真木嶋昭光(?~1646)とは、戦国時代の武将である。
苗字の表記ゆれが激しい他、読みも当時はまだ「まきのしま」では?という説も見られる。
概要
足利義昭が京都を追われ、鞆に動座した後に頭角を現した最末期の重臣。官途は玄蕃頭。
その後、いろいろあった末に豊臣家に仕えることとなり、大坂の陣にも豊臣方として参戦した。
ここまでのあらすじ
真木嶋氏とは応仁の乱後の奉公衆再編の過程で姿を現す、新しい氏族である。山城国槇島城主であった真木嶋氏は、足利義尚の代の真木嶋光通が最初に確認される人物である。
だが、『細川家記』によるとまず一色輝元(あるいは一色輝光)が槇島城をを有して槇島を称し、その子である孫六重利が真木嶋昭光であるとされる。というか、この本では桃井氏かもしれない的なことも書いているので、たぶん確定していない。
どれが正しいにせよ、幕臣としては本当にぽっと出であり、『言継卿記』の永禄13年(1570年)頃の項目から、走衆や御部屋衆としてようやくそれらしき人物が散見されるという存在であった。
幕臣・真木嶋昭光
一次史料では真木嶋昭光は元亀年間から名前が見いだせる存在で、元亀2年(1571年)の益田元祥が大外様に任じられた際の発給文書がその初見である。
一方近世以降の二次史料によると、足利義輝に近侍し、寝乱髪という太刀を拝領したこと、永禄の変の後足利義昭に仕えて細川藤孝と懇意にした一方で、永禄12年(1569年)の本圀寺合戦の際奮戦し、織田信長から来太郎国行の太刀と馬を拝領したこと、加藤嘉明の父・加藤教明と懇意にして嘉明の烏帽子親となったこと、などが伝わっているが、真実かどうかは不明である。
その後、元亀3年(1572年)に石清水八幡宮に足利義昭の代官として参詣したことが、『兼見卿記』に載っているが、天正元年(1573年)に足利義昭が槇島城で蜂起した頃からようやく、一色藤長と並ぶ足利義昭側近という地位へと昇っていったようである。
やがて一色藤長が失策によって足利義昭のもとを追われた、鞆動座後の史料によると、細川奥州家の細川輝経、義昭を反織田信長の立場に就かせた要因ともいわれる古参家臣の上野秀政、奉公衆四番の番頭である畠山昭清に次いで扱われ、さらにこの3人よりも倍の礼銭が支払われていたことが記されている。つまりこの真木嶋昭光は足利義昭の直臣筆頭の立場にあり、外交担当として現地に赴くということもなく、常に将軍の補佐に就いていたのであった。彼の副状などが、『毛利家文書』、『吉川家文書』、『島津家文書』など西日本の各地に遺されている。
さらに織田信長の死後、天正11年(1583年)には柴田勝家が真木嶋昭光のルートで毛利輝元に出兵の際足をしている。しかし、天正15年(1587年)にようやく足利義昭が豊臣秀吉から帰洛を許されると、真木嶋昭光もこれに従い、以後豊臣秀吉の奏者役として出仕したのである。
その後はかつての縁から毛利輝元や小早川隆景、吉川広家などの対応をしていったが、慶長2年(1597年)についに足利義昭が亡くなる。豊臣秀吉は真木嶋昭光に葬儀をある程度任せ、施薬院全宗邸で真木嶋昭光、柳沢元政、西笑承兌、一色昭秀、上野勘左衛門、上野御吉、小林家孝らが葬儀を取り仕切り、真木嶋昭光も剃髪した。
豊臣家臣・真木嶋昭光
その後、豊臣秀吉、次いで豊臣秀頼に仕え、大坂七手組の速水守之組に所属。軍記物語の『難波戦記』によると知行は二千石とのことらしい。
慶長16年(1611年)には豊臣秀頼の上洛に付き従い、以後織田有楽斎の茶会に招かれたことや、足利義昭の法事に参加したことくらいしか、しばらく記録はない。
慶長19年(1614年)に片桐且元が暗殺への警戒態勢を敷き、対抗勢力が織田有楽斎邸に集まると、速水守之と今木一政が片桐邸に、竹田永翁と真木嶋昭光が織田邸に派遣されて、双方兵を解くことになったらしい。
やがて大坂の陣のうち大坂冬の陣が始まると、速水守之の組子ではあったものの一騎役と奏者番を務めた。この後、籠城中は赤座永成とともに軍事行動を行うことが多かった。しかし、11月11日に変心を疑われ、真野頼包、野々村吉安、北川一利が派遣され、『北川次郎兵衛筆』によると北川一利の対応で真木嶋昭光は武装を解き、大野治長に引き渡された後、申し開きが通って赦されたようだ。
その後、肥後細川家の公式記録である『綿考輯録』によると、慶長20年(1615年)になると細川忠興の娘・万姫と烏丸光賢の婚礼を利用して、万姫を人質にしようとした豊臣方の企てを細川忠興にひそかに知らせたとのこと。
大坂夏の陣が始まると、引き続き赤座永成とともに各地を転戦したが、5月6日に後藤又兵衛が戦死したのち、敗残兵をまとめて水野勝成に一当たりした。決戦が行われた5月7日には天王寺石鳥居の南に備えていたようだ。
敗戦後、細川忠興と加藤嘉明が徳川家康に掛け合って赦免。剃髪して云庵と名乗って細川家、加藤家から合力米が給されていたが、やがて細川忠興自身の説得で細川家の治める豊前に下向した。そこでは千石を与えられて中津の普請衆、留守居衆に加えられ、肥後への転封にも付き従い、天保3年(1646年)に享年百十余歳という大往生を遂げた。
大坂の陣には弟とされる真木嶋重継(諸説あり詳しい系譜関係は不明)、重継の弟の真木嶋重春、昭光の嫡男とされる真木嶋昭重(実は一色昭信の三男らしい)ら、真木嶋一族が多数大阪方として加わった。
真木嶋重継は、蜂須賀至鎮の重臣で兄とされる岡重堅の縁を頼って落ち延び、細川忠興の四男・細川立孝に仕えた後、松平直政に仕え、真木嶋貞右衛門(後述の真木嶋昭重の長男と同一人物)の子・一色内蔵を養嗣子としたらしい。
真木嶋昭重は、細川忠利の肝煎で藤堂高虎に出仕し、その後も蒲生忠郷、加藤嘉明と各藩を渡り歩き、松平忠明のもとに落ち着いた。真木嶋昭重の長男・真木嶋貞右衛門は松平忠明にそのまま仕え、次男・真木嶋重宣は真木嶋昭光の養嗣子となり、三男・真木嶋重時はその兄である真木嶋重宣の養嗣子となって、以後子孫は代々肥後細川家の家臣となっていった。
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