相馬主計とは新選組の隊士である。
概要
天保14年(1843年)、常陸国笠間藩の生まれとされる(天保6年生まれの説あり)。通称肇(はじめ)、主殿(とのも)。前半生については不明な点が多い。新選組に入隊したのは慶応3年(1867年)の後半とされる。
慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いに敗れて敗走後、3月の甲州勝沼の戦いに参加したが、近藤勇が投降すると土方歳三の使者として出頭。その後釈放されると旧幕脱走兵に加わり、仙台で榎本軍に合流して蝦夷に逃れる。陸軍奉行添役として土方を補佐したが、土方の死後新選組隊長に就任。降伏後の明治2年(1869年)6月30日、榎本武揚や大鳥圭介ら函館政府幹部と共に東京の軍務局糾問所に投獄された。その後大石鍬次郎による坂本龍馬暗殺に関する供述の確認を取るため尋問を受けた相馬は、「あれは京都見廻組がやったこと」と供述して新選組の容疑を否認した。
兵部省口書 箱館降伏人 元新選組相馬肇事
相馬 主計 年二十八才
口 書(前略)一、坂本龍馬儀は私は一向存知申さず候えども、隊中へ廻文をもって右の者暗殺いたし候嫌疑あい晴れ候趣、全く見廻組にて暗殺いたし候よしの趣、初めて承知仕り候。(下略)
明治3年(1870年)10月10日、伊東甲子太郎暗殺事件に関与したとして伊豆諸島新島への終身流罪の判決を受け新島に流される。新島で寺子屋を開き結婚。明治5年(1872年)10月13日に特赦を受けて東京に移り、政府機関に出仕したが、その後切腹。妻のマツに対して「何事も一切他言無用」と言い残して死去。切腹の理由や正確な時期については不明。
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