短歌とは、古来から詠まれている五七五七七の31文字(いわゆる「みそひともじ」)で構成される和歌の一形態である。
概要
和歌の形態には沢山の種類があり、ベースとして五音の句と七音の句を組み合わせた五七調もしくは七五調で構成されるが、この形態の一つとして、短歌がある。
ここではメジャー・マイナー含め、和歌の歌体を幾通りか紹介する。
長歌
五音+七音のパターンを何回か繰り返したあとに、最後を五・七・七音で締める形態。なお、下の例歌のように、長歌のあとに反歌と呼ばれる短歌を添えることも多い。飛鳥時代・奈良時代に多く作られた。
「遅刻する!」早足になる国道の歩道の脇のプランター土から伸びる黄緑の竿に一輪咲いている白くうつむく鈴蘭に歩みは止まり微笑が浮かぶ
急ぎ足国道の脇に咲いている鈴蘭の花に一旦停止(平優理氏(サイトより引用))
短歌
五七五七七の五句で一首をなす、和歌の代表的な形式。現代において作られている和歌は、ほとんどが短歌である。
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日(俵万智『サラダ記念日』)
片歌(かたうた)
古事記や日本書紀に見られた和歌の一形態。五・七・七音の三句で成る。和歌の形態としては最も短い。ある人が作った片歌に対してほかの人が片歌で応じる質疑・応答の体をなしているものもある。
愛(は)しけやし我家(わぎへ)の方よ雲居立ち来も(『古事記』倭武尊)
旋頭歌(せどうか)
五七七五七七の都合六句で構成される和歌の一形態。多くは飛鳥時代に詠まれた。もともとは前半の五七七と後半の五七七で問答の体をなすものであったとされ、このことから「頭句を旋(めぐ)らす」という意味で旋頭歌(せどうか)と呼ばれる。
白雪の常敷く冬は過ぎにけらしも春霞たなびく野辺のうぐひす鳴くも(『万葉集』)
仏足石歌(ぶっそくせきか)
五七五七七七の六句で構成される和歌の一形態。奈良時代に若干の作例がある。そのほとんどは薬師寺の仏足石(釈迦の足形を転写したとされる石)の付属の碑に彫られたものであるため、この名称がある。六句めは五句めの表現を受けて言い換えたかたちになっているものが多い。
釈迦の御跡岩に写し置きうやまひてのちの仏に譲りまつらむ捧げまうさむ(薬師寺仏足跡歌碑)
短歌の歴史
短歌という形式がいつごろ確立したのかははっきりしない。『古事記』にはすでに五七五七七の形式の短歌が見られる。奈良時代に編纂された『万葉集』には貴族階級のみならず一般民衆の作品とされるものも多数見られ、身分の上下を問わず親しまれていたらしい。
長歌、旋頭歌などは平安時代以降すたれたが、短歌は逆に隆盛し、平安時代から鎌倉時代にかけて多数のすぐれた作品がつくられた。この時代、特に宮廷では一種のコミュニケーションツールとして用いられ、何かにつけて短歌を贈答する習慣があった。つまり実用の技術でもあったのである。
その後、連歌や俳諧といった新しいジャンルに押され長く停滞するが、江戸中期に国学において和歌の研究が盛んになると、それにともなって実作の方面でも新境地を切り開く者が現れだした。
明治に入るとお決まりの言文一致、ロマン主義、自然主義、プロレタリア文学などの運動の影響を短歌もいちいちこうむり、また太平洋戦争においては戦意高揚のために政府によって利用されるなど社会の動きにも翻弄されつつ、多くの愛好者を獲得していまなおさかんに作品を生み出しつづけている。
短歌の作りかた
短歌を作る上で基本的には堅苦しい規則はない。俳句とは違い、季語を入れなくてはならないということもない。ただ、最低限五七五七七の定型を意識することが必要である。
近世以前の作品を強く意識している作者は、文語で作ることもある。また、歴史的かなづかいで作品を表記する作者もいる。文語と口語、歴史的かなづかいと現代かなづかいのどちらを採用するかは基本的に各人の自由である。(ただ、老婆心からひとつ忠告しておくと、文語や歴史的かなづかいを用いる場合は文法・語法・かなづかいの面でミスを犯す危険が大きくなるので、注意が必要である)
要するに好きなように作るのがいいと思うよ。
発表の場
さて、作ったら人に見せたくなるのが人情。もちろん家族や友人に見せるのもいいが、もっと多くの人に見てもらいたいという方もあろう。
短歌は現在ごくメジャーな文芸ジャンルであり、非常に多くの無名の作者が存在している。そして、そうした人々が作品を発表することができるチャンネルもいろいろある。そうした発表の場のうち一般的なものを以下に紹介する。
新聞
たいていの全国紙・地方紙では週一回程度、読者から応募された短歌・俳句を掲載している。この短歌・俳句欄をよく読めばどこかに応募方法が書かれている(はずである)ので、これに沿って作品を送ると、選考のうえで優秀な作品が掲載されるという寸法である。選考は新聞社から依頼された歌人・俳人がおこなっている。
記事編集者の経験から言うと、競争率は概して高く、めったに採用されません。落選してもめげずにやりましょう。
短歌雑誌
短歌雑誌にも読者から応募された作品を掲載するコーナーがある。2015年現在刊行されている短歌雑誌は以下の4誌。
『短歌』(角川書店、月刊)※通称「角川短歌」
『短歌研究』(短歌研究社、月刊)
『歌壇』(本阿弥書店、月刊)
『現代短歌』(現代短歌社、月刊)
一般の書店に並んでいるし、図書館に入っていることもあるので、興味のある方はいちど手に取ってみることをおすすめする。有名な歌人の新作、座談会、エッセイ、評論などいろいろ載っている。
また、上記4誌のうち『短歌』『短歌研究』『歌壇』は、公募の新人賞を毎年開催している。受賞者は多大な注目を浴びるので、多くの人に作品を読んでもらいたいという方はチャレンジしてみるのもよいのではないだろうか。
テレビ・ラジオ
テレビやラジオの番組で作品を募集しているものもある。「NHK短歌」が有名だが、それ以外の一般の番組でも、何らかの企画で短歌を募集することがある。
結社・同人
要するに短歌のサークルである。結社と同人の違いははっきりしないところもあるが、おおまかに言って、結社はタテのつながり重視で同人はヨコのつながり重視らしいです。全国規模のものもあれば地方のものもある。多くは会誌の発行やオフでの歌会をおこなって、メンバーに切磋琢磨の機会を提供している。また、メンバーになって会費を払うと会誌に作品が載せてもらえる。
たくさんある結社・同人のうちどこを選べばいいのかだが、好きな歌人が所属しているところを選ぶのがいちばんもっともだろう。前述の短歌雑誌に歌人の作品が載る場合、名前の後に結社・同人が記載されるので誰がどこの所属かはすぐわかる。また、雑誌に結社・同人の広告が掲載されることもよくある。頼めば会誌の見本を送ってくれるところもあるので、参考にするといいだろう。なかには会費に学割料金が設定されているところもあったりする。
学校のサークル
学校に短歌サークルがある場合もある。大学のものだと京大・早稲田・國學院が有名。学外の人を受け入れているところもある。活動内容は会誌の発行と歌会が主だと思われるが、サークルによって違いもあるかもしれない。
ただ、短歌サークルが存在する学校はかなり少ないだろう。なければ作ってしまうのもひとつの手ではある。自分以外にも短歌に興味を持っている人がいればの話だが……。
インターネット
もちろんネットで作品を発表してもよい。個人サイト・ブログ・ツイッターなどで短歌を発表している人は多いと思われる。また、ネット上で短歌関連のイベントが行われることもある。
補足:歌会について
上の文中で歌会というものについて少し触れたが、短歌に親しくない人にはイメージがわきにくいと思われるので説明を加えておく。
歌会というと、毎年初めに開催される宮中行事「歌会始」を思い浮かべる人がいるかもしれない。事前に応募された作品の中から選ばれた何首かが、天皇・皇后両陛下をはじめとする皇族がたの作品ともども朗誦される、あの行事である。たしかにあれも歌会の一種ではあるが、日本各地で日々開催されている歌会とは大いに懸け離れたものである。
大まかに言って、現代の歌人にとっての歌会というのは、日を決めてどこかに集まり、参加者の作品に対して批評をしたり感想をのべたりするイベントである。作品は事前に提出する場合もあり当日その場で作る場合もある。また、特定のテーマに沿って作ったり、特定の語を入れて作ったりする「題詠」が行われることもある。批評は参加者相互で行う場合もあり先生的な立場の歌人から受ける場合もある。投票で優秀作品を選ぶこともある。景勝地などに行って現地で作品を作ることもあり、これは「吟行」と呼ばれる。
このように歌会ごとにさまざまな形態をとるので、一概にこういうものとは言いがたいが、短歌をつくる者にとって楽しみな行事であることは違いない。決して歌会のあとに行われるであろう飲み会が主な目的なのではアリマセンヨ?
短歌の技法
枕詞(まくらことば)
ある単語の前に特に意味のない特定の単語が置かれることがあり、これを枕詞という。たとえば下の例では、「ぬばたまの」「あかねさす」という言葉が用いられているが、これはそれぞれ「夜」「昼」の枕詞である。
古代においては双方の語の間に意味上の関連もあったのだろうが、現代ではその関連はあまり意識されなくなっている。
近年、全然絶賛していないにもかかわらず「絶賛立てこもり中」「絶賛遭難中」といったふうに絶賛という語を用いる例がまま見られるが、これなどは現代における枕詞の例と言っていいだろう。
あぢさゐの藍のつゆけき花ありぬぬばたまの夜あかねさす昼(佐藤佐太郎『帰潮』)
本歌取り(ほんかとり)
過去に作られた歌の内容を踏まえて新しく歌を作ること。踏まえられた過去作を本歌と言い、踏まえて新しく作ること、およびその新しく作った作品を本歌取りと言う。
うまく機能すれば作品に過去作のイメージが二重写しになり、内容に大きな含みを持たせることができる。そのため、わずか三十一文字の軽量級文学形式である短歌において非常に重宝される技法である。一方で、読者のほうもその過去作を知っていないと面白さを理解できないという欠点もある。
本歌取りは一般的な修辞学の用語でいうところの「暗示引用」に相当し、短歌に限定しなければ、あらゆる場所で日常的に行われているのを見ることができる。たとえば「あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!」という文章を用いた記事がネット上に無数にあるが、これも暗示引用の一例である。
聞くやいかにうはの空なる風だにも松に音するならひありとは(『新古今和歌集』宮内卿)…本歌
聞くやいかに 初句切れつよき宮内卿の恋を知らざるつよさと思ふ(米川千嘉子『夏空の櫂』)…本歌取り
序詞(じょことば)
ある単語の前に、その単語を導くための前置きとして挿入される語句。ダジャレになっている場合もあり、感覚としては謎かけに近い。
いにしへのしづのをだまきくりかへしむかしを今になすよしもがな(『伊勢物語』)
上の例では、おだまき(糸を巻いたもの)をひっくりかえすことから「くりかへし」という語を導き、時間をくりかえしたいという内容につなげている。
掛詞(かけことば)
一つの言葉を音が共通する二つの意味に用いる技法。ひらたく言えばダジャレである。
音にのみきくのしら露夜はおきて昼は思ひにあへずけぬべし(『古今和歌集』素性法師)
上の例では「聞く」と「菊」、「起きて」と「置きて」、「思ひ」と「日」が掛けてある。ついでに説明しておくと、「音にのみ聞く」は平安時代の恋愛の王道パターンの一つ「会ったこともない相手を噂で聞いて好きになる」であり、「けぬべし」は「消えてしまうだろう」の意である。つまり、
音にのみ きくのしら露 夜はおきて昼は思ひにあへず けぬべし
あなたのことを聞いて 夜も眠れず昼は思いこがれるあまり消え入ってしまう
菊の白露のように夜に置いて昼は日差しに耐えられず消え入ってしまう
というような感じである。自らの心情を露にたとえて歌ったわけで、ここまでくるとただのダジャレでは片づけられない叙情性をもっている。掛詞の真髄と言えよう。
縁語
一首の中に互いに関連のある語を詠み込むもの。
たきの糸はたえてひさしく成りぬれど名こそ流れて猶きこえけれ(『拾遺和歌集』藤原公任)
上の例で、滝の名前が広まるのでも伝わるのでもなく流れると言っているのが縁語である。
句切れ
五七五七七の各句の境目のうち、なんとなく意味の切れ目がありそうなところを句切れと称する。現代人が短歌を朗読すると音の上では三句の後に大きな切れ目が来ることが多い。そのため、意味の切れ目も三句に置いて作ると一首の流れが自然になり、二句や四句に置いて作るととがった雰囲気になる。
- 初句切れ
たとへば君 ガサッと落葉すくふやうにわたしをさらつて行つてはくれぬか(河野裕子『森のやうに獣のやうに』)
- 二句切れ
館いま華燭のうたげ 凍雪に雪やはらかくふりつもりつつ(塚本邦雄『水葬物語』)
- 三句切れ
おほ海の磯もとどろによする浪われてくだけてさけてちるかも(源実朝『金槐和歌集』)
- 四句切れ
人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ(寺山修司『テーブルの上の荒野』)
- 無句切れ(句切れなし)
あの夏の数かぎりなきそしてまたたつたひとつの表情をせよ(小野茂樹『羊雲離散』)
句割れ
句の切れ目ではないところで切れているもの。不自然、唐突などの感じを読者に与えるのを狙っていることがある。
廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て(東直子『春原さんのリコーダー』)
句跨り(くまたがり)
一つの単語を二つの句にまたがって配置する技法。句という概念を解体している。学校の課題で短歌・俳句を作る際にこの技法を用いると、先生が現代短歌に無理解だった場合は失格になるおそれなしとしない。学生諸君は注意のこと。
知る? きみは少し先回りしたあと後ろ向きでそれを見ただけだ(中澤系『uta 0001.txt』)
破調
- 字余り
五七五七七をはみだしているもの。現代においてはこれも技法のひとつと捉えられ、決まったリズムをあえて崩すことによる不安定さを生むなどの効果を期待して用いられる場合がある。もちろん何の意図もなく単に余ってしまったという例も多い。
まりあまりあ明日あめがふるどんなあめでも 窓に額をあてていようよ(加藤治郎『昏睡のパラダイス』)
- 字足らず
五七五七七に足りないもの。字余りに比べると不安定感がより著しい。大きな欠落感や余韻を生むために用いられることがある。
新品の目覚めふたりで手に入れる ミー ターザン ユー ジェーン(穂村弘『シンジケート』)
自由律
五七五七七という形式を完全に逸脱した作品。それ短歌か?と誰もが思うが、なんとなく短歌っぽかったらセーフらしい。
歪形歯車の かんまんなきざみの意志たちの冷静なかみあいの、――この地球のこのおもいおもい午後(加藤克巳『球体』)
多行書き(分かち書き)
現代の歌集・短歌雑誌等で作品が発表される場合には短歌一首を一行で書くのが普通だが、あえて複数行に分けて書くという表現もある。
わかるとこに
かぎおいといて
ゆめですか
記号短歌
短歌の基本である五七五七七の三十一音の一部を、字以外の記号で埋めたもの。はなはだしいものになると、一首の大部分が記号で書かれていたりする。当然音読するのは困難である。
ここはアヴィニョンの橋にあらねど♩♩♩曇り日のした百合もて通る(永井陽子『ふしぎな楽器』)
上の例では三句めが四分音符三個で表現されている。
短歌特有の語法
ほとんど短歌でだけ用いられている(と思われる)特有の語法を下に解説する。これらはわれわれのよく知る日本語の使いかたとはやや違っているだけに、正しい日本語ではないと批判されることもなくはない。(参考)
とう(とふ)
「~という」を縮めて「とう」ということがある。歴史的かなづかいでは「とふ」と書かれる。「問う(問ふ)」とは違うので注意。
恋のうた我には無くて〈短歌〉とふ艶なる衣まとひそめしが(斎藤史『秋天瑠璃』)
格助詞「の」
「〇〇が☓☓する」というときの「が」のかわりに「の」を用いている例がまれに見られる。下の例で言えば、普通の日本語では「湿りが」残っていたというところであるが、「湿りの」残っていたという言いかたになっている。
抱くとき髪に湿りののこりいて美しかりし野の雨を言う(岡井隆『斉唱』)
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