真野一綱 / 真野助宗(1545?~1615)とは、戦国時代の武将である。
概要
豊臣秀頼の馬廻である大坂七手組の番頭の一人。蔵人頭。なお、諱は『衡梅院歴代略記』などの一綱の他、『難波戦記』の助宗と揺れている。一応宗信という署名が残っているが、どうやらこれは法名のようだ。
尾張国海東郡津島村の出身であるため、昔からいたような気もするのだが、羽柴秀吉の古参家臣の真野左近とこの真野蔵人が同一人物かどうかはっきりしたことは言えない(妻も異なっているため)。
一応真野蔵人とされる人物が、名前を始めてみせるのは天将16年(1588年)の後陽成天皇の聚楽第行幸の際である。以後も豊臣秀吉に側仕えし、関ヶ原の戦いも終わり豊臣秀頼が成長したころもそれは変わらなかった。
かくして大坂七手組が編成され、その番頭になるが、大坂冬の陣の開戦ごろにはすでに高齢だったために、縁戚の真野頼包(出自には諸説あり)にその座を譲っている。しかし、大坂七手組と後藤光次との交渉に際しては、彼が表舞台にいたようだ。
大坂夏の陣が始まると、妻を離縁した後、5月7日に切腹して果てた。平野長泰の記録によって彼が同じく大坂七手組の頭だった堀田正高と自害したのがここだとわかり、『翁草』の病死や『諸方雑砕集』の前年に死去、『大坂御陣覚書』の5月6日に井伊直孝隊によって討たれた、に比べると蓋然性が高い。
妻は片桐且元の妻の姉妹で、前述の通り、開戦後の自分の手元に残すには不適当と離縁して、蜂須賀家に送り届けている。
関連項目
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