この鎮魂慰霊、慟哭の中に、われら国を超え、民族を超え、世界人類永遠の平和をここに誓う
知覧特攻平和会館「慟哭、誓いの碑」
知覧特攻平和会館とは、鹿児島県南九州市知覧町郡にある太平洋戦争期に編成された大日本帝国陸軍航空隊の特攻隊員に関する遺品や関係資料を展示する施設である。
概要
建設理念は、「特攻隊員や各地の戦場で戦死された多くの特攻隊員のご遺徳を静かに回顧しながら、再び戦闘機に爆弾を装着し敵の艦船に体当たりをするという命の尊さ・尊厳を無視した戦法は絶対とってはならない、また、このような悲劇を生み出す戦争も起こしてはならない」[1]。同様の理念は、南九州市の「特攻平和会館条例」にも謳われている[2] 。1036名の特攻隊員の遺品などが収集・保存・展示されている他、語り部による講話も行われている(要予約)。
広島県や長崎県で「原爆」が語られ、沖縄県で「地上戦(沖縄戦)」が語られるように、鹿児島県では「特攻」で戦争が語られることが多い。1964年から1965年にかけて『週刊朝日』で連載された高木俊朗による知覧を舞台にした一連の戦記シリーズ(のち『知覧』(朝日新聞社、1965年)として書籍化、現在は『特攻基地知覧』に改題。)が、当時ベストセラーとなり、「特攻=知覧」というイメージに一役を買った。
特攻平和会館の他にも鹿児島には、万世特攻平和祈念館など特攻関連資料館、慰霊碑、基地跡が存在する。
知覧特攻平和会館は県内にある指宿や霧島と並ぶ屈指の観光地で、かつては年間約60万人の観光客が訪れていたが[3] 、平成28年は35万人程度にまで落ち込んでいる[4] 。学校の遠足・修学旅行先の定番であり、九州では被爆地・長崎と並ぶ平和教育としての役割も担わされている。毎年5月3日には、特攻慰霊祭が開かれている[5] 。
知覧には、特攻平和会館とともに富屋食堂・旅館跡という特攻関連の場所がある。ここは特攻隊員に慕われた「特攻おばさん」こと鳥濱トメさんが経営していた食堂・旅館跡である。建物自体は建て替えられたが、現在も同じ名前で開業している。
展示されている航空機
※三式戦闘機「飛燕」II型改が展示されていたが、2018年3月よりかかみがはら航空宇宙科学博物館に移されて展示されている。
沿革
昭和55年6月、知覧町が甑島手打港沖に海没していた零式戦闘機を引き揚げ。その後手入れし、遺品館に移設。8月13日除幕式を行う。
大刀洗飛行学校知覧教育隊時代
「神風特別攻撃隊」の記事も参照。
戦時中、鹿児島県は「特攻銀座」と呼ばれるほどその特攻基地が集中していた。いわゆる“神風”と呼ばれる航空機特攻以外にも、回天(人間魚雷)や震洋(モーターボート特攻)、海龍(有翼小型潜水艇)、蚊龍(特殊潜航艇)など、さまざまな特攻作戦の基地が鹿児島県内に配備・建設中であった。
その役割としては、当時苛烈な状況であった沖縄戦を支援する、沖縄戦のあとに予定されていた米軍上陸作戦を阻むいわゆる本土決戦の最前線で戦うことにあった。
知覧特攻基地もそのうちの一つだったが、元々は大刀洗陸軍飛行学校知覧分教場(陸軍の少年飛行兵訓練場)として昭和17年3月8日、開所された[6]。本体である陸軍太刀洗飛行場は、1919年に福岡県大刀洗村に設けられて「東洋一の飛行場」と称されていたが、当時は日中戦争の泥沼化や太平洋戦争開戦などにより、さらなる航空戦力拡充が図られていた。
ここに建てられたのは、県道や町道が通り、私鉄の南薩鉄道知覧線が走るなど交通の便が良かったこと、大陸との距離、風向き・地質など自然の条件にも恵まれていたことによる。また昭和14年に、留守第六師団経理部長の主計大佐・石原通が属官の大長義市を従えて、当時の知覧町長・佐多操町長と面会し、飛行場建設の意向を伝え知覧町に協力を求めているが、それまでに知覧町側の積極的な誘致活動があったという[7]。
昭和17年3月には、大刀洗飛行学校知覧教育隊と名を変え、少年飛行兵、下士官学生、特別操縦見習士官など400名がここで訓練を受ける。しかし、戦況悪化に伴い、昭和19年の第15期少年飛行兵を最期に、知覧教育隊は解散し、昭和20年から実戦部隊が駐留、特攻基地へと変貌を遂げていく。
特攻基地化と住民の協力
特攻基地に特化するなかで、滑走路の延長や施設の分散化が図られる。兵舎は森林のなかに三角兵舎をバラバラの位置に配置、飛行機は保護するため土の壕(掩体壕)を作り、いざという時は木々を被せてカモフラージュをした。
知覧からも多くの成年男子が兵隊に取られたが、老若男女問わず、多くの人々が動員・奉仕名目に作業に従事した。学生も同じ状況で、薩南工業の生徒は基地での作業に従事した。鹿児島市の一中(現・鶴丸高等学校)、二中(現・甲南高校)などからも、女子学生が動員された。
知覧高等女学校の生徒(通称:なでしこ隊)は、昭和20年3月27日からの約3週間であったが、出撃を間近にした特攻隊員の身の回りの世話をし、彼らと交流をした。特攻出撃自体が極秘事項であったので、隊員が家族に手紙を書いたり、形見を送るのは極めて危険な行為であったが、それらを弁当箱の下に隠したりするなど、手紙や遺品を女学生は持ち帰ったという。
奉仕は献身的に行われたが、4月半ばを過ぎると空襲が激しくなり、掩体壕も役に立たないほどになった。3週間経ち、奉仕は打ち切りになった[8]。
一方で、現在も「知覧茶」として親しまれているように、戦前から日本有数の茶の生産地であった知覧では、基地のための土地収用や戦時中は食糧増産のために芋畑になるなど、茶業関係者にとっては不満が多かった。なので戦争が終わるとすぐに基地の建物は解体され、元の茶畑に戻ったという[9]。
アクセス
作品
関連動画
関連コミュニティ・チャンネル
関連リンク
関連項目
脚注
- *知覧特攻平和会館とは 知覧特攻平和会館
- *知覧特攻平和会館条例 平成19年12月1日 条例第118号
- *特攻の歴史、若者語り継いで 知覧の資料館、初めて出張展示 産経新聞 2018年2月8日20時58分 2019年3月7日閲覧
- *地域再生計画 内閣府地方創生推進事務局
- *第64回知覧特攻基地戦没者慰霊祭 鹿児島県 更新日:2018年4月13日 2019年3月7日閲覧
- *大刀洗陸軍飛行学校知覧教育隊 ぶらり重兵衛の歴史探訪 2019年3月7日閲覧
- *清武英利「幻の特攻基地 万世-覆された市史」(『歴史通』11月号、ワック株式会社、2013年)
- *山本研二「鹿児島県の特攻基地と地域社会-知覧・万世」『地域のなかの軍隊6 九州・沖縄 大陸・南方膨張の拠点』林博史編、吉川弘文館、2015年
- *「逆輸入される「記憶」-知覧・特攻戦跡」『「戦跡」の戦後史』福間良明、岩波現代全書、2015年
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