畠山義堯(はたけやまよしたか ?~1532)とは、河内国・紀伊国の武将で河内・山城守護である。畠山総州家5代当主。官位は上総介。別名に義宣(よしのぶ)。
両細川氏と両畠山氏の対立ライン
父は畠山総州家4代当主・畠山義英。子は畠山総州家6代当主・畠山在氏。
総州家は尾州家の畠山尚順により勢力をどんどんと狭めており衰退している状態であった。
尚順が1522年に死ぬと跡を継いだ畠山稙長が若年ということもあり、逆襲に出る。
父・義英は1522年没が有力視されているが隠居したともされているので詳細はわかっていないのだが、1523年には義堯名義の発給がなされているのでこの時には家督を継いで当主となっているのは間違いは無いだろう。
当時の近畿の情勢は畿内を掌握していた細川政元には子がおらず、細川澄之・細川澄元・細川高国の3人が養子に迎えられていた。
だが、1507年に政元が澄之派の家臣によって暗殺されると、高国派によって今度は同年に澄之が自害に追い込まれ、高国と澄元の勢力に二分される。
情勢は高国が圧倒的有利となり澄元は煮え湯を飲まされていた。
1520年に澄元が病没すると、跡を継いだのはわずか7歳であった子・晴元であった。
1525年に高国の子・細川稙国がわずか18歳で病没し、管領が空位になると、翌年に一時的と言え第33代の管領に就任する。
これは畠山政長が1487年に在位して以来畠山家にとって39年ぶりの就任であり、畠山総州家にとってみれば唯一の管領でもあったので快挙であった。
原因は不明だが、結局数ヶ月で管領を辞することとなる。(次代管領の細川晴元が就任するのは1536年)
父が澄元と結んでいたため、澄元の娘を娶った。そのため晴元とは義兄弟の間柄となり、引き続き同盟を結んだ。
晴元・義堯ラインと高国・稙長ラインの対立軸は明確になっており、情勢は明らかに晴元・義堯側にとって不利であるものの、畠山氏同士の戦いではそれほど不利でもなかった。
しかし、細川氏同士になると(晴元側:和泉・阿波、高国側:摂津・河内・山城・大和・讃岐・丹波)となり不利であった。
概要
これまで高国は同族である細川尹賢の讒言により家臣を幾人も自害に追い込んでいた。
今回は側近中の側近とも言うべき重臣の香西元盛であった。
こうなれば香西家が黙ってはいない、となるのだが、香西家は黙っていた。
何故ならば香西家は当時2つに分かれていており、元盛は上香西家の人間であり、1507年に細川高国・澄元らによって戦死した香西元長の養子として入っていた人物であった。
なお、下香西家の香西元定(香西元成の父)のほうは健在であり祖父との血縁もある人物であった。
しかし、香西元盛の死の一件により意外なところで挙兵が起きた。
丹波の波多野氏である。実は香西元盛は波多野氏出身であり、波多野秀長の三男にあたる。
2人の兄である波多野稙通と柳本賢治は丹波八上城・神尾山城にて挙兵し、籠城する。
高国は2人の討伐軍を起こすも寡兵相手に苦戦し敵の援軍もあり撃退された。
丹波での敗報を聞くと晴元と共に挙兵し、高国・稙長に勝負を挑んだ。
京都の桂川で波多野・三好連合軍に高国・武田元光連合軍が大敗すると聞くと高国は将軍・足利義晴を奉じて近江へ逃亡、義堯らはここぞとばかりに勢力を拡大し、高国の勢力は衰退し、落ち目となっていく。
そんな高国に1人の男が手を差し伸べる。
備前・美作2ヶ国を掌握し、1521年に旧主・赤松義村を謀殺し義村の子・赤松晴政を傀儡君主にまつりあげた謀将・浦上村宗であった。
一進一退の攻防も赤松晴政(当時は政祐)の裏切りにより1531年に高国・村宗連合軍を打ち破った。(大物崩れ)
最大の共通の敵を倒した晴元と義堯であったが、その後の方針で突如不和となってしまう。
原因となったのが、晴元と足利義晴の和睦と堺公方の廃止であった。
堺公方とは足利義晴の兄・足利義維を頂とする堺を本拠とした擬似公方であった。
晴元自ら堺公方樹立を努めていたのに突如廃止と義晴との講和という晴天の霹靂というべき事態に反対したのが義堯と大功を重ねてきた三好元長であった。
両者は対立するようになり元長は晴元から離反するも、義堯からは木沢長政が晴元に内通し離反してしまった。
晴元は仇敵であった尾州家の畠山稙長をも味方に引き入れ、連合軍を形成されてしまった義堯は攻撃を受けてしまう。
翌年に長政の居城・飯盛山城を元長と共に包囲し、優位に進めていった。
そしてあと一歩のところで敵の援軍が現れたのであった。
その敵は本願寺であった。
まさに晴元の隠し玉、鉄砲玉ともいうべきもので敵の兵力は凡そ3万の大軍であった。
もちろんかなうわけも無く三好一秀(勝宗とも)が6月15日に討死にすると、義堯の元長も敗走を余儀なくした。
17日には義堯が、20日は元長が自害に追い込まれてしまい、勢力回復していた畠山総州家は義堯の死で勢力を衰退させて没落していくこととなる。
なお、子・在氏の代では皮肉にも敵であった本願寺と畠山尾州家と細川晴元とは味方となり、最期の味方であった三好家とは敵となってしまうのである。
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関連項目
- 畠山義豊
- 畠山在氏
- 畠山尚順
- 畠山稙長
- 細川澄元
- 細川晴元
- 細川高国
- 細川尹賢
- 三好元長
- 木沢長政
- 足利義晴
- 足利義維
- 波多野稙通
- 柳本賢治
- 香西元盛
- 浦上村宗
- 赤松晴政
- 本願寺証如
- 戦国時代の人物の一覧
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