真田昌幸単語

サナダマサユキ
  • 4
  • 0pt
掲示板へ

真田昌幸とは、日本戦国時代の武将である。一時期、武藤喜兵衛とも。

概要

真田昌幸(1547年-1611年7月13日)は、信濃真田幸隆の三男として生まれた。
幼少時に武田への人質として出され、武田晴信(信玄)の近習として育つ。
その才智と武勇を信玄にされ、武田一族に連なり系が絶えていた武藤へと養子に入り武藤喜兵衛を名乗った。
長篠の戦い真田を継いでいた長男・信綱と次男・が討死すると、三男の幸が真田を継ぐことになり再び真田姓に戻る。

武田勝頼の死によって武田が絶えると、真田織田信長の下へ入る。
しかし、直後に信長が横死してしまい、その後は北条・徳上杉と次々と替え。
最終的には上杉を通して羽柴秀吉に臣従した。
次男の信繁(幸村)はこのとき秀吉の下へ人質として出されている。

秀吉の死後、関が原の戦いの際には信繁とともに石田三成側(西軍)へとつき、上田城にて徳川秀忠軍およそ4万をわずか2千の兵で足止め。
この戦いにより真田の強さが全に広まったのである。
西軍敗退にともない幸と信繁は高野山近く九度山に居を命じられ、幸はその地で病没した。

人物像

幸を表現した言葉として、「小信玄」「が両眼の如し(信玄から)」「表裏の者(くわせもの、秀吉から)」「信玄の懐」などがある。
現代では息子の信繁(幸村)の名が有名となり幸はそのという印が強いが、これはその後の講談などによって付けられたものであり当時の知名度としては圧倒的に幸が上だったと思われる。
謀略・武勇ともに長け、攻戦に滅法強かった。
作りの名人でもあり、上田城のほか崎の新府をも築している。

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける真田昌幸の一覧。「チート親子」の親の方である。
軍事 内政
群雄伝(S2) 戦闘 96 政治 89 79 野望 81
武将録(S1) 戦闘 90 政治 86 76 野望 72 教養 78
覇王 采配 91 戦闘 79 智謀 93 政治 92 野望 89
戦才 164(A) 智才 196(A) 政才 180(A) 85 野望 91
戦闘 78 智謀 97 政治 91
烈風 采配 93 戦闘 68 智謀 94 政治 88
世記 采配 88 智謀 86 政治 87 野望 89
統率 88 知略 86 政治 82
下創世 統率 87 知略 86 政治 81 教養 71
統率 97 武勇 76 知略 98 政治 91
統率 97 武勇 76 知略 98 政治 91
創造 統率 94 武勇 85 知略 98 政治 83
大志 統率 93 武勇 78 知略 99 内政 84 外政 99

 

関連動画

戦国大戦

「虎のから逃れられると思ったか?」
戦国大戦の彼は2コス、武6統率9とやはり統率よりの武将となっており、武田軍では持っている武将が少ない制圧を持っている。計略は信玄の炯眼。敵の武と統率の変化を全て戻す妨形。範囲は狭いが本人が騎隊なのでそこまで気にはならない。そして効果時間は異様に長い。幸がいるだけでほとんど何もできないデッキもあり、武田メタゲームとしての重要存在となっている。
大抵お館様である武田信玄(瀬田)と一緒に行動しており、武上昇はそれほどでもない瀬田に旗をの弱点である超絶強化を幸で阻止するという役となっており相性が良い。
なお息子幸村も既に戦国大戦で参戦している。ただしBASARAの方で。

関連項目

【スポンサーリンク】

  • 4
  • 0pt
スマホ版URL:
https://dic.nicovideo.jp/t/a/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%98%8C%E5%B9%B8

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

真田昌幸

106 ななしのよっしん
2019/12/01(日) 14:45:36 ID: oSMhb6L/Sp
>>105
は信玄に見出されているし旧領取り戻せたし、人個々ならともかく真田全体としてなら武田に義理立てしているでしょ?(国衆として保険は掛けてるだろうけど)

実際幸のの信綱は勝頼の代では信濃衆筆頭であり、武田通字である「信」が与えられてる(他だと武田祖代々である馬場信春らい。高坂昌信」は諸説あって信憑性乏しい)忠義ければ処まで破格の扱いにはならないかと
107 ななしのよっしん
2020/04/02(木) 21:19:54 ID: O2IctFPMut
岩櫃に来いと言ったらしいが、
どうやって織田に補足されず新府から岩櫃まで行くのか教えてくれ、絵事だし作り話と見れる。
北条と通じてたにも関わらず忠臣扱いなのが気に入らない、
言っとくが北条と通じることは国衆として生き残るための必要な策だから責める気はない。
108 山本翔太(4408)
2020/04/20(月) 22:59:07 ID: LjC35l7iXm
真田家紋
タイトル:
Twitterで紹介する

109 ななしのよっしん
2020/06/05(金) 23:50:49 ID: 5IlEnqCdXV
寂しく死んでいった真田昌幸より徳に取り入ってお存続してヨタ話での寵を得た伊達政宗のほうがよっぽど表裏の食わせものだよね。なぜか過小評価されてるけど。
110 ななしのよっしん
2020/06/06(土) 00:23:58 ID: 5IlEnqCdXV
幸は豊臣政権下でどう立ち回ったのかな?政権中枢に食い込む気はあったのかな?ただの便利な具でしかなかったのかな?諸大名それぞれ置かれた条件は違うけど領地を増やすとか奉行衆として政権中枢でふるうとか何かしらの野心とそのアクションがないと有能でも器用な人どまりかなって思うよ。おを残したのは信之だし残した大名は他になんぼでもあるしね。
111 ななしのよっしん
2020/07/26(日) 20:59:00 ID: 0rFE/2C7p4
戦略面では失敗も多いけど戦で挽回する真田昌幸
良くいえば渋い、悪くいえばあか抜けない泥臭い武将。
下分けの判断ミスは流石に戦術では挽回できなかったけど結果長男を残し、次男が豊臣に殉死する事で名も上がった。
あの世ニヤリと笑っているだろう。
112 ななしのよっしん
2020/08/01(土) 19:22:36 ID: BKoWjCB3j5
関ヶ原で真田が二分されたのは意図的なもんじゃなく、
西軍に寝返った幸に、信之が同調しなかったから結果的に
そうなっただけだし
つまり、(勝手に)信じてた息子に裏切られたんだよ幸は
113 ななしのよっしん
2020/10/09(金) 15:03:05 ID: CIhxgalupx
意図的だったとしてもそうじゃないにしても親子や一族で東西に分かれて行動してる大名は多い
何かあったら御存続のため親子兄弟で殺しあうのは平安時代からの武の習いだしな
114 ななしのよっしん
2021/01/26(火) 16:51:29 ID: ZACD0O5LPa
110
島津でさえ田舎者すぎて中央で馬鹿にされてたのに信州クソ田舎雑魚真田豊臣政権下で成り上がれるわけないだろ

しかも東日本秀吉が一番厚遇して政権専務クラス家康と仲が悪いんじゃどうあがこうがめちゃくちゃ閑職だよ
そんな事は幸本人も分かってて生きていただろうが
115 ななしのよっしん
2021/01/26(火) 20:52:16 ID: 6BC4vJRst+
高野山の蓮華定院に幸所蔵の秀吉像が伝わってる
関ヶ原で負けた後にわざわざ持って行く辺り、秀吉には結構入れ込んでたのかもしれない