皇甫嵩単語

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皇甫嵩とは、後漢末期に登場する、軍人である。

生涯のあらまし

生い立ち

字は義州安定那県出身。曾祖皇甫棱は度将軍、祖皇甫旗は扶風都尉、叔父皇甫規は二度度将軍を務めたという、武門における名門といっても差し支えないの出身であった。

若い頃から文武に優れており、書を好みの術の習得に励んだ。孝廉に推挙され、朗中に任命されそうになったが、折悪く皇甫節が亡くなり、喪にするためこれに応じなかった。その後、茂才とされ、清流三君として名高い太尉陳蕃と大将軍竇武に招聘されたが果たせなかった。この頃の彼の年齢はどう若く見ても三十歳をオーバーしておりつまり、三十代無職というわけである。後に霊帝により招聘され、議郎、北地の太守を務める。

黄巾の乱~波才討伐~

184年に太の教張角を中心とした黄巾の乱が勃発すると、対策を協議する議において、皇甫嵩は党錮の禁の解禁と霊帝が所有しているを軍に提供するように霊帝に進言し、霊帝ドケチな彼にしてはしくこれを承諾した。朝廷は皇甫嵩を左中郎将に任命し、同じく右中郎将に任命された朱儁と共に州潁巾党討伐を命じた(三月)。

皇甫嵩と朱儁が朝廷から与えられた軍は、五校と呼ばれる禁軍(屯騎、越騎、歩兵、射、長の事)の合計4167人のみである。これではあまりに数が少ないため、三河(河東、河南河内の三の総称)の騎兵と義勇兵を募集してやっと人数が四万人に到達した。しかし、官軍とは名ばかりで、その九割近くが義勇兵という寄せ集めの軍隊である。皇甫嵩と朱儁はそれぞれ二万の軍を統率して潁に向かった。皇甫嵩と朱儁はそれぞれ別の進路をとった。が、潁に入った朱儁の率いる軍が波才率いる軍に遭遇し敗れる。波才が率いた軍は十万にも上るともいう(四月)。

皇甫嵩はこの頃長社に進出していたが、朱儁の軍を打ち破り勢いに乗った波才軍に包囲されてしまう。自軍の兵達の中に恐怖心が芽生え始めている事を知った皇甫嵩は軍吏を招集して「戦は正と奇が肝要なのだ。兵の多寡は問題ではない。今、賊は原に営を置いている。に乗せて火を放ち易い。もし陰にまぎれて火を放ち、営を焼討ちにすれば、敵は必ず大いに驚いて崩れるだろう」と敵に火計をかける事を提案した。その夕方、強が吹き皇甫嵩は火計を実行した。これはあまりにもタイミングが良すぎると思われるが、おそらく皇甫嵩が強が吹くであろう時期を見計らってこの火計を提案したのであろう。どこぞのボンボン気象予報士な予報っぷりである。

この謀は上手くいき、皇甫嵩は波才達を退けることに成功した。ちょうど、波才達を退けた後、一度敗退してた朱儁と師からの援軍を率いてやってきた騎都尉の曹操と合流した。ちなみに援軍を率いてきたのがのちに人妻好きとして大陸全土にその名を馳せる曹操だったせいで彼はいろいろとひどいにあう。朱儁と曹操に合流した皇甫嵩は波才を追撃し、これを大いに打ち破った。この功績により彼は八千戸の食をもらえる都郷侯に封じられた(五月)。

その後も、皇甫嵩は西にて彭脱率いる巾党を撃破(六月)、倉亭(東にある地名)にて巾と戦い、敵大将であるを捕獲する(八月)など破の勢いで巾党軍を打ち破っていく。

 黄巾の乱~冀州黄巾党本隊討伐~

一方その頃、冀州にいる、張角率いる巾党本隊討伐軍は宦官の讒言により大将である植が失脚、代わりに来た董卓巾党本隊に敗れるなど巾党に押され気味であった。そこで、連戦連勝中の皇甫嵩に白羽の矢が立ち、巾党本隊を討伐する事となった。

皇甫嵩の軍は東からさらに北進し、巾党本隊が立て籠もる冀州鉅鹿広宗(宗)県に軍を進め攻撃を開始する。だが、さすが巾党本隊は格が違った、敵は強く皇甫嵩は勝つことができないでいた。次の日、皇甫嵩の軍は営に閉じこもり、兵士を休ませ、戦況の変化を静観していた。そのとき、皇甫嵩の軍は賊がわずかに油断していたことを察知し、に隠れ、兵を配置し、明けとともにに巾のへ進み、苛にこれを攻めた。戦いは夕方まで続き、ついに皇甫嵩は巾党を大いに打ち破った。張梁り、三万の首をとり、河に逃げた五万人が死に、荷三万台余りを焼き、ことごとくそれらの女・子どもをとらえ、多くの人々を束縛した。ちなみ巾党の導者である張角は既にこの時点で死亡しており、皇甫嵩は張角を開け、屍をさらし首級を挙げこれを師に送った。巾党の将軍張角と人将軍張梁を打ち取るという大功である(十月)。

その余勢を駆って、広宗(宗)県の北方の下曲陽にいる、地将軍を自称する張宝を攻め大勝する。十万あまりの首をとり、の南に観を築いたとのこと。これにより巾党は事実上壊滅し、後は各地に残る残党のみとなった。この功績により皇甫嵩は左将軍に任命され、冀州刺史を領し、槐里侯に封じられ、槐里県と美陽県の土地、合わせて八千戸の食をもらった。この破格の恩賞からも彼の功績が如何に凄まじかったかが見て取れる。

 冀州統治

 冀州刺史に任命された皇甫嵩は冀州から徴収した税一年分全てを飢民に与えた。い話が税を民に返却したのである。人々は皇甫嵩を称え歌を作った。

下は大いに乱れた。は荒れ果て、は子を守れず、妻は夫を失った。
しかし、皇甫様のお陰でまた安らかに暮らす事ができたのだ。」

皇甫嵩は士卒に温情をかけて慈しんだので、部下からの人望が大変厚かった。軍の駐屯地では、常に兵士のための営所を作るのが先で、自分のために宿営を建てるのは後であり、食事も常に兵士たちの後に食べ、眠るのも兵士ちより遅かったという。軍吏が収賄の罪を犯しても罰することはなく「収めたもの返すがよい。その分を私が授けよう」と言い、銭や物を下賜したので、後悔しない者はおらず、自殺した者さえいる。

そんな、皇甫嵩の名を聞きつけ、信都県漢陽の閻忠は皇甫嵩に、独立位につくように進言した。この時の閻忠の説得は松岡修造ばりに熱く、その内容を意訳すると「頑頑張れ!そこだそこだ諦めるな!絶対に頑れ積極的にポジティヴに頑張れ!!周りのこと思えよ、応援してる人たちのこと思ってみろって!お前が立てばみんな味方してくれるって!!!もっと熱くなれよおおおおおおおおおお!!!」といった具合である。だが皇甫嵩はこの暑苦しい必死の説得にはを貸す事はなかった。彼はあくまでの臣である事にこだわった。(ちなみにこの閻忠という男は、一人として評価していなかった若い頃の賈詡の才をただ一人見抜き張良・陳のような智謀の持ち」と絶賛していた)

涼州の乱

185年辺章・韓遂が隴右で反乱を起こした。朝廷は皇甫嵩に詔を下し、長安に回して押さえとし、園陵を守らせた。

辺章らが再び三に侵入すると、また皇甫嵩にこれを討たせた。だが以前、このとき、十常侍忠の法令違反を上奏し、また、譲からの賄賂の要を拒否していたことがあったため、讒言を受けた。く「皇甫嵩は連戦連敗しており駄に費やした物が多い」。

ちなみにこの時、皇甫嵩が辺章の討伐を始めてから五カ月経過していたが、その間ずっと負け続けているのにいまだ軍といての体裁をなしていたら、むしろそっちのほうが凄い。実際は勝つ事も負ける事も着状態が続いていたのだと思われる。

結局、皇甫嵩は召還されて左将軍の印綬を取り上げられ、食六千戸を削られ、二千戸の都郷侯に封じられた。事実上の失脚である。

董卓との対立

その後、鳴かず飛ばずの時期が続くが、188年陳倉を囲んだ梁州の賊の王(註:まぎらわしいが人名です)を討伐するため朝廷は皇甫嵩を左将軍に任命して前将軍董卓を統率させ、計四万の軍を与えた。

その中、董卓は速く進軍して陳倉に向かおうとしたが、皇甫嵩は聞かなかった。董卓く「智者は時に遅れず、勇者は決断をわないものである。救援がければは保てるだろうが、そうでなければは落ち、ここで全滅する情勢になりかねない」。

これに対して皇甫嵩は、「それは違う。勝は、戦わないことに及ばず、人を退ける兵だ。これをもってまず勝つことができないようにし、それから敵に勝つことができるまで待つことだ。不敗の原因はらにあり、必勝の原因は敵にある。彼の守りが不足していれば、自分に攻める余がある。余があるものは九の上で動き、足りない者は九地の下に陥る。今、陳倉は小さいといえども、の守りは固く備えられ、九地に陥っていない。王は強いといえども己を攻めると救えず、九の技ではない。その技が九でなければ攻める者がを受ける。陥るのが九地でなければ守る者を抜けない。王は既にを受ける地に陥っていおり、陳倉は抜けない地を保っていて、私は兵を煩わせず衆を動かすことができ、全勝の戦功を取れるのに、何を今、救いに行くのか」。結局、王は八十日間陳倉を攻め続けたが落とすことはできなかった。

攻め疲れた王達はを払い撤退しようとした。皇甫嵩はその軍に追撃をかけようとすると、董卓がまたもや反対して言った。「それはなりません。兵法には、窮地に追われた敵を迫ることかれ、帰る衆を追うかれとあります。追い込まれたが戦うようなもので、にはがあり、いわんや大軍相手です」皇甫嵩は「そうではない。先に私が攻撃しなかったのは敵の鋭気を避けたのである。今、これを攻撃するのは、敵の衰弊を待っていたからである。疲労した軍を撃つのは、帰る軍を撃つのとは違う。王の衆はその上、敗走し、戦う志をなくしている。整え、乱を撃つのは、窮地に追われた敵に迫る事とは違う」と反論し、追撃に反対する董卓を後拒として残し、皇甫嵩は単独で王の軍に追撃をかけて連戦して敵を大いに打ち破った。その為董卓から恨まれる事になった。(註:逆恨みです)

翌年、朝廷董卓を并州牧に任命して、詔を下して兵を皇甫嵩に委ねるように命じたが、董卓は従わなかった。皇甫嵩の甥にあたる皇甫酈は董卓を命違反の罪でるように進言したが、皇甫嵩は朝廷董卓の命違反の事実を伝えるだけに留めた。霊帝董卓を責め、董卓はますます皇甫嵩にみを募らせた。(註:逆恨みです)

 董卓による報復

190年、董卓は皇甫嵩を召還して門校尉にすると言って、これを殺そうとした。皇甫嵩がまさに出かけようとした時、長吏の梁は皇甫嵩が握している精兵三万で献帝を奪取し、袁紹達とともに董卓を挟み撃ちにして董卓を倒すように進言したが、皇甫嵩はこの進言に従わず召還に応じた。案の定、都につくと同時に投され、あわや殺されそうになるが、董卓と交流のあった息子皇甫堅寿の必死の助命嘆願により何とか許された。

董卓が長安に帰ると、官はの傍らに出迎えて謁した。董卓は御史中以下に皆拝礼をとらせ、暗に皇甫嵩を屈させようとした。拝礼が終わると董卓は手を振りかざして言った。「義、まだ従いたさぬか」皇甫嵩は笑ってこれに会釈した。董卓はそこでわだかまりを解いた。(註:繰り返しになりますがそもそも逆恨みです)

不思議な事に董卓が皇甫嵩を殺さなかった事が、実は董卓がそこまで惨でなかった事の一例として挙げられる事がある。だが、そもそも、皇甫嵩は全く何の罪も犯していないのにも拘わらず、それを門校尉に任命するからと騙して呼び出し、投して殺そうとしている。交遊のあった皇甫嵩の息子とその他多数の群臣からの助命嘆願があって、ようやくやめただけであり、別に董卓が寛容だったとかそういうわけではない。それどころか、董卓は皇甫嵩の叔母に当たる人物が美人と聞き、これを脅して自分のにしようとし多数の部下を引き連れて脅したが手酷く断られ、そのいせに彼女を殺している。

晩年

董卓呂布によって暗殺された後 皇甫嵩は征西将軍に任命され、また将軍に昇進した。その年の太尉に任じられたが、流星があった事によって罷免された。また大夫に任じられ、太常に職を移った。

192年、李傕達が反乱を起こした年に病を患い死亡した。死後朝廷から驃騎将軍の印綬が贈られ、一家の一人が郎に取り立てられた。

人柄

皇甫嵩は情が深く慎み深い性格で忠勤を尽くした。前後に上表を行って諫言を述べ、損益を補った事が五以上もあったが、全て手書きした上で稿を破り捨て、外に広めなかった。また、身を低くして士にへりくだり、門で足止めを食う客はかった。(速やかに人材を登用したということ)

評価

歆は、彼が数々の戦功を挙げながらいずれも同僚の手柄とし、自らの戦功を論じることがなく、そのために恨みや禍とは縁であった、と称賛している。

范曄は彼を称賛しつつも、大業を棄て小義にこだわったことで智者の笑うところとなった、と評している。閻忠の献策を用いず、詔に従わない董卓を罰することをせず、反董卓連合軍に呼応し董卓を挟撃することもしなかったことをすのだろう。

唐代の史館が選んだ中国史64名将の一人に選出されている(他に64名将として選出された三国志関連の人物:張遼 関羽 周瑜 陸遜 羊コ 王濬 鄧艾 張飛 呂蒙 陸抗 杜預

不遇

三国志演義による不遇

黄巾の乱で大功をたてたはずなのに、彼の知名度は恐ろしく低い。そのな理由として、彼の事跡をまとめた伝が陳寿の著作である『三国志』には存在せず『後漢書』にのみに載せられている事、『三国志演義』などでは張角巾党を破るのは劉備達とされており、皇甫嵩は基本的に空気である事等がある。

再評価運動による更なる不遇

かつて三国志悪役とされてきた曹操董卓の再評価が活発になっており、その煽りをまともに受ける形となって更なる不遇の遇となった。以下その一例である。

公式チート曹操黄巾の乱で活躍しなかったわけがない!
 ⇒黄巾の乱鎮圧の際、彼がなした功がほぼすべて曹操が成した事にされる」
董卓って史書ではぼろくそに描かれてるけど、それはきっと後世の歴史たちの捏造だよね!
 ⇒皇甫嵩がいると色々と都合が悪いので存在自体を抹消される」
また亜種として、
董卓夫が及びもつかない破格の人なんだよ!
 ⇒皇甫嵩がいると董卓が逆恨みをしちゃうような小物になるのでやっぱり存在を消される」
というものも存在する。

黄巾の乱で凄まじい功績をたてていて、さらに董卓打倒のチャンスがあったのにもかかわらず、特に何かをする訳でもなく董卓に屈する等、その行動原理が見えづらい人物な上に、群雄割拠の始まった直後に亡くなってしまうので、小説などでは扱い方が難しい人物であるが故にこの扱いも仕方がないと言えば仕方がいのかもしれないが、黄巾の乱事実定し、数々の敵を打ち破った名将の評価としてはあまりにも寂しいものがある。

各メディアにおける皇甫嵩

横山三国志

「賄賂を贈らなかったため失脚した」とナレーションで1コマだけられるのみ。

北方三国志

波才討伐の際の火計は同僚の朱儁と共に発案した事になり、張宝の討伐こそ朱儁に譲っているもののその前の巾本隊はきっちり潰している。曹操からも「皇甫嵩ならなんとか冀州を定するだろう」「思った通り大勝利に終わった」と評価され、さらに朱儁と合わせて「愚かではない」とも評されている。

さらに李傕達が反乱を起こした際の長安防衛の揮をとった事になっている(史実では李傕達を迎え撃ったのは呂布なのだが、北方版ではこの時期に最の妻を亡くすという悲劇に見舞われていたため皇甫嵩に変更された)。結果として敗戦に終わったものの、最初から兵の中に李傕の元部下が混じってるような軍を率いさせられたのだからどうしようもなく、無能と言い切る事はできない。

柴田錬三郎三国志

的な無能な官僚として描写される。朱儁ともに美女を抱きながら宴を開いていたのが一の見せ場。

爆風三国志・我王の乱

的な(ry波才を打ち破るきっかけとなった火計を行ったのが劉備という事になっている。救援に来た劉備を官軍のテンプレ通り冷遇する。皇甫嵩の活躍はまったく描写されず、董卓に屈したエピソードだけはきちんと載せている。……作者は皇甫嵩に何か恨みでもあるのだろうか?迷言「わしが一番大事なのはわしの軍じゃー!」

蒼天航路

曹操董卓を破格の人として描写するため、極端な小化が立つ。董卓との因縁は一切出てこない。黄巾の乱の時、曹操孫堅を上手く利用しようとして振り回される。迷言「手柄は欲しいが前線には出んぞ!」

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皇甫嵩

115 ななしのよっしん
2018/02/15(木) 20:56:24 ID: tIc9Bd9SdF
そんなになっているのもあるのですね。
116 ななしのよっしん
2018/04/03(火) 12:51:34 ID: yE8LnPzMU+
熱量は認めるがとりあえず北方三国志の項は直しとけよ馬鹿記事製作
117 ななしのよっしん
2018/04/03(火) 12:56:51 ID: EwqnaUbP40
ほならね
118 ななしのよっしん
2018/06/17(日) 11:49:23 ID: ApHJZdnz5i
宮城谷昌光の「三国志名臣列伝 後漢編」は皇甫嵩や朱儁や植が役の短編が入っててファン必読だよ
119 ななしのよっしん
2019/01/29(火) 17:49:51 ID: a5gjzvCLxx
こんな有能がいても政権維持は理だったのか
120 ななしのよっしん
2019/01/29(火) 19:09:46 ID: erorSLuuY2
皇甫嵩は後に董卓に屈したというかったとこが、英雄たる資格なしという感じかな。

曹操孫堅劉備などはみな董卓の敵方で活躍した人であることが、さらにそれを際立たせる。
121 ななしのよっしん
2019/03/28(木) 03:57:38 ID: mm5qOipwV5
ゲーセンで稼働中の某tcgゲームやってると、コイツ筆頭にしたがなんで他の勢に負けたの?ってレベルで強い。
122 ななしのよっしん
2019/04/17(水) 23:58:11 ID: 56aD0pb/OU
皇甫嵩董卓って実はそんな仲悪くなかったんじゃ…
董卓の命違反にも、皇甫嵩は報告だけで留めてるし、
董卓にとって恨み深いはずの皇甫嵩を何だかんだ許してるし

そして何より、皇甫嵩の忠臣としての誉れが高いなら、
董卓のすげ替えは絶対許せるものじゃないはずなんだが
仮に彼にその意思がなかったとしても、董卓にとっては、憎き相手であり、名将であるという、危険人物な訳だから、何としても粛清するんじゃないだろうか
123 ななしのよっしん
2019/05/27(月) 23:09:41 ID: K0+6MIQt+4
で、いつになったら朱儁の記事はできるんだ?
もっとマイナーな武将の記事がいくらでもあるのに
124 ななしのよっしん
2019/10/18(金) 19:28:15 ID: oCuU6yTaaC
知名度は別に低くないだろう