百発百中とは、狙いが全くはずれないことである。
概要
紀元前6世紀に中国の楚で活躍した、全盛期のイチロー並みにチートじみた弓の名人養由基(ヨウユウキ)がこの言葉の起源とされる。
だが歴史上で百発百中という言葉が最初に使われたと確認できるのは、その約三百年後、紀元前281年に遊説家の蘇厲(ソレイ)が養由基を引き合いに出したときのことである。彼の話は『史記』周本紀と『戦国策』西周に登場する。そこで、弓の話は「養由基」の記事に任せ、本記事では「百発百中」という言葉が出てきた文脈について詳しく解説したい。
当時の中国は燕・斉・趙・魏・韓・楚・秦の七大国が覇権を争う戦国時代の真っ直中である。その中でもじわじわと勢力を伸ばしていたのが秦で、将軍の一人白起(ハクキ)が目覚ましい活躍を見せていた。彼もまたチートじみた人物なので「白起」の記事をご覧いただきたい。紀元前293年には韓と魏を破って24万人も殺し、翌年には魏の城を61箇所も攻め落とすという百戦百勝状態だった。
秦の勢力拡張にどこよりもビクビクしていたのが周である。かつて周は諸侯を従え中国を支配する王の国だったはずなのだが、春秋戦国時代を経てその権威は地に落ち、いまや洛陽周辺のわずかな領土しか残されていない。そのなけなしの土地も王族の東周公と西周公が周王を差し置いて取り合うという悲惨すぎる状況で、隣接する魏や韓のお情けで生き延びてるも同然だった。
そんな中で白起が魏を攻めるという情報が入ってくる。そこで蘇厲が西周公に助言した。ちなみに蘇厲は「鶏口牛後」のたとえを使って王たちを説得してまわり秦に対抗する六国同盟を成立させた蘇秦(ソシン)の弟である。
蘇厲いわく、
白起に使者を送りましょう。そしてこう言って説得させるのです。
「かつて楚に養由基という弓の名手がいました。柳の葉を百歩離れた所から射ても百発百中の腕前です。しかし彼にこんなアドバイスをする者がいました。
『確かにあなたはすごい。だがうまくいっている間にやめておくべきだ。いずれ気力と腕力が衰えたらあなたの弓矢もぶれてしまう。一発でも外したら、百発百中の名声も失われるだろう』
白起どの、あなたは韓と魏を破り、趙の土地も奪い取っています。しかしこれからさらに周を通って魏を攻撃したとして、万が一失敗したなら今までの功績も台無しですよ!ここは仮病を使って出兵をやめておくべきです」
西周公がこの提案を受け入れたかは定かではない。そもそも秦がこのときに魏を攻撃するつもりだったかも不明だ。しかし白起が自重しなかったのは確かで、翌紀元前280年には趙を攻撃して2〜3万人殺しているし、紀元前278年には養由基の祖国である楚の首都・郢を陥落させている(楚は陳に遷都)。
仮に白起が蘇厲の言うとおりにしていたなら、あるいは(本当に万が一にも無さそうな気がするが)魏に出兵して負けていたなら、「百発百中」という言葉にも違う含みが加わっていたかもしれない。
ところで皮肉なことに、白起は連戦連勝を重ねた結果として宰相范雎の嫉妬を買い、彼と仲違いした結果、本当に仮病を使って出兵を拒否するという事件を起こしてしまった。このため紀元前257年、秦王の命令で自害している。
それによって秦の勢いが止まったこといえば全然そんなことはなく、翌年の紀元前256年には将軍の楊摎(ヨウキュウ)が韓を攻撃する。このとき西周公は秦軍を攻撃して援護射撃を試みるが、返り討ちに遭って捕まってしまう。結果、西周公の元にいた周王も秦に降伏することとなって周王朝は滅びた。
現代の日本では「百発百中」は小細工無しで狙い続けて当て続けるという意味合いが強い。ただ、宝くじや競馬の予想が当たるぞという宣伝文句で使われることも多いのだが、それらを百発狙ったところで何発当たるかは推して知るべし……。というか、百発百中とうたわれている人や物が本当に生涯命中率100%であるケースはほとんどないのではないだろうか。
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