設計で大幅改良を施したローラMCS94を開発した。
フォーミュラニッポンと変わって以後の1999年には、性能で圧倒的に劣っていたローラB99/51を大幅改良し、ローラMCS99を急きょ開発して後半戦に持ち込んだ。同マシンを駆った道上龍は表彰台に上がる活躍を見せるも、ほとんどのチームがレイナードにスイッチし、ローラはワンメイク化がされるまで使用されなかった。
市販車(試作を含む)
- ヤマハ OX99-11(1992年) - ヤマハ発動機がF1に投入していたV12エンジン、OX99を搭載したスポーツカーとして開発。ボディをデザインした。市販を狙ったものの実現しなかった。
- トミーカイラ ZZ(1997年) - ボディをデザイン。彼の手掛けたものとしては唯一市販されている。
- 紫電(2代目、2006年) - グループCカーをほうふつとさせるデザインでありながら、一般道を走れる市販車として企画された。最終的には受注が少なく市販されなかったものの、レース用に改修された紫電は2012年までSUPER GT、GT300クラスに参戦した。
特に2011年からはエヴァンゲリオン初号機のカラーリングになり、痛車としても注目された。
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関連項目
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