概要
奉公衆四番番頭を務めた畠山中務少輔家の当主。奉公衆の四番は唯一丸ごと足利義材陣営につき、独自の歩みを送ることとなった。
ここまでのあらすじ
畠山中務少輔家とは、畠山国清や畠山義深の弟・畠山清義に始まる系統のひとつである。なお、中務少輔家の初代が畠山清義か、その息子・畠山貞清か見解が分かれるが、初代の中務少輔の記載に入道ととくにつかないことから(畠山清義の弟・畠山国煕がすでに出家していることによる傍証)、畠山貞清のほうが優勢である。
この畠山貞清であったが、足利義満の近習の一人である。『東寺百合文書』のうち有名な『廿一口方供僧評定引付』に出てくる畠山常忠がこの畠山貞清であり、御賀丸、畠山満慶、満済といった足利義満の寵臣たちの一角にいたのであった。
足利義持期の『門徒故事』によると、引き続き足利義持・足利義嗣に畠山貞清は仕えていたようだ。この頃には紀伊國浜仲庄、河内国八ヶ所、尾張国内海庄といった、肥沃な所領を形成する。
ところが、である。小笠原持清の息子との相論で、この畠山貞清は応永22年(1415年)8月26日に相打ちで死んでしまったのである。これの仲裁に走り回らされた足利義持は、貞清流からこの所領を奪い、以後、所領回復が目下の目標となっていったのであった。
畠山貞清の子孫として、畠山持清と畠山満国の系統が続いていく。畠山持清は足利義量に仕え、彼の死に伴い出家した。ところが日野家と密接な関係を結んだ畠山氏庶流は排斥され、日野義資とともに畠山持清の息子が殺害されたのだ。これによって面目を失った畠山持清流は没落する。
おそらく畠山持清の孫・畠山政清が東幕府に合流し、その息子の畠山成清も明応の政変で没落していく一方で、栄えたのが畠山満国流である。畠山満国の子供には畠山持重、畠山持安がおり、畠山持重の系統が有力一門と化していく。
畠山持重は四番衆番頭・申次衆・御供衆を務めた存在である。畠山宗家の中では畠山義就と親しく、さながら細川氏の典厩家や野州家のように、畠山宗家と何度も犬追物などで結束を図っている。この息子が畠山政光であり、『大館伊予守尚氏入道常興筆記』によると、足利義政から伊勢貞藤。国煕流の畠山教元とともに離反し、西幕府に着いたのである。
東幕府には弟の畠山政国が残ったが、畠山中務少輔家は西幕府寄りの立場を持った、息子の畠山政近が継承していく。
そして明応の政変へ
畠山政近も西幕府に仕えたが、結局文明9年(1476年)以降に幕府に出仕する。ただし、足利義政に近い存在であり、彼のもので働いていた。
以後、足利義尚の死、足利義視・足利義材の上洛、足利義材政権の樹立、と変動が相次ぐ。そもそも西幕府に近かった畠山政近は、畠山貞清以来の所領の復活を望み、足利義視・足利義材への接近で、これを成し遂げようとしたのだ。
近江出兵、河内出兵にも付き従った畠山政近であったが、明応の政変が起きる。畠山政近はここで足利義材とともに残り、捕らえられた。かくして足利義材が北陸に脱出し、足利義尹と名前を改める。この時、軍記『畠山記』によると、このような書状を送られたとのこと。
今度正覚寺供奉ノ輩、馳上京都敵同意候所、相残堪忍一段忠節、殊当国下向馳参之事感悦候、弥抽戦功者、可為神妙候也、
明応二年七月十二日 御判
ーー『畠山記』
川口成人は、信用できない軍記物語とはいえ、この書状自体に怪しいところはなく、おおよそ畠山政近も足利義尹に付き従って下向したのではないかとする。
流浪の日々
以後、足利義尹に着いたのは、宗家の政長畠山氏・畠山尚順というかなりの例外的存在であった。この点に関して曽我尚祐の『座右抄』には畠山尚順や湯川政春、紀伊の諸勢力と連携しようとする足利義尹の書状が多数残り、畠山政近はそのような足利義尹の使者を担っていたのである。また、息子の千夜叉丸が紀伊で戦闘行為を行っていたようだ。
加えて、明応5年(1496年)には足利義澄陣営の六角高頼、足利義尹陣営の斎藤妙純が近江で戦闘を行っており、細川基経、畠山尚順、京極高清を連携させ、信太城合戦での敗戦を盛り返そうとする足利義尹陣営の事情があった。このような状況で、吉見義隆や畠山政近は連絡役として活動していたのである。
こうして、準備に準備を重ね、明応7年(1498年)に足利義尹が越前に進んだ。この理由は和睦上洛派の吉見義隆らを切り捨て、武力上洛にかじを切ったがためである。西国の諸勢力との連携も取り付け、いよいよ上洛に向かおうとする足利義尹の姿が『座右抄』などに残された書状からは見える。
だが、失敗した。足利義尹は周防に逃れて足利義稙と名を変え、更に雌伏の時を過ごす。ところで畠山政近といえば、伊勢貞親本『銘尽』によると、以下の動向が知られる(また、この史料で生年がわかる)。
銘尽本去々年明応八年巳未十二月十九天王寺陣破而河内国高屋城同廿日敗北之砌、紛失之間於周防国雖去借用而写之、
前上総(野)介
ーー『銘尽』
要点をかいつまむと、畠山政近は畠山尚順の陣に下り、敗れて足利義尹と同様周防の大内義興の元に行ったようである。
復権とその後
軍記『不問物語』によると、畠山政近は上野介を名乗っていたようだ。これに従えば入道した畠山政近は畠山材堅を従え、大内義興と足利義稙の上洛に付き従ったようである。ただし、一方で『古今采輯』の畠山材堅の書状によれば、永正3年(1506年)に畠山材堅が高屋城攻防戦で畠山尚順、畠山義英の陣営にいるため、前述の千夜叉丸が畠山材堅であり、ここでずっと過ごして上洛を迎えたのではないかとされる。
以後、『実隆公記』、『守光公記』などに、上野入道と称した畠山政近、中務少輔と称した畠山材堅が姿を現す。また、『北野社家日記』永正7年(1510年)6月9日条によると、ここまで積極的足利義稙陣営であったことから、所領を回復したようである。
しかし、『幻雲文集』やかの有名な『高野山西院來迎堂勧進帳』に姿を現したのを最後に、この二人のその後はよくわからなくなる。『室町幕府申次覚書写』の畠山上野入道が畠山政近か畠山材堅かもよくわからないのである。
畠山中務少輔家のその後
以後、『走衆故実』によると畠山材堅には畠山稙元という養子が入ったのである。この生家であるが、川口成人は『北野社家日記』にともに登場することから、同朋衆出身で畠山氏に入名字した畠山順光の息子ではないかとする。
ただし、足利義稙の出奔にも畠山順光、畠山稙元が付き従った一方で、『厳助日記』大永3年(1523年)1月12日条によると、畠山上野が足利義晴陣営にいる。これは畠山材堅が消去法で該当するとされる。つまり、義父と実父・子が分裂したのである。
『実隆公記』大永7年(1527年)2月16日条によると、京都を追われた細川高国陣営に代わり、畠山中務少輔ら細川晴元陣営が京都に入る。畠山順光は『ニ水記』のこの年の1月20日条によるとそこで殺害されているため、これは畠山稙元ではないかとされる。
さらにこの以後、宗家の畠山稙長が没落した分家を弟たちに継承させ、中務少輔家も畠山基信が継ぐ。しかし、本来の中務少輔家の末裔である畠山稙元の活動も以後も続き、天文22年(1553年)には上野信孝らに接近する足利義輝をいさめている。
この後、畠山氏の宗家は完全にいなくなったものだとこれを扱い、奉公衆の湯河氏取り込みにこの名跡が利用された。しかし、その一方で畠山稙元の後継者とみられる畠山次郎が幕臣として登場し、足利義昭没落後のいわゆる鞆幕府に、同一人物と思われる畠山上野介昭清が参画している。中務少輔家は最後まで幕臣としての責務を果たしたのだった。
関連項目
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