畠山義綱(?~1593)とは、戦国時代の武将である。
概要
父親の後見を受け、権力拡大を図った能登畠山氏の当主。追放されて以後は、よくわからなくなる。
畠山義続の嫡男で、生年は不明。彼の初出は天文20年(1551年)の七頭の乱の時で、畠山義続が決着として幼い彼に家督を譲らされた屈伏現象の象徴であった。というわけで、以後のと畠山氏は畠山七人衆が権勢を握る。
ところが、弘治元年(1555年)以降の温井氏の乱を通して、畠山義続・畠山義綱父子は反乱の鎮圧と権力の拡大に成功する。以後、畠山義続は身を引き、奉行人を配した側近政治による領国再編と権力拡充を行っていき、その象徴が永禄5年(1562年)の気多社の遷宮・造営であったのだ。
また、神保長職と上杉謙信の和睦を斡旋したり、永禄の変の後の足利義昭陣営への接触を試みたりと、外交面でも積極性を見せている。ところが(本当にところが)、永禄9年(1566年)に遊佐続光・長続連らが畠山義続・畠山義綱父子を追放し、以後流浪の身となった。
かくして能登再入国のために上杉謙信に接触し、七尾城包囲まで成功したが、反撃にあい撤退。以後も足利義昭・織田信長政権らに接触したりと、断続的に復権活動を続けたが、天正4年(1576年)を最後に活動が途絶えた。あとはもはや、文禄2年(1593年)に近江国で死んだことしかわからない。
補足
父同様謎の生年が設定されている。全国版から皆勤賞だが、勢力的に不遇の存在。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 60 | 政治 | 68 | 魅力 | 90 | 野望 | 76 | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 41 | 政治 | 50 | 魅力 | 68 | 野望 | 38 | 教養 | 75 | ||||||
覇王伝 | 采配 | 58 | 戦闘 | 56 | 智謀 | 26 | 政治 | 40 | 野望 | 49 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 112(C) | 智才 | 62(B) | 政才 | 120(B) | 魅力 | 73 | 野望 | 74 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 49 | 智謀 | 41 | 政治 | 65 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 56 | 戦闘 | 47 | 智謀 | 36 | 政治 | 53 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 40 | 智謀 | 29 | 政治 | 40 | 野望 | 41 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 54 | 知略 | 36 | 政治 | 62 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 55 | 知略 | 41 | 政治 | 62 | 教養 | 59 | ||||||||
革新 | 統率 | 66 | 武勇 | 48 | 知略 | 44 | 政治 | 72 | ||||||||
天道 | 統率 | 66 | 武勇 | 48 | 知略 | 44 | 政治 | 72 | ||||||||
創造 | 統率 | 63 | 武勇 | 54 | 知略 | 67 | 政治 | 63 | ||||||||
大志 | 統率 | 62 | 武勇 | 54 | 知略 | 67 | 内政 | 62 | 外政 | 66 |
関連項目
- 戦国時代の人物の一覧
- 畠山義続
- 遊佐続光
- 長続連
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