畠山政近単語

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畠山政近1442~?)とは、戦国時代の武将である。

概要

奉公衆四番番頭を務めた畠山中務少の当奉公衆の四番は一丸ごと足利義材営につき、独自の歩みを送ることとなった。

ここまでのあらすじ

畠山中務少とは、畠山国清畠山義深の畠山清義に始まる系統のひとつである。なお、中務少の初代が畠山清義か、その息子畠山貞清か見解が分かれるが、初代の中務少の記載に入ととくにつかないことから(畠山清義の畠山煕がすでに出していることによる傍)、畠山貞清のほうが優勢である。

この畠山貞清であったが、足利義満の近習の一人である。『東寺百合文書』のうち有名な『廿一口方供僧評定引付』に出てくる畠山常忠がこの畠山貞清であり、御賀丸、畠山満慶、満済といった足利義満の寵臣たちの一にいたのであった。

足利義持期の『門徒故事』によると、引き続き足利義持足利義嗣に畠山貞清は仕えていたようだ。この頃には紀伊河内八ヶ所、尾内海といった、肥沃な所領を形成する。

ところが、である。小笠原持清の息子との相論で、この畠山貞清は応永22年(1415年)8月26日に相打ちで死んでしまったのである。これの仲裁に走り回らされた足利義持は、貞清流からこの所領を奪い、以後、所領回復下の標となっていったのであった。

畠山貞清の子孫として、畠山持清と畠山の系統が続いていく。畠山持清は足利義量に仕え、彼の死に伴い出した。ところが日野と密接な関係を結んだ畠山氏庶流は排斥され、日野義資とともに畠山持清の息子が殺されたのだ。これによって面を失った畠山持清流は落する。

おそらく畠山持清の孫・畠山政清が東幕府に合流し、その息子畠山成清も明応の政変落していく一方で、栄えたのが畠山流である。畠山子供には畠山持重、畠山持安がおり、畠山持重の系統が有力一門と化していく。

畠山持重は四番衆番頭・申次衆御供衆を務めた存在である。畠山の中では畠山義就しく、さながら細川氏の典厩や野州のように、畠山と何度も追物などで結束を図っている。この息子畠山であり、『大館伊予守尚氏入筆記』によると、足利義政から伊勢煕流の畠山教元とともに離反し、西幕府に着いたのである。

東幕府には畠山が残ったが、畠山中務少は西幕府寄りの立場を持った、息子の畠山政近が継承していく。

そして明応の政変へ

畠山政近も西幕府に仕えたが、結局文明9年(1476年)以降に幕府に出仕する。ただし、足利義政に近い存在であり、彼のもので働いていた。

以後、足利義尚の死、足利義視足利義材の上足利義材政権の立、と変動が相次ぐ。そもそも西幕府に近かった畠山政近は、畠山貞清以来の所領の復活を望み、足利義視足利義材への接近で、これを成し遂げようとしたのだ。

近江出兵、河内出兵にも付き従った畠山政近であったが、明応の政変が起きる。畠山政近はここで足利義材とともに残り、捕らえられた。かくして足利義材北陸に脱出し、足利義尹名前める。この時、軍記『畠山記』によると、このような書状を送られたとのこと。

今度正覚寺供奉ノ輩、馳上京都敵同意所、相残堪一段忠節、殊当下向馳参之事感悦、弥抽戦功者、可為也、

明応二年七月十二日     御判

     畠山中務少殿

ーー『畠山記』

川口成人は、信用できない軍記物語とはいえ、この書状自体に怪しいところはなく、おおよそ畠山政近も足利義尹に付き従って下向したのではないかとする。

流浪の日々

以後、足利義尹に着いたのは、宗の政長畠山氏・畠山尚順というかなりの例外的存在であった。この点に関して曽我の『座右抄』には畠山尚順湯川政春紀伊の諸勢と連携しようとする足利義尹の書状が多数残り、畠山政近はそのような足利義尹の使者を担っていたのである。また、息子千夜叉丸が紀伊戦闘行為を行っていたようだ。

加えて、明応5年(1496年)には足利義澄営の六角高頼、足利義尹営の斎藤妙純が近江戦闘を行っており、細川基経、畠山尚順京極高清を連携させ、信太合戦での敗戦を盛り返そうとする足利義尹営の事情があった。このような状況で、吉見や畠山政近は連絡役として活動していたのである。

こうして、準備に準備を重ね、明応7年(1498年)に足利義尹越前に進んだ。この理由は和吉見らを切り捨て、武にかじを切ったがためである。西の諸勢との連携も取り付け、いよいよ上に向かおうとする足利義尹の姿が『座右抄』などに残された書状からは見える。

だが、失敗した足利義尹周防に逃れて足利義稙と名を変え、更に雌の時を過ごす。ところで畠山政近といえば、伊勢本『銘尽』によると、以下の動向が知られる(また、この史料で生年がわかる)。

銘尽本去々年明応八年十二月十九天王寺河内高屋廿敗北、紛失之間周防雖去借用写之、

     前上総(野)介

元年辛五月廿一日    政近在判

          満六十

ーー『銘尽』

要点をかいつまむと、畠山政近は畠山尚順に下り、敗れて足利義尹と同様周防大内義興の元に行ったようである。

復権とその後

軍記『不問物語』によると、畠山政近は上野介を名乗っていたようだ。これに従えば入した畠山政近は畠山材堅を従え、大内義興足利義稙の上に付き従ったようである。ただし、一方で『古今采』の畠山材堅の書状によれば、永正3年(1506年)に畠山材堅が高屋攻防戦で畠山尚順畠山義英営にいるため、前述の千夜叉丸が畠山材堅であり、ここでずっと過ごして上を迎えたのではないかとされる。

以後、『実隆公記』、『守記』などに、上野と称した畠山政近、中務少と称した畠山材堅が姿を現す。また、『北野日記』永正7年(1510年)6月9日条によると、ここまで積極的足利義稙営であったことから、所領を回復したようである。

しかし、『文集』やかの有名な『高野山西院迎堂勧進帳』に姿を現したのを最後に、この二人のその後はよくわからなくなる。『室町幕府申次覚書写』の畠山上野が畠山政近か畠山材堅かもよくわからないのである。

畠山中務少輔家のその後

以後、『走衆故実』によると畠山材堅には畠山稙元という養子が入ったのである。この生であるが、川口成人は『北野日記』にともに登場することから、同朋衆出身で畠山氏に入名字した畠山息子ではないかとする。

ただし、足利義稙の出奔にも畠山畠山稙元が付き従った一方で、『厳助日記』大永3年(1523年)1月12日条によると、畠山上野足利義晴営にいる。これは畠山材堅が消去法で該当するとされる。つまり、義と実・子が分裂したのである。

実隆公記』大永7年(1527年)2月16日条によると、京都を追われた細川高国営に代わり、畠山中務少細川晴元営が京都に入る。畠山は『ニ記』のこの年の1月20日条によるとそこで殺されているため、これは畠山稙元ではないかとされる。

さらにこの以後、宗畠山稙長落した分たちに継承させ、中務少畠山基信が継ぐ。しかし、本来の中務少の末裔である畠山稙元の活動も以後も続き、文22年(1553年)には上野信孝らに接近する足利義輝をいさめている。

この後、畠山氏の宗全にいなくなったものだとこれを扱い、奉公衆の湯河氏取り込みにこの名跡が利用された。しかし、その一方で畠山稙元の後継者とみられる畠山次郎が幕臣として登場し、足利義昭落後のいわゆる鞆幕府に、同一人物と思われる畠山上野介昭清が参画している。中務少は最後まで幕臣としての責務を果たしたのだった。

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畠山政近

1 ななしのよっしん
2021/05/19(水) 10:28:05 ID: mIVRSbANdH
論文が出されると知名度がワンランク上がるって説があるけど
実際論文まとめみたいな記事がこうして書かれるんだからむべなるかな
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